終焉魔女とオオカミくん
森の奥には世界の終わりを見つめる魔女がいる――。
誰もが信じ、誰も真実を知らないおとぎ話だ。真偽のほどは定かではなく、だからこそ本当かもしれない。
希望と呼べるほどのものは抱いていなかったが、それでもほんのわずかに期待を託して、ウルフィオは森の中に足を踏み入れた。
満足に食事を摂れていなかった体にはうまく力が入らず、何度も木の根に躓いた。どこに行けば終焉魔女に会えるのかもわからず、とにかく前を向いて進む。
終焉魔女なら、自分を受け入れてくれるかもしれない。
ウルフィオの胸にあるのはその思いだけだ。
灰色の髪に覆われた頭頂部から飛び出す二対の三角形。腰に下がるぱさついた毛玉。
本来はピンと天を向くだろう耳と尻尾は、無残に垂れ下がるのみである。耳と尻尾に引きずられるように、やがてウルフィオ本人も倒れ込んだ。
張り出した木の根に足を取られてのことであるが、起き上がる元気がわいてこない。空腹と、慣れない森歩きでの疲労から、ウルフィオの意識は夢の世界へと旅だった。
「あら、珍しい。犬……、じゃないわね。狼かしら? ここまで来るなんて、あなたよく頑張ったわね」
倒れ伏したウルフィオの側に一人の女がかがみ込んだ。そっと頭をなで、頬をなぞって目の下の隈をさする。見るからにくたびれた様子に痛ましげに目を伏せると、そっとウルフィオを抱え上げた。
「う、重い……」
四苦八苦してどうにか背中に乗せることに成功すると、ゆっくりと来た道を戻っていった。
目が覚めたら高い天井が見下ろしていた。
「!!」
「起きたの? おはよう」
驚きに身じろぐと軽やかに挨拶をよこされた。視線をよこせば見知らぬ女性がにっこりと微笑んでいる。
「あの」
「ふふ、よく眠れて? あなたを運ぶのは大変だったわ。なんせ重くって」
「あ、ごめんなさい……」
「やぁだ、謝る必要なんてないのよ? きっとあなた、軽すぎるくらいでしょうし」
白い手がウルフィオの細い腕を取る。筋張った腕がさらされて、にわかに恥ずかしくなった。同時に、自分が寝台に座り込んでいることにも気づいた。
ウルフィオは森を歩いていたのだ。何度も転んだ。当然体は土や草の汁で汚れている。慌てて掛布をめくると、敷布に汚れが付着しているのが見て取れた。
「ごめんなさい!」
「今度はなにに謝っているの?」
「おふとん、汚してしまって……」
「構いやしないわよ。私も汚すもの。洗えばいいのよ、洗えば。まあ別に洗わなくても寝られるし」
蒼白になって寝台から下りようとしたウルフィオを押しとどめる。寝台は清潔であるに越したことはないが、二、三日洗わなくとも充分役目は果たせるものだ。
「そんなことより。私はミレニア。あなたは?」
寝台についた茶色や緑のシミを気にした風もない。無邪気な笑みになんだか毒気を抜かれて、ウルフィオも体の力を抜いた。
「あ、僕、ウルフィオです。あの、えっと、オオカミの……亜人、です」
「やっぱりオオカミなのね! 最初は犬かと思ったのよ、でもなんだか犬より立派な気がして。あ、触ってもいい? いいわよね!」
ウルフィオが何か言う前に、ミレニアは嬉々として三角形の耳に手を伸ばした。
興奮して力を入れすぎないように注意しつつ、手のひら全体で覆うように握ってみる。もふっとした感触が伝わってきて密かに身もだえた。栄養不足からくるものだろう、毛づやが悪く潤いも足りていないが、案外硬質な毛は癖になりそうだ。
「あの、そろそろ……」
「! ごめんなさいね、夢中になっちゃった」
無心で触っていると耳の持ち主からストップがかかった。名残惜しくも耳を手放す。ウルフィオは顔を真っ赤にして震えていた。くすぐったかったようだ。
「さて、じゃあ、耳のお礼に。まずはこれを食べなさい」
ミレニアが差し出した器には湯気の立つスープがよそわれていた。促されるまま口をつける。温かな液体が喉を滑り落ち、体を内から暖めてくれる。
ほう、と息を吐き出すと、胃が空腹を思い出したのか、間の抜けた音が響いた。
「好きなだけ食べるといいわ、おなかがいっぱいになるまで。誰も邪魔しないから」
優しく言い聞かせられて、羞恥で顔が赤くなった。同時に安心もする。本能が訴えるまま食事を続け、五回ほど器を空にするとようやく落ち着いた。
