to_date('2018/08/01 15:10:10') location = '京都府 京都市郊外';
「あっつぅ~……」
刺すような強い日差し、茹だるように暑く重い空気の中を1人の男子小学生が歩いている。小学校から下校途中のその男子学生は空を見上げながら呟いた。
少年は1人で歩いていた。
夕方にはまだまだ早い時間帯である。夏の強い日差しもあって、通りに少年以外の人影は見当たらない。
しかし人がいない理由は暑さの所為だけではなかった。そもそもこの周辺に住んでいる人の数が減ってきていた。日中に出歩くような人も、そもそも人自体が少なくなっていた。
住人が少なくなってきている訳は、幼い少年でも何となく知っていた。
今年に入ってから、ここ京都市でも政府から疎開にかかる費用に対して補助金が出る事になったらしい。それを待っていたかのように、周囲では一斉に住人の疎開が始まった。疎開先には主に広島や福岡など西日本の諸都市が選ばれているそうだ。
「みんなどんどん居なくなるなぁ……」
少年は再び独り言を呟きながら通り沿いの家を門前から覗き込む。
少年が覗く家の門は閉ざされており、玄関の扉もビニールがかけられている。人が頻繁に出入りしている雰囲気はなく、屋内からも人の気配はなかった。
少年はさらに反対側の家の方も見る。
向かいの家も同様の状態だった。
いや、この2件だけではない。この通りに立ち並ぶ一戸建て住宅の半分以上が既に空き家になっていた。
「…………」
少年はちょっと寂しそうな表情を浮かべながら、通りを再び歩き始めた。
「……ん?」
通りを歩く少年の足が再び止まる。
そして右を向く。そこには小さな林が広がっている。さらにその林は奥に向かって石段が伸びており、入口には真っ赤な鳥居が1つ立っていた。
少年はその鳥居の奥――石段が伸びる更に先をジッと見つめている。
「…………いる?」
また呟いた。
最近、妖術の修行をしているおかげで少し離れた場所でも他者の妖気を感じられるようになってきていた。
何かを感じた少年は、通りから離れて鳥居をくぐり、その石段を歩き始めた。
広葉樹の林は進んでいくとすぐに周囲が竹林に変わった。林によって参道がちょうど木陰になっており、とても涼しかった。その暑さを凌いでくれた竹林もしばらくすると無くなり、石段は終点に辿り着く。
そこは少し開けた場所にこじんまりとした神社が建っていた。
少年は境内に入ったところで何かを捜すように周囲を見回す。しばらく捜していた少年は社の裏手に向かって歩き始めた。
「あ~やっぱりいた」
感じた通りにその者がいたこと。会いたいと思っていた者だったこと。それが少年に少し嬉しそうな声を出させた。
社の横に1本だけ立つ大木のふもとに体育座りした女の子がいた。女の子は小学校に入学前ぐらいの幼女だ。少年はその少女のそばに駆け寄る。
幼女は見れば特徴的な姿をしていた。頭には狐のような耳、地面に直に座っているお尻の辺りからも狐の尻尾が1本。そして横顔を隠してしまうほどに長く伸びた銀毛の頭髪。
「………」
少年の足音に気がついた幼女が少年の方に目を向ける。
流れるような銀髪の合間からチラッと幼女の瞳が窺えた。しかしそれも一瞬だけのことで、幼女は少年の方に向き直ることもなく俯いてしまう。それは少年からあえて顔を背けているかのようだった。
走り寄っていた少年の顔に悲しそうな表情が浮かぶ。そしてそれは怒りの表情へと変わっていった。しかしそれは少年に対する少女の態度に腹を立てたからではない。
少年にはしっかり見えていた。一瞬だけ窺えた幼女の瞳に大粒の涙が溜まっていたことを――
「愛!どうしたんだよ!」
「………」
「なぁ!どうしたんだ?」
「………」
「愛ってば!」
「………五月蠅い」
「五月蠅くない!」
少年は怒った顔をして幼女の肩を少し乱暴に掴んで自分の方を向かせる。
強引に向かされた幼女はすぐに顔を横に背ける。
