リンの、問い。
甘い匂いがする。
チョコレートの匂い……?
目を開けると、くろたんの愛くるしい寝顔があった。唇は半開きで、まつげは女の子のように長い。俺は今、ベッドの中だ。
ああ、そうか。泊まりか。
くろたんの首を嗅いでみる。うわ。
うわー、チョコレートの匂いがする。なんで?
背後から寝息が聞こえる。振り向く。志太だ。寝顔も微笑んでいる。俺の顔とほとんど距離がないところで。
その上、俺のカラダに抱きついて寝ている。ふわふわ柔らかい。ネコのようだ。
金髪からサワーミントの香りがする。もお、こいつらジャニーズ事務所に届け出だしてもいいな。それか性転換してくれ。我が家は安泰だ。
ケータイを見る。4月4日。午前7時。いつもより二時間も早く起きてしまった。
しかし、なんで誰かが一緒にいると、起きるのが早くなるのだろうか。
俺は部屋から出た。
階段、きしりきしりと少し軋む。朝、琴以外に誰かがにいると、気を遣わないといけないから面倒だ。
洗面所に行き、洗面台に水を溜める。ぱしゃぱしゃ適当に顔を濡らし、洗顔料を泡立てて顔に付ける。
そのまま顔を洗面台に勢いよく突っ込む。「おらああああああああ!」
水しぶきが上がり、スウェットの襟が濡れた。
スッキリだ。目が覚めた。
朝の風が寒いため、前かがみになって歩く。まじでジジィになりそうだ。
朝食は何にしようか。チョコレート・トーストにしようか。
そんなことを考えながらキッチンに繋がるドアを開けると、そこにはリンがいた。
引きドアなので、リンに気付かなかった。距離はキスする手前。
リン、顔面凶器。甘美な意味合いで。
顔が熱くなるのを感じながら、後ろへ一歩下がって、背筋を伸ばしてから「おはよ」と言った。ちゃんと笑えているだろうか。
リンの顔が赤くなる。
「今日は早いな、起きるの」
「あは、はははは……」
右手でうなじを掻きながら、笑うリン。あれ? 目の下にクマがいる。それを見ていることに気付いたらしい。
「ちょっと寝付けなかったんすよ」
「琴がなんかしたのか?」
「いやいや、琴ちゃんには別になにもされてませんよ。あはは」
琴ちゃんには?
「星葉が来たのか?」
「へ? なんで?」
「あれ?」
違うのか。
「先輩の、せいですよ」
目線を一度沈めたあと、リンは硬い表情でこちらを見直す。硬い表情だ。
「俺?」
「はい」
「なにかしたか?」
「先輩が夢の中で盛りにサカり、私の」
「俺関係ないだろ!」
「あははっ」
デコピンをした。「いたっ」柔らかく崩れた。
「朝飯、コーンフレークとイチゴジャムにプレーンヨーグルトでいい?」
「いいっすよー」
「じゃあリビングで待ってな」
「らじゃーっす」
ニカァッと歯を見せて笑い、警官とか軍人のように指をおでこに付け、リンはリビングに消えた。
二分くらい経って、俺は朝食を二人分、リビングの机の上に置いた。
「先輩、イチゴジャム好きなんすね」
「んー? 嫌いだったか? 他のが良いならオレンジジャムと梨ジャムと枇杷〈びわ〉ジャムとかもあるけど」
「どんだけあるんすか!」
「いやな、キジから差し入れきてさ」
「あ……ああ〜。ジャムマンでしたねそういえば」
「春休み前に急に来て、ジャムだけ置いて『あばよ!』だもん。あいつも相当訳わからんヤツよ」
「あははっ」
リンが、スプーンを持つ手を止めた。
「先輩って、結構しっかりしてますね」
「えっ。急にどうした?」
リンが、『尊敬してます目からビィイイイム』を出し始めたので、ビビった。
「だって、琴ちゃんをあそこまで育てたんですもん。しっかりしてますよ」
「そうかねぇ……」
「そうですよ。ウチのお兄ちゃんなんて21歳なのに、まだお母さんから朝、起こして貰ってますから」
「プー太郎さんかよ」
「あははっ」
俺がしっかりしてんのは、お前が俺に料理とか、洗濯とか、色々教えてくれたからなんだよ。覚えてないのか?
「そろそろ食えよ。べっちゃべちゃになるぜ?」
コーンフレークを指差した。
「おお、そうすね」
カチャカチャとスプーンが音をたてる。
甘ったるいイチゴジャムは、酸味のあるプレーンによく馴染む。
コーンフレークは殆ど無くなり、牛乳を残すのみとなった。
ヨーグルトも食べ終え、牛乳を飲みほす。
ケータイを開く。午前7時半。話していたからか、時間がもお、そんなにも過ぎていた。
爽やかなファーストブレイクでも、時間を掛ければ腹も膨れるらしい。
「ふぅー、ごちそうさまっした」
「ん、ああ。ごちそうさま」
食器を全部お盆に乗せる。
「ありがとうございました」
座ったまま、リンは頭を下げる。
「いいって、そうゆうの」
俺はキッチンに行った。
洗い場。泡の付く手は冷たい。でも、なぜか嫌いにはなれない冷たさだ。
今は暖かいとさえ、感じる。
リビングに戻ると、リンの大きな目は、半分しか開いていなかった。
「眠いのか? リン」
「はー、はい。なんか、先輩と話してると、気が安らいじゃってぇ……」
「ははっ。そりゃ良かった。よっ」
「ぅゎ」
俺はリンを持ち上げ、そのまま、ソファーに横にした。
「先輩、びっくりしました……」
「そうか? わりいな」
「ぃぇ……」
ちょっと顔が赤い。風邪気味か?