寝台に腰掛けたままものを食べるなどとんでもない贅沢だ。夢見心地で息をついていると、ミレニアが姿勢を改めた。
「ウルフィオくん。あなたはなぜ、森の奥で行き倒れていたの?」
「……終焉魔女」
「終焉魔女?」
「終焉魔女のところなら、僕がいてもいいかと思って。僕は亜人だから」
「なるほどね」
亜人とは、人ならざる部分を持って生まれる者の総称だ。普通の人間の両親から生まれてくる彼らは、特異な見た目からほとんどの場合迫害される。妖精や悪魔のいたずらによって生まれるといわれるため、遠ざけようという傾向が強いのだ。
ウルフィオもその例に漏れず村を追われたのだろう。
「両親は頑張って僕をここまで育ててくれましたけど、やっぱり村に居づらかったみたいで。森に行けば、どうにかなるかと思ったんです」
聞けばウルフィオは十歳だという。村八分のような状態で育てられていたが、ついに限界が来た。これ以上両親を苦しませるのも忍びないと、ウルフィオは家を出てきたのだそうだ。
「確かにどうにかなるかもね。だって、あなたはたどり着いたもの」
「え?」
「森の中で倒れて、こんなところに寝ていたのよ。不思議に思ったでしょう?」
言われてみればそうだ。室内を見渡すと、足の方向に扉があり、その真正面に火にかけられた大鍋があった。大鍋の横には流しが据え付けられ、調理器具が整然と並べられている。
丸い部屋の壁に沿うように棚や引き出しが置かれ、振り仰げば絡み合った何かが見えた。
呆然とミレニアに視線を戻すと、妖しい光を湛えた双眸がウルフィオをとらえる。
「ようこそ、終焉魔女の棲む家へ」
まぶたを貫く光で目を覚ます。
終焉魔女の家は大木の中に作られている。どういう構造をしているのかはわからないが、朝になるとはるか上の方から太陽光が降り注ぐのだ。頭上で入り組んでいるのが枝だと知ったのはいつの頃だったろう。
顔面に容赦なく光が当たるせいで、ウルフィオはここに来てから寝坊知らずになった。目を閉じていても眩しい光の洪水のなかで眠れるのは、ミレニアくらいのものだ。
現に今も隣で掛布に包まれ、気持ちよさそうに寝息を立てている。ウルフィオが寝台から出ると、掛布を手繰り寄せてミノムシのようになった。
その姿を愛おしそうに見つめてからウルフィオは大鍋に近寄った。
終焉魔女の仕事はいたって簡単だ。やるべきことは二つ。
大鍋の火を絶やさないこと、住居でもある大木に水をやること。
この二つだけだ。
幼かったウルフィオに、ミレニアは丁寧に説明してくれた。
「大鍋の火は決して絶やしてはいけないわ。何をくべてもいいけれど、火が消えることだけはないようにするの」
「どうして、ですか?」
「これの中身はね、薬なの。もちろん、ただの薬じゃないわ。世界中のありとあらゆる薬よ。火が消えると全ての薬が効力を失うの。だから終焉魔女はこの大鍋の火だけは、なにがあっても絶やしてはいけないのよ」
世界中の薬だという大鍋の中身をのぞくと、たしかにそうなのだろうと思わせる雰囲気があった。
「しばらく見つめてごらんなさい」
「……あ! 色が変わった!」
一見すると緑色の濁った液体だったものが、見つめるうちに透き通っていく。煮立っているように見えた水面もやがて凪ぎ、鏡のようにウルフィオの顔を映しだした。
「私はこれを鏡がわりにしているのよ」
いたずらっ子のように笑ったミレニアを思い出して、ウルフィオの口元が緩んだ。
大鍋の火は今日も燃えている。様子を見つつ薪を足した。
「次は水やりだな」
玄関扉を押して外に出る。樹齢を予想することすら馬鹿げているほど太く、高くそびえる大木が終焉魔女の住処だ。幹に手を当てると水を吸い上げる鼓動を感じられる。
そのままぐるりと半周して家の裏手に出ると泉が湧き出ているのだ。大木にかけるのはこの泉の水でなくてはならない。
これもミレニアに教えられたことだ。
量に規定はないが、何度か往復して水を運んでいると、大木が満足したように枝葉を揺らした。ウルフィオはこれを目安に水やりを終わらせることにしている。
ついでに大木横で世話されている家庭菜園にも水をやっておく。生活用水はすべてこの泉の水でまかなわれているのだ。