それでも一瞬だけ見えた幼女の顔を、少年はしっかりと見ていた。
幼女の左頬が赤く腫れていた。新雪のように真っ白な肌をしている分、余計にそれは赤く見えた。
「……愛。そのほっぺたのはなんだよ?」
幼女――――幼い九尾ノ愛の表情は長い髪に隠れてもう窺えない。少年の問いにも何も答えようとはしない。
「…………」
「愛!」
少年がたまらずもう一度自分の方に向かせようとする。それを嫌ってか、幼い愛は呟いた。
「…………いつもの」
「いつものって……やっぱりあいつらか!?」
少年の表情にさらに怒りの度合いが増した。ただしその怒りの向いてる相手は変わったようだ。幼い愛の肩から手を離してスクッと立ち上がる。
「…………」
幼い愛が銀髪の間から立ち上がった少年を盗み見るように伺う。
「あいつらか……」
少年には幼い愛をこんな目にあわせた犯人に心当たりがあった。
近所の悪ガキ集団だ。メンバーの全員が人外種であり、その中でも8割方が妖狐族の子供たちで構成されている。この集団のリーダー格の子は少年よりも1つ年上の妖狐族の男の子である。
集団に属している妖狐族の子供たちから幼い愛は目をつけられていた。彼女が養女となって京都の屋敷で住むようになってから1年が既に経つが、1年前からほぼずっと陰険なイジメが続いていた。
そして今日のように苛められて怪我などしたときは真っ直ぐ帰宅せず、怪我が回復するまでこの神社のような人目のつかない場所で忍んで隠れているらしい。
だから自衛官の仕事で屋敷を空けがちな彼女の母や姉はイジメのことをあまり正確には把握できていない。知ってはいるが『ある程度は仕方が無い』という認識らしい。そのことも少年は気にくわなかった。理由はどうであれ、苛められて良いわけがない。
「っ!いつも!いつも!何でこんな事するんだよ!あいつら、もう許さない!」
少年は言葉を言い切らずにスクッと立ち上がると走り出した。
それは明確に目的地が分かっているかのような迷いの無い走りだった。走り去る少年を静止しようと幼い愛は手を伸ばすが、少年の背中にはその手は届かなかった。
10分後――少年は空き地に立っていた。
幼い愛が蹲っていた神社の境内ではなく、少年が使っている登下校道のそばに広がる空き地だった。昔は田畑だったが、耕す人間がいなくなって結構な広さが荒れ地になっている。所謂、耕作放棄地だ。 そこは学校帰りの子供達の遊び場となっており、今日も10人ほどの小学生が空き地の中央に集まっている。その中の1つの集団の前に、少年は立っていた。
「善ノ野!九和!」
「ん……何だよ。人間の子が何のようだ?」
「はぁはぁはぁ…………お前ら。また愛を苛めたな」
少年の鋭い視線を向けられても集団の妖狐たちは嘲笑とも言えるような笑みを浮かべている。
「またかよ。零狐なんかの事でいちいち文句言うなよな」
妖狐たちの中で一回り身体の大きな、綺麗な黒いロングの髪を靡かせた一尾の妖狐が言う。
少年の鋭い視線も、厳しいセリフも聞き飽きていた妖狐たちのリーダー善ノ野九和が呆れ気味な声を漏らした。
「弱っちい人間のくせに――」
「お前らが愛を苛めるからじゃないか!!」
少年の怒声を聞いても妖狐たちの笑みは消えない。
「――はぁ……ホント、玉藻様も大変だよなぁ~」
「なにがだ?」
「ホントは零狐なんて一緒に居たくないのに、親戚だから仕方なく引き取ってるって。うちの親が言ってったし!あと、人間のお前だって可哀想だから仕方なく拾ってやったって言ってたし」
「嘘だ!適当なこと言うな!」
「なっ!?嘘じゃないし!!うちの親が嘘ついてるわけないじゃんか!人間のくせに適当な事言ってんじゃねぇよ!」
九和の怒りの声が合図だったように取り巻きの妖狐たちが少年に掴みかかっていく。
少年は身構えた――――りはしない。
少年は駆け出した。妖狐たちへ逆に立ち向かうように。
妖狐たちはそれに特に驚いた様子もない。少年と喧嘩する時は、少なくとも少年から逃げ出すことは今までなかったからだ。