「ちょっと待ってろ」
俺は自分の部屋の押し入れから布団を持ってきて、リンのカラダに被せた。
「俺のだから、ちょっと男くせえかもしんないけど、ガマンしろよ?」
俺がそう言うと、リンは顔を布団に隠した。
「……イカくさぁい」
「してねえっつの!」
目から上だけを覗かせるリン。
「襲いたくないですか?」
「布団剥ぐぞ……。寝るなら、さっさと寝ろ」
「ぁははっ。そうすっよね。先輩はそう言う人なんっすよね。……するわけない」
手招きするリン。なんだよ。そう思いながら近付くと、リンの口から今は有り得ないはずの言葉が漏れ、俺の耳はそれを拾いあげる。
耳を疑った。
なんでだ。もお、違うんじゃなかったのか。ああ……。
俺は、良い大人なのに。自分の幼稚さに腹が立つ。
『先輩が好きです。……私じゃダメですか?』
リンの口から漏れた言葉だ。
俺は頭を掻いた。
もう一度見ると、そいつは寝息をたてていた。今のは寝言か?
そうだとしても。
「あ。おはよう、お兄ちゃん」
「ん……」
俺も寝てしまっていたらしい。
午後1時。はやっ。
「おはよ☆」
星葉、来たのか。
ソファーに寄りかかって寝ていた俺は、立ち上がってキッチンで水を飲んだ。
リビングに戻る。
俺を見て、くろたんが丸くなって堪えるように震えた。
「どうしたんだ?」
くろたんがシェル状態から、そおっと俺の顔を見て、吹いた。おい。
「星葉」
「なに☆」
顔がにやけてやがる。
もう一度ケータイを見ると、おおう、こんなに髭だるまだったかねぇ俺は。落書きだよオイ。
「志太」
ぽたぽた焼きを食べている志太を呼ぶ。
「ん?」にこり。
「これやったの誰?」
「言っちゃダメさ☆☆」
「へえ。お前ね」
「しまったさ☆☆☆」
「馬鹿だなぁ、ホシ」にこり。
血湧く、血湧く。
ゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキ。
「にゃあああああああああああああああああ☆☆☆」
死亡。
「んん……」
ソファーに寝ているリンが起きた。
「おはよ」
「ん……おは誰!?」
ひでぇ。
午後7時。
「そろそろウチも帰りますね」
「ああ」
「またねー、リンちゃん」
リンは琴の頭を撫でたあと、玄関へ向かった。
俺はそれを追う。
「リン」
「はい?」
笑顔でこちらを向く。
「俺さ、お前とは友達でいたいんだよ」
「……はい」
リンは俺の目を見ていた。俺の目をしっかりと。そして笑った。夕焼け空のような寂しい笑顔。
「はい、分かってますよ」
玄関ドアを、リンは開けた。
「またな」
「あははっ。はい」
ドアは閉まった。
ごめんな……。
フったのは、俺なのに。
涙が口に流れ込む。
*
「お兄ちゃん?」
涙がおさまるのを待っていたら、いつの間にか琴がいた。
「どうした?」
「いや、いつまで経っても戻ってこないから」
時計、7時20分。まじか。
リビングに戻る途中、ケータイが震えた。
メールだ。リンから。
開く。
{コトちゃんにキスしたのって…女の子として好きだからですか?}
生まれて初めて、冷や汗を流した気がした。
そうか。琴に聞いたのか。
ああ。そうか。そうか。そうか。そうか。そうか。そうか。
『……私じゃダメですか?』
そうか。
ああ、琴に口止めしておけば良かった。
そしたら俺は、気付かなくて済んだんだ。いろんなことに。
そんなことばかり思いつくんだな、俺。
下を向くと琴の背中が服の隙間から見え、愛しく思ったが、なにもできなかった。
リン視点
午後9時。
自分の部屋。
ベッドの上に一人。ウチ一人。
琴ちゃんがキスされたってこと聞いたあと、先輩に本当か訊こうかと考えていたら、切なくなった。
その切なさは、まだ先輩を諦められないことからだと、先輩に朝会って気付いて。どうしようもなくて。告白しようと思って。
でも今更どうすればいいか分からなくて。だから眠気に乗せた。今思えばバカだ。全部わけが分からないままの行動だ。
でも、あんないい加減な告白を、先輩は真面目に答えてくれた。
嬉しかった。でも悲しかった。
ふられたんだ。
だからイジワルな質問をしてしまったのかもしれない。
取り消したかった。
「なんで、はあっ、あんな、うっ、メール、送っちゃうかなあぁぁ……」
胸の中が、ぐちゃぐちゃになる。
ばぁあああん!←ドアが開いた。
びくっ!
「リン! 風呂、空いたぞ!」
そこには、大事な部分をタオルで隠した湯気オーラむんむん、筋肉むきむきの兄がいたぎぁああああああああ。
「出てけっつーか、空気読めぇ!!」
蹴り。オトコの大事な部分を。
「ぬぁあああああああああああああ」
タオルが外れた。
ぎぁああああああああああああああああ。