神聖なものではないのかと問うたウルフィオに、罰が当たってないから大丈夫と、根拠のない自身に胸を張っていたミレニアを思い出して失笑してしまった。
家に戻ると、ミレニアが起き出していた。大鍋の隣で鍋を火にかけている。泉の水といい、大鍋の扱いといい、大切なもののはずなのにどうにも扱いが大雑把だ。
「おはようございます、ミレニアさん」
「おはよう、ウルフィオくん」
あくびを噛み殺す姿に苦笑が漏れる。
「今笑った? 言っておくけど、あなたがいないときは私だってもっとしっかりしてるのよ」
「はい、わかってますよ」
「あなたが来た最初の頃はちゃんとしてたでしょ」
「そうでしたね」
寝ぼけ眼をこすりながら言われた。年齢に見合わない幼い仕草だが、無防備な姿を見せられていると思うと遠吠えしたい気持ちになる。
オオカミの亜人だからといってオオカミではないので実際はしないが。気持ちの問題だ。
「卵焼きましょうか。僕やりますよ」
「あなた、大きくなったわよねぇ」
しみじみとした声に視線を向けると、ミレニアが白湯を飲んでいた。先程火にかけていた鍋の中身は泉の水であり、寝起きに白湯を一杯飲むのがミレニアの日課である。そうしないとお腹を壊すらしい。
「何ですか、急に」
「だってそれ、私には重くて扱いにくいから上に置いてあったのに。いつのまにかあなた専用のフライパンになっちゃって」
ウルフィオが手にしたフライパンを指差す。重いし柄が長すぎるし一人で使うには大きいしということで、高い位置に吊るしておいたそれが、ウルフィオ専用になってどれほど経つのだろう。
「まあ僕も成長しましたし」
「ほんとにね。ちょっと屈みなさい」
出会った頃は重くても抱き上げることができた少年は、今や立派な青年になった。
「変わらないのはこの耳だけよねー」
もしゃもしゃと頭の三角形を撫で回す。陽の光に天使の輪を浮かび上がらせるほど艶やかになった髪だが、毛質は相変わらず硬い。
「ミレニアさんは変わりましたね」
「何よ、老けたって言いたいわけ?」
ぴくり、と震えた指に徐々に力が込められる。耳を挟まれてはたまらないとばかりに、ウルフィオが曲げていた腰を伸ばす。するりと耳が手から逃げ、ミレニアでは背伸びしても届かない位置に行ってしまった。
「そうじゃなくて。なんだか可愛くなったと思って」
「はい?」
「だって、僕が来たときは色々世話をされる立場だったでしょう? それが今はこうやってお手伝いできるし、させてくれるのが嬉しくて可愛いなって思うんです」
照れたように染まる頬に合わせて、ふさふさの尻尾が揺らめく。本当に嬉しそうな様子に、声になり損ねた音が喉奥で鳴った。
「そろそろ卵なくなりそうですね、牛乳もないや。僕、今日街まで買い出しに行ってきます」
「……別に行かなくてもいいのよ? 生活はできるし、お肉だって手に入るんだから」
家庭菜園で育つ野菜があれば栄養は事足りる。肉だって、時折年老いた獣が大木のそばに姿を現すから、それの肉を食べることができる。終焉魔女が暮らしていけるように、必要な物は手に入るようにできているらしい。
「そうですね。でも、卵はなかなか手に入れられないでしょう。それにベーコンだって」
お好きでしたよね、と首を傾げられては否とは言えない。塩気の効いた燻製肉はミレニアの好物だ。街でウルフィオが買ってきて以来すっかり骨抜きにされてしまった。
「大丈夫です、帽子で耳は隠せますし、尻尾だってズボンに入れてシャツで隠せばばれやしませんから」
ウルフィオはひょうひょうと嘯いた。亜人は忌避される存在であるため、耳と尻尾を見られた瞬間迫害の対象になりかねない。ミレニアの懸念をありがたく受け止めはするが、街に行くことをやめるつもりはなかった。
行き場のなかった亜人を拾い、両手の指を超えそうな年月をともに過ごしてくれたのだ。ミレニアの食生活を豊かにするための外出はまったく苦ではない。もう幼子ではないのだし、うっかり正体がばれるような愚も犯さない。
「はぁ。気をつけなさいね」
諦めて嘆息したミレニアは釘を刺すことは忘れず、ウルフィオの用意してくれた卵焼きに舌鼓を打ったのだった。