そう。これはいつも通りの喧嘩の開始。
そして喧嘩の終わりもいつも通りの結果だった。
…
……
………
「…………っ」
少年は鈍い頭痛に目が覚める。
目の前には夕暮れには少し早いぐらいの青空が広がっていた。
やはり喧嘩の結果はいつも通りだったと少年は思い出す。相手に一発でもパンチを当てられたかも怪しい。ほぼ一方的なリンチ状態だった。
いつものことだ。
人数は向こうが5人に対してこちらは1人。しかも5人とも人間種よりも遙かに身体能力の高い人外種の妖狐だ。そもそも勝てるはずが無い。
「……っ」
それでも負けた事を思いだしてくると、いつも少年は悔しくて悔しくてしょうがなかった。
喧嘩に負けた事自体はもちろん悔しい。
あの優秀な姉に妖術の訓練を受けているにも関わらず、一向に強くならない自分自身がさらに悔しい。
そして大切な妹が苛められているにも関わらず、それを止めさせる事の出来ない事がもっとも悔しかった。
「………」
しばらく悔しさを噛みしめていた少年だが、いい加減、身体の怪我の具合ぐらいは確認しようと頭を少し動かす。
ぷに。
「……?」
何か軟らかいものが頭に当たる。
いや、そもそも頭が乗っている場所が地面にしては軟らかく、仄かに暖かだ。
少年が動いたのに合わせて、空しか見えていなかった視界に他のモノが入ってきた。
流れるような銀糸が少年の顔に降りてくる。
幼い愛だった。
彼女が覗き込むように少年を見下ろしている。その頬には先程まであった赤みが殆ど分からないぐらいまで消えていた。どうやら少年は大分長い間倒れていたようだ。
「あい?」
幼い愛は小さく肯いて、少年の額に小さな手をやる。少年は額が少しヒリヒリした。どうやら額を切っているようだ。
そしてどうやら幼い愛は少年を膝枕してあげていた。
「愛?なんで?」
「……父様に母様がよくやっていたから」
『何でここにいるのか?』という意味の問いだったが、幼い愛からは別の答えが出てきた。とりあえずそれは指摘しない。先に言わなければいけないことがあるからだ。
「愛…………ごめん。オレが弱いせいで…………」
口の中も切っているようだ。喋るたびに口の中もピリピリした。しかし言葉を最後まで続けられなかったのは口内の痛みの所為ではない。悔しさと惨めさから来る心の痛みの所為だ。
「………」
「………」
「………なんで?」
今度は幼い愛の方からの疑問だ。しかし少年はその疑問の内容が読み取れない。
「なんでって何が?」
「なんで………私のため?」
『なんで喧嘩したの?私のため?』と言っているのだと少年は思った。その答えはとっくに決まっている。
「愛はオレの大事な妹だからな」
「……血は繋がってない」
「ああ。でもオレは愛のお兄ちゃんで、愛はオレの大好きな妹だ」
「………」
幼い愛は特に感銘を受けたでもなく、いつもの無表情だ。この類いの台詞を少年が口にしたのも1回や2回ではない。それでも幼い愛の反応はいつも一緒だ。
そしてこのまま沈黙して会話は終わる。
しかし今回はそこで終わらなかった。
「……私は……自分が……嫌い」
幼い愛が俯いて呟いた。
膝枕されていないと少年には聞こえないようなか細い声で。
少年は少し考えてから、口内の傷が滲みるのを我慢しながら口を開く。
「それでも僕は好きだけどなぁ……」
『何が?』という表情を浮かべる幼い愛。
「……愛のその綺麗な銀色の髪」
「っ!」
幼い愛の両眼が少し開いた。
「玉藻の金色の髪も綺麗だと思うけど……僕は銀色の方が好きだな――」
「…………」
幼い愛の表情はほとんど変わらない。
「――それと、膝」
「ひざ?」
「愛が零狐のおかげで、膝がひんやり冷たくて……気持ちいいよ」
少年は本当に気持ちよさそうに軽く目を瞑って言った。
幼い愛の表情は変わらず無表情だった。
ただし1本生えている狐の尻尾だけは風も無いのに大きく揺れていた。