初恋の記憶
それは、約六年前、俺たちがまだ小学校四年生だった頃――
この年の夏頃、クリスは毎日のように俺の家に遊びに来ていた。夜遅くまでいるのは当たり前で、土日なんかは泊りがけで遊ぶ事もしばしばあった。……今思えば、この時既にクリスのご両親は離婚に向けた話し合いをしていたんだろう。それで、子供をその話し合いに巻き込まない為に、じいちゃんに頼んでうちに預けていた、っていう感じだろう。まあ、今となっては理由なんてどうでもいい事だけど。
「ねえ、おじいちゃんは今日は忙しいの?」
「うん。家族連れの人達がいっぱい来てるから、俺たちの分を作るのはムリってさ」
じいちゃんは俺が中学校に入るまでの間、家の一部を使って小さな定食屋を開いていた。なんでも若いころは高級ホテルでシェフをやっていたらしい。そのころを俺は知らないので噂話で聞いた程度の情報だけど。実際、料理の腕は確かだったし、俺も小学校三年生くらいから色々教えて貰っていた。
「じゃあ、あっくんが作ってよ! 教えて貰ってるんでしょ?」
「……まあ、いいけど。マズくても知らねーよ」
「大丈夫! あっくんの作ったご飯なら美味しいに決まってるから!」
「はいはい……」
とまあ、クリスにせがまれて何度か飯を作ったのは今も鮮明に覚えている。今考えても普通の出来でしかないハンバーグなのにクリスに「世界一美味しい!」なんて言われたり、目も当てられないくらいに大失敗した炒飯を二人で涙目になりながら完食したりと、毎回毎回やけに騒がしかった。……でも、それでクリスが笑顔になってくれる事が嬉しくて、気づいたら俺にとってのクリスは“幼馴染”から“好きな女の子”に変わっていた。……その後すぐ、離れ離れになってしまうとは思いもせずに。
――そんな、初恋の思い出。今となっては叶わない恋。
あの頃とは違って、今のクリスは社長令嬢だ。それも、世界に名をとどろかせる巨大グループの。俺の知らない婚約者や許嫁がいて当然だろう。仮にいないとしたって、俺は従者でクリスは仕える対象。身分違いの想いなのは誰が見ても明らかな訳で。こんな想い、クリスやほかの星之宮家の皆さんに迷惑をかけてしまうのがオチだ。……だから、この恋は叶わなくていい。それが一番、皆の幸せに繋がるだろうから。
*
「おーい。……どうしたの? ボーっとして」
「……あ、ああ。ちょっとまだ眠いのかも。もう大丈夫だけど」
クリスの声で我に返る。……おでことおでこがぶつかり合いそうな程の至近距離で、不思議な生き物を見る目をしてこっちを見てる。どうやら、結構な時間ボーっとしてたみたいだ。目の前に迫ってきてる顔に、不覚にもドキッとしてしまう。……この気持ちは、さっさと捨てなきゃいけないのに。クリスが昔みたいな笑顔を向けてくる度、抑え込んだはずの気持ちが暴れだしそうになる。……ダメだな、俺。
「ほんと? さっ、さっさと食べて食べて! 終わったら午前中はお勉強だよ?」
「えぇ……」
「そんな声しないでよー。教えてって言ったのは晃じゃん」
「分かってるけど、付いてける自信がないんすよ……」
学校に通いだして大体二週間。日に日に授業の内容は分からなくなる一方だ。部活の時間を使ってクリスやイネスさんに教えて貰ってなんとかやってるけど、このままだとどっかで頭がパンクしてしまいそうだ。赤点なんて取る訳に行かないから、なんとしてでも頑張らないといけないんだけど……。
「大丈夫だって! いまのところはついていけてるんでしょ? もう少ししたら授業のペースも落ち着くと思うから、そこまではがんばろ?」
「はい……頑張ります」
「よろしい。じゃ、勉強道具とってくるから、食べて片付けしといてねー」
クリスが俺の部屋から出ていく。今日は少なくとも午前中の間はクリスと二人きりか。……うーん、この胸の中に燻るモヤモヤした気持ちを捨て去るのには、まだまだ時間がかかりそうだ。
*
「はぁ……」
「どうしました?」
「いえ、なんでもないですよ」
「そうですか? てっきり、食事中にお嬢様になにかされたのかと。お嬢様はここの所テンションが高いですから。まあ、すべて南雲さんのおかげですけどね。お嬢様に仕える者として、お礼を言わせてください。ありがとうございます」
食器を洗いに厨房に戻ると、同じく食事の後片付けをしていた間宮さんにそんなことを言われた。……別になんにもしてないんだけどな。むしろ助けて貰ってばっかりなくらいだし。
「いえ、特になにかした訳ではないですから、お礼を言われることではないですよ」
「南雲さんがそう思っていても、お嬢様はおそらくそうは思ってないと思いますよ? この前も……失礼、これは言わないよう念を押されたのでした」
「……そう言われると気になるんですけど」
クリスのやつ、何言ったんだろう……? 単なる幼馴染の関係のままなら、この後聞くこともありなのかもしれないけど。今の俺はあくまでも従者。聞くわけにはいかない。でも、めっちゃ気になるなぁ……。
「さあ、あとは私がしておきますから。南雲さんは早くお嬢様のもとにお戻りください。お勉強の約束をしているのでしょう?」
「いいんですか?」
「ええ。お嬢様との約束に遅れるなど、従者として許される事ではありませんよ?」
厳しい事を言ってるけど、表情は優しい笑顔だ。……ここはありがたく厚意を受け取っておこう。
「――ありがとうございます。では、あとはお願いします」
「はい。……お嬢様を、よろしくお願い致しますね。昼食ができたらまたお呼びいたしますので、それまで頑張ってください」
「はい。じゃあ、行ってきます」
こんな風に優しく接してくれる皆のおかげもあって、最近は従者の仕事も楽しいと思えるようになってきた。まあ、勉強とか家事とかが大変なのは変わりないけど、それでもこれなら何とかやってけそうだと思えるくらいには。
……だからこそ、この気持ちだけは封印しないと。皆の期待を裏切らない為にも。