「牛乳、卵、ベーコン、と。たまにはチーズもいいかな」
必要な食材を買い込んでいく。買い出しに出る街は酪農が盛んなため、欲しいものが安価で手に入るのは素直にありがたい。
「よいですか、みなさん。私たちは正しく生きなくてはなりません」
荷物を抱えて歩いていると、空き地での説法に遭遇した。神職とおぼしき男性が声を張り上げ、正しく生きる方法を語っている。曰く、命は大切、親は大切、愛は大切。
いと尊き神が生み出した人間という生命の正しさ、美しさを一身に伝える熱量はすさまじいものがある。
「はい! ただしくいきないと、どうなるんですか!?」
聴衆のなかから元気な声が響いた。小さな手を精一杯伸ばしての質問に、慈愛に満ちた笑みが向けられる。
「いい質問です。正しく生きることができなかった場合、亜人が生まれます」
ウルフィオの背筋が強ばった。
「あじんってなんですか!」
「亜人というのは、人間から外れた生き物のことです。親が正しくないと、その子どもは生まれながらに正しくない。亜人は妖精や悪魔といった悪いものが生み出すのですから」
無邪気な質問に丁寧に答えを返す様は優しい聖人だ。彼は自分が信じる教義を広めているだけで悪意はない。
「親が正しくないからか」
そういう考えもあるだろう。ウルフィオ自身は微塵もそんなことは思っていない。苦しいなかでウルフィオを育ててくれた両親には本当に感謝している。終焉魔女の話を聞かせてくれたのも彼らだ。
亜人の扱いについていまさらなんの感慨もわかない。街で暮らすことは難しいだろうと思うだけだった。
「ミレニアさん!?」
大木の周りは円形に開けているのだが、その円の縁で倒れ伏す人影を見つけて血の気が引いた。荷物を足下に転がし、あたふたと駆け寄る。抱き起こすと、ぐんなりと力のない肢体がもたれかかってきた。心臓が早鐘を打ち、一瞬で嫌な汗が全身を濡らす。
「ミレニアさん、ミレニアさん! 聞こえてますか!?」
「……もっと、耳を、もふらせなさぁ~い」
最悪の想像を振り払おうと頭を振るとのんきな声が聞こえた。腕の中の終焉魔女に目を向けると、だらしなく口元が緩んでいる。
「え、眠ってるだけ……?」
なんと人騒がせな女性だろう。この一瞬でウルフィオの寿命が三年は縮まったというのに、当人は眠りこけているだけとは。
「いや、でもなんでこんな場所で寝てるんだ」
明らかに倒れ込んだ風であったからウルフィオも焦ったのだ。単に外でお昼寝、というのであればもっと寝心地がいい場所があるだろうに。
考えても詮無いことと割り切り、ウルフィオはミレニアを抱き上げた。まずは寝台まで運ぶのが先決だ。
ミレニアが運ぶのに苦労した少年が、軽々とミレニアを抱えられるようになるなど、彼女は想像もしていなかったに違いない。
意識が覚醒したことで、自分が眠っていたのだと気づいた。いつの間に眠り込んだのか、まったく記憶がない。直前に見た夢のことは強く脳裏に焼き付いているのだが。
「ミレニアさん! よかった、起きましたね」
「なに、どうしたの、そんな顔して」
「帰ってきたらミレニアさんが倒れてて。寝るんだったらちゃんと寝台でお願いします。……心配、したんですから」
ミレニアの手を握りしめてうつむくウルフィオに申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい、心配かけたみたいね。ちょっと確かめたいことがあったんだけど、これでわかったわ」
「何を確かめたかったんですか、地面の寝心地ですか。だったらもっとわかりやすくお昼寝してください」
「私が森を出られるかどうか」
「え?」
「私が森を出られるか、確認したのよ。無理だったみたいだけど」
「どういうことですか?」
泣きそうな、怒ったようだった顔が見る間に困惑に染まる。ミレニアの真剣な声音に、大事な話だと悟る。ミレニアは寝台に横たわったまま、寝返りを打ってウルフィオに向き合った。
「私はミレニア。終焉魔女よ。そして、大鍋の薬を飲んだの」
ミレニアが森に入ったのは七つの時だ。九人兄弟の真ん中に生まれた彼女は生まれながらに病弱だった。些細なことで病を得、少しの運動で咳き込む。常に何かしらの病魔に冒されている彼女は、家族のなかでいなくてもいい存在だった。
自分がいらないことを敏感に察知したミレニアは家出を決意する。
「あなたと一緒よ、ウルフィオくん。終焉魔女ならどうにかできると思った」
実際どうにかなったのだ。ウルフィオ同様森で行き倒れ、次に目が覚めたら寝台に寝かされていた。家の中にはミレニア以外にもう一人、老婆がいた。先代の終焉魔女である。
「ちょっと、待ってください。先代? 終焉魔女は永遠に生きるから終焉魔女なんでしょう?」
眉根にしわをよせたウルフィオに首をふって否定を示す。
「終焉魔女は人よ、ただの人。代替わりをして、大鍋と大木の番をするだけの人」
呆然と目を開くウルフィオをおいて話は進む。ミレニアは淡々と言葉を継いでいく。
老婆はミレニアに選ばせてくれた。大鍋の薬を飲むか、飲まないか。どんな副作用があるかわからず、そもそも飲んでいいのかもわからない。
たぶん悪いことにはならないだろう、程度の根拠しかない薬。ミレニアは飲むことを選んだ。生きたかったのだ。
結論として、何も問題はなかった。病弱体質は消え去り、そこからは老婆の下で暮らした。今のウルフィオのように。
「そして私は、彼女が死んだときに終焉魔女になった」
「…………」
「何年かに一度、ここまでたどり着く子どもがいるんだって。私やあなたのように。そういう子の一人が次の終焉魔女になる。そうやって、ずっとここを守ってきたの」
何も言わないウルフィオを見上げる。動揺を示すように耳が垂れている。ぺたりと伏せられた耳は握りつぶしたくなるほど可愛い。
「ここはね、森の中心なのよ。ありとあらゆる森の中心で、行こうと思ってもたどり着けない神秘の場所。私は薬を飲んだから、この場所以外には行けないの」
「行けない……?」
「そう、行けない。森から出られるかと思って試してみたら、結果はウルフィオくんも知っての通り」
「俺は、街に行けます。なんで」
「ウルフィオくんは薬を飲んでないから」
薬の代償は終焉魔女の役目。決して放り出すことはできない大事なおつとめだ。今まで森から出ようと思ったことはないし、終焉魔女の仕事も苦ではない。まったくもって困らない代償だったのだ。
「なんで、急に森から出ようとしたんですか」
消沈した声に罪悪感が刺激される。いきなり倒れていて、目覚めた途端に身の上話は重かったかもしれない。だが、懐かしい夢を見て話さずにはいられなかった。
ウルフィオと見つめ合う。静かに答えを伺う瞳に熱が宿るようになったのはいつからだろう。長く一緒に過ごすうちに、拾われた恩が別の感情に変わることはおかしなことではないのだろう。周囲に人気のない環境とくればなおさらだ。
そこに思い至らなかったのはミレニアの失敗だ。亜人に外は生きにくかろうと手元に置いたのが間違いだった。亜人であっても生活の術を確立している者はいる。そういう場所へ送ってやるべきだったのに。
ミレニアも久しぶりの人肌にほだされた。もふもふの耳と尻尾を持った少年は、懸命にミレニアの後を追いかけてきた。
終焉魔女なら受け入れてくれる。無垢な期待と無邪気な信頼は、ミレニアの寂しい心を満たしてくれた。
「ミレニアさん、教えてください」
「デート、しようと思って」
「どういうことですか」
「あなた、私のことが好きでしょう? 熱病みたいなものだって思ってたけど、街に行き始めてもウルフィオくんは変わらなかった」
「――!」
ウルフィオが息を呑む。一つ屋根の下で暮らし、夜は一つの寝台を分け合って眠っている。気まずくなることだけは避けたいと、ウルフィオは自分の想いをひた隠しにしてきた、つもりだった。
「ごめ――」
「謝らないで。私も、同じだから」
ミレニアに恋愛経験はない。七つのときから二十年以上も森で暮らしてきたのだ。恋愛初心者が他者の好意に気づいた理由はただ一つ。
ミレニアもウルフィオを好きになったのだ。
「ウルフィオくんのこと、好きになって。私も他人との接触がないから気のせいだと思おうとしたのよ。でも、あなたってばどんどん立派になるから。しかもそんな目で見るし」
思わず、といったように両目を押さえたウルフィオに笑いが漏れた。彼の瞳はいつだってまっすぐにミレニアを見つめていた。そこに浮かぶ感情はなににも遮られずミレニアに届いていたのだ。
意中の相手に気持ちがばれていたと知り、ウルフィオの毛が逆立った。尻尾など倍の大きさに見える。
「ウルフィオくんとデートして、思い出を作って」
真っ赤な顔でウルフィオがミレニアを見つめている。おもむろに身を起こし目線の高さを合わせると、ミレニアは告げた。
「ここを出て行きなさい」
「!! なんでですか! 俺のこと、好きなんでしょう、今言ってくれたじゃないですか! 俺だってミレニアさんのこと大好きなんですよ!!」
「私は、くんを終焉魔女にはしたくない。広い世界を知って欲しいの」
「嫌です! 亜人の俺はどこに行っても疎まれる。終焉魔女としてあなたと暮らす方がよっぽどいい」
勢い込んで掴まれた肩に指が食い込む。双眸はぎらぎらと光を放ち、まるで本当のオオカミのようだ。
「森以外の場所を見て、あなたは自分の生きる場所を選ぶ権利があるわ。だから」
「今日、街でありがたい話をしていました。亜人が生まれるのは、正しくないことをしたからだって。亜人は罰なんだそうです」
「そんなことは」
「俺は亜人です、どこに行ってもそう言われるんです! 最初に言ったし、あなたも思っていたんでしょう『終焉魔女なら』って! 生きる場所を選ぶ権利があるなら、俺はここを選びます」
心をむき出しにした叫びに流されそうになる。ウルフィオが自分の意思で森に残ることを決めてくれるなら、これほど嬉しいことはない。しかし、彼を終焉魔女にはしたくない。
終焉魔女の仕事が悪いわけではない、孤独を強いたくないのだ。
ウルフィオがいる限り、他の子が迷い込むことはない。一度にやってくるのは一人だけ。つまり、このままウルフィオが滞在する限り次代の終焉魔女はウルフィオが担うしかない。
誰かがたどり着くまで終焉魔女は独りきり。ずっと代わり映えのしない毎日を過ごすことになる。
そう訴えたミレニアを、ウルフィオが我慢ならないとばかりに抱きしめた。力加減などされていない、つぶされそうな抱擁。それがウルフィオの気持ちの強さを表しているようで泣きたくなった。
「だったら、なおさらここを選びます。俺は街に行けるけど、あなたはずっとここにいるしかない。正真正銘のひとりぼっちだ。そんな寂しいこと、俺がさせません。俺がそばにいます」
ウルフィオは繰り返しミレニアへの愛情を語る。ひたむきな想いに溺れてしまいそうだ。
「ミレニアさん、俺のことはいいです。あなたはどうしたいですか? 俺のためとか、そんなの考えずに。俺と一緒にこの先も暮らしていくのは嫌ですか?」
甘やかすように耳元でささやかれて、決意が揺らぐ。出て行って欲しいのはウルフィオのためだ。ミレニアの希望だけを言うなら、ずっとここにいて欲しいに決まっている。卵もベーコンも、彼がいなくては食べられない。重いけど熱の通りはいいフライパンで、おいしい卵焼きを作って欲しい。
背中に回そうとして、回せない腕は所在なさげに宙を掻く。
「ミレニアさんがどうしても俺に出て行って欲しいって言うなら仕方ありません」
そう言って体を離したウルフィオに、安堵と失望を覚えた。身勝手な感情に苦笑しそうになったが、次の行動を見て血の気が引いた。
「俺もこれを飲みます」
視線の先には火にかけられた大鍋がある。住人の騒動など気にもとめず、赤々と燃える火でありとあらゆる薬を煮詰め続けている。
「だめ、待って、待ちなさい! それは、それだけはダメ!」
ただでさえ毒と薬は表裏一体なのだ。どんな副作用があるともしれぬ薬を、健康な体に摂取させるわけにはいかない。
寝台から飛び出し、腰にすがりつくようにして止める。見下ろす瞳はこちらを食い殺しそうな激情をはらんでいた。
「ミレニアさん、好きです、大好き。あなたと一緒にいられるなら、どうなってもいいです。ここに縛り付けられたっていいんです」
感情が高ぶりすぎたのか、涙までにじませて懇願する様に庇護欲が刺激される。
ダメだ、とそう思った。この瞳はダメだ。幼い頃に何度もミレニアを刺した瞳だ。
捨てないで、側に置いて、いい子にするから。
ミレニアにも覚えがあるから、もう拒絶できなかった。
「……あなたは、薬を飲んではダメ。いつでも出て行けるようにしておくこと。それが、これからも私といる条件よ」
「それって! ――ミレニアさん、大好きです! ずっと一緒にいてください!」
選択肢を残しておくよう言い含め、ミレニアは大きなオオカミにほだされることにした。薬を飲もうとされるよりこちらの方が断然いい。そしてなにより、怪しい薬を飲んでもいいと思うほど愛されているのだ。
酩酊しそうなほど酔いしれる。ウルフィオの暖かさに、愛し愛される幸福に。
「それにしても、どうしようかしら……」
「どうしたんですか?」
憂いを帯びたため息を吐くミレニアに、ウルフィオは首を傾げた。ウルフィオの滞在を認めたミレニアだが、そのかわりに悩む姿が増えた。深刻な悩み、という風ではない。手の空いた時間に思案にふけっているのをよく見かけるのだ。
「悩みがあるなら、俺に相談してください。俺はあなたの力になりたいんですから」
「ありがとう。いえね、次の終焉魔女をどうしようかと思って」
「次の、ですか」
「今までは迷い込んできた子どもが終焉魔女を継いでたのよ。でも、あなたがいる限り他の子は迷い込まないのよね。本当に、どうしようかしら」
「俺じゃダメなんですか?」
このまま自分が終焉魔女を継ぐのでは不都合があるのかと問いかけると、空恐ろしい目でにらまれた。思わず姿勢を正してしまう。尻尾も腰の後ろで垂直に天を向いている。
「あのね、私はあなたを置いていくつもりはさらさらないわよ」
「え? あ、ああ!」
「まったく、バカなんだから」
一拍遅れてミレニアの言いたいことを理解する。ミレニアは自分たちが死んでしまった後の話をしているのだ。ウルフィオがいる限り他の子どもは迷い込まないし、ミレニアとウルフィオは死ぬ時も同じだ。そうすると次の子どもがやってくる前にこの家が空になってしまう。それをミレニアは懸念していた。
「ちょっと、何を笑っているの! これは大切なことなのよ」
「えへへ、すみません。でも、嬉しくて。俺と死ぬまで一緒だって、そう思ってくれてるんですよね!」
締まりのない笑みを浮かべるウルフィオをミレニアがはたいた。頬も目元も紅潮している。照れ隠しだと容易にわかる表情を見て、ウルフィオの口元がさらに緩んだ。
「でもですね、ミレニアさん。その問題を解決するのは簡単ですよ」
「本当!? どんな方法なの、聞かせてちょうだい!」
喜び勇んで飛びついたミレニアを難なく抱き留め、そのまま柔らかな体を押し倒した。急に視界が反転したミレニアは、きょとんと目を瞬いている。徐々にいぶかしげに寄せられる眉に不機嫌を察知して、ウルフィオは先手を打った。
「俺たちの子どもに終焉魔女を継いでもらえばいいんです」
「は? こども、って何言って」
「新しい子が来られないなら、俺たちで作っちゃいましょう。俺、ミレニアさんとの子どもが欲しいです」
「ええ?」
耳元に唇を寄せてささやくも、困惑したような声で胸元を押し返される。
「あのね、そんな理由で子どもを作るわけにはいかないわ。生命には責任があるの。自分たちの都合で――」
正論を吐き出す唇に人差し指を押し当てて、流れ出る言葉を止める。仰向くミレニアの顔の両脇に手をついて、真上から見下ろす。
「家族が、欲しいです」
口にしたのは心底から望むこと。両親が亜人の子どもを育ててくれたように、自分も愛する相手との子どもを愛し育みたいと思ったのだ。
「大好きなミレニアさんとの、家族が欲しいんです」
真剣なまなざしに見つめられ、ミレニアの瞳が泳ぐ。終焉魔女を継がせるためだけに子どもが欲しいというなら論外だが、家族が欲しいと言われれば無碍にはできない。ミレニアとて、いつか自分の子どもを抱けたらと夢想することくらいはあった。夢が手の届く位置にやってきて、後は自分の手を伸ばすだけ。
「子ども、子どもね。確かに、それはいいかもしれない。でもやっぱり、終焉魔女にするために産むのは」
「俺、大家族がいいです。たくさんの子どもがいれば、一人くらい進んで終焉魔女になりたい子がいると思います。俺も終焉魔女の仕事は好きですし、ここでの暮らしも気に入ってますから。ミレニアさんもそうでしょう? 俺たちの子どもなら、たぶん喜んで引き受けますよ」
「う、でも、子どもがたくさんいたら、ここでは暮らせないし……」
「大きくなったら、選択肢を与えればいいんです。ここで暮らすか、森の外に出て暮らすか。どこでも生きていけるように、色々なことを教えたらいいんですよ」
「うう、でもでも、街の外に出た子どもが終焉魔女のことを言ったりしないかしら? 終焉魔女はおとぎ話くらいの存在でちょうどいいのであって」
いったい何に二の足を踏むのか。もごもごと言い募るミレニアの不安を、ひとつひとつ解消していく。
そして、終焉魔女のことが外に漏れないか心配するミレニアに、とっておきの事実を告げた。
「実はですね、俺、街に行っている間、ここのことはかけらも思い出さないんです」
いたずらが成功した幼子のような顔のウルフィオに、ミレニアはちんぷんかんぷんだ。ウルフィオはミレニアと向かい合うように寝台に転がった。
「街にいる間、ミレニアさんのこととか、森のこととか、忘れてるって言うか、思い出さないって言うか。意識に上らないんですよね。何を買うかとかは覚えてるし、買ってることも疑問にも思わないんですけど、なんのために買ってるかとかは一切考えてないです。買い物してから、いざ帰ろうかと思ったときに初めて、『あれ、どこに帰るんだろう?』って思うんです」
ウルフィオから明かされた衝撃の事実に開いた口がふさがらない。ミレニア自身は森から出られないので、そんな経験をしたことがない。まさかそんな護りがあったとは思わなかった。さすがは神秘の場所だ。
「どうやって帰ってくるのよ?」
「狼は帰巣本能が強いですから」
それに、と続けてウルフィオはミレニアの頬に指を伸ばした。そっと輪郭に沿うようになでられ、くすぐったさに首をすくめた。
「狼は一夫一妻の生き物なんですよ。知ってましたか?」
親愛の情を示すように頬をすり寄せ、額を合わせ、両手をつないで体温を分け合う。間近にのぞき込む瞳は、お互いの姿だけを写している。
「俺の帰る場所は、あなたの、ミレニアさんのいるところです」
「それじゃ、答えになってないわよ」
くすくすと笑い合う。この上なく嬉しい答えだが、どうやって帰ってきているのかはわからずじまいだ。
「なんとなく、です。帰りたいと思って歩いてるといつの間にか家に着いてて。着いたら全部思い出すんです」
答えを求めるミレニアの心情をくみ取り、ウルフィオが曖昧な説明をしてくれた。
なんとなく。直感に従って。本能の赴くまま。そうやっていつも帰ってきているのだそうだ。
「だから大丈夫です。終焉魔女のことが外に漏れることはありませんし、帰りたいと思えるなら、ちゃんと帰ってこられます」
温かい腕に包まれ、厚みのある胸に耳を寄せる。重なる鼓動が不安のすべてを払拭してくれる。
「そうね、そうよね」
粉砂糖をふんだんにふりかけたような甘やかな雰囲気に頭の先まで浸っていると、おとがいを持ち上げられた。目元をわずかに緊張させたウルフィオの顔が近づいてくる。
わずかな緊張と、胸の奥がしびれるほどの多幸感から、知らずに潤む瞳にまぶたを下ろした。優しいぬくもりが触れたのは一瞬。少し待ってから目を開けると、首まで真っ赤にしたウルフィオと目が合った。
「俺と……、俺と家族になってください! 俺と家族を増やしてください!」
「ええ、喜んで。私も、あなたと家族になりたいわ」
幸福というのは熱いものらしい。体の奥からわき上がり吹き出す喜びに総身が溶かされてしまいそうだ。自分を抱きしめる腕は衣服越しでもやけどしそうな熱を持っていて、背中に回した自分の腕も同じように熱いのだろうと察せられる。
注がれる視線もまた熱く、ミレニアは降ってくる唇を受け入れた。
森の奥には世界の終わりまで生きる魔女が住む。
森に入った者は、時折子どもの話す声を聞いた。何を言っているかまではわからないが、幼い子どもの声が複数聞こえたのだという。時折泣き声も聞こえるが、最後は決まって笑い声が響く。人々はその声を、終焉魔女が喜んでいる証だと言ってともに喜んだということだ。
余談ですが、卵などは泉の水につけておけば長持ちします。なのでウルフィオはまとめ買い派です。