02
タラップを渡る足が震える、しかしシリウスは振り返りもせずにレプスの女神さまを抱えさっさと行ってしまう
「おい、女の子を置いてさっさと行くなよ」
「あそこから落ちるのは余程器用でないと無理です」
「熱風に煽られるとかあるだろっ?」
「小船なら煽られれば多少揺れますが本船なら揺れませんよ、大体、この高度で肺が焼けずに呼吸できているんですから察して下さい」
「あ、そっか、っていうかそれじゃ別に船縁で乗り出しても大丈夫だったんじゃねーか!」
「世の中には"絶対"などというものは存在しないんですよ」
「あーもー、俺が悪かったよ! レプスっ、大丈夫大丈夫、転落防止に結界張ってあるらしいぞ!」
「ほ、ほんとだすか?!」
「ほんとほんと、ほら」
「おらの女神さまぁぁああああぁあああっ!」
勇人がシリウスに抱えられたまま手を出すと、レプスはダダダとタラップを盛大に揺らして他の客に多大な迷惑を掛けながら走り抜け勇人の手にしっかりと縋り付いた
「火山?」
「ええ、アチラでは考えるのも馬鹿らしいほどの大きさです」
勇人たちは甲板に設けられたオープンカフェで溶岩の海原を眺めながら一服していた
持ち込みも可能なカフェで勇人は乗船前に飲んだばかりの果汁をまた飲んでいた、レプスも同じものを貰って飲んだが、とろりとした見た目に反し、味も喉越しもさっぱりとして飲み易く、胃を重たくさせるようなこともない
カフェの他にも宿泊施設や遊興施設に飲食店、商人の積荷を直接買える販売所など諸々を有す船は広さも質も小規模の町程度ある
この船は多くの商船がそうであるのと同じように、転々と港を渡って荷を積み下ろしし、それから大陸間を渡り、また次の大陸で転々と荷の積み下ろしをし、また大陸間を渡る、そうやって交易のある大陸を巡回しているのだ
「……大体どんくらい?」
「少なくとも地球よりは大きいんじゃないですか」
「は?」
(ちぎゅうってなんだべ)
出航時間にはまだ余裕があるが、乗船券とは別に"女の子がいるんだから"と勇人が主張して確保した客室は、しかし出航するまでは前の客のものだ、まだ入室はできない
ならば船内に設けられたギルドの出張窓口にと思っても今は閉められていた
旅費の引き下ろしに報告書や領収書の提出、そして"探し物"の為にもギルドの存在は欠かせないが、現在は停泊中にギルド独自の荷の積み下ろしや人員の入れ替えなどをしている為に窓口は一時閉鎖されている
ギルドの無い地域では、停泊中に船外で臨時窓口を開く場合もあり、その場合には出航ぎりぎりまで船内の窓口が開かないこともざらだ
「絶えず吐き出される膨大な溶岩は火山を中心に外へと流れ続けています、この大陸を含むいくつもの大陸は流れる溶岩の表層が冷えて厚く固まったものです」
「……この大陸……流れてんのか?」
「流れています」
話は更に脱線するが魔物の討伐などの緊急性の高い依頼は乗船中の護衛が停泊中に兼務することが多々ある、勿論、停泊中に処理しきれない場合は下船したり諸々の調整も発生する
外注に出さなければいけない、ということはそれだけの力量を持つ者がいないということであり、船に護衛として乗り込む者は一定以上の力量の者しかなれないからだ
因みに、このセラスヴァージュ大陸ではそういった外大陸の人間に魔物の討伐を依頼することはまずない
それらの難は古来より総て巫女や神官によって排除されるからだ
神属者がこの大陸で尊重されるのはそういった歴史に由来する絶対的なものであり、深い信頼が築かれた結果に他ならない
また大陸各地にある分社がギルドと同じ役割を成しており、この大陸でギルドの窓口が存在するのは大型船が来た時だけだ、と言っても大型船は頻繁に来るので常時あるのと大差は無いだろう
「……流れない大陸と塩水の海ってないのか?」
「存在します、勿論ここではない場所に」
「……そうか」
無意識なのか心を落ち着けるためなのか勇人は自分の胸をぷにゅぷにゅしていた、そして勇人を膝に抱えたシリウスも勇人の胸をぷにゅぷにゅしていた、レプスは(カミシロさまは他所の大陸のお生まれなんだべな~)とか思いながら船内の売店で買ってもらった飴菓子をじっくりと大事にころころ味わっていた
――その周囲のテーブルは彼らを中心に円形状に空席になっていた
これが女の方が明らかに嫌がっている、とかいう状況ならば単なる街中とは異なる護衛の揃ったこの環境なら助けが期待できる場合もある
だが女自身も自分の胸を無心にぷにゅぷにゅしているこの状況ではそんな輩は現れないだろう、是非とも遠巻きにして過ぎ去るのを待ち侘びたい案件だ
まぁしかし、一見して明らかに女が襲われている状況であったとしても必ずしも女が被害者というものでもない
誘き寄せて強盗……という可能性もあるので判断に困る
ぶっちゃけ、単にそういうプレイという可能性も捨てきれなくもない、他所でやれ、とは激しく思うがそういう可能性が無いとも言い切れないのが悩ましいところだ
勿論、巻き込まれた方は皆心がひとつになる、"ふざけんな"と
そんなわけで、このように誰の眼にも明らかな地雷をドヤ顔で踏み抜いてくる者はそうそういはしない
――度し難い馬鹿でなければ
*** *** ***
「……カミシロさま、寝ちまったべ」
レプスの呟きにシリウスが相槌を打つことは少なく、話し掛ければ返答が必要な場合は返事を返してくれるがそうでなければ大体は無言だ、自主的に話し掛けてくることも殆ど無い
神殿生活でそういった手合いには慣れたが、それでも気分のいいものではない、だがレプスはこの男に関してはそれこそが正しい在り様だと思った、女神さまの下僕は脇目を振ってはならないのだ
勇人の意識が眠りに在っても ぷにゅぷにゅする手が止まっていないのも気にならない、だって女神さまはソレを許しているし、その手つきも顔つきも何故だかいやらしさを微塵も感じさせない(っていうかシリウスの表情筋はそもそも生きているのか)からだ、レプスにはカミシロさまもシリウスも まるでひたすら触り心地に浸る子供そのもののように見える、幼い頃の自分が意味も無く母の胸に縋っていたように
……というか、レプスも胸を貸してもらったが、あの柔らかさはそうそう忘れられない、母とどちらが上か……甲乙付け難い難題だ
レプスが母を思い出し、そういえば おっ母とはいつ話をさしてくれんだべ? と考え始めて間もなくシリウスは勇人が眠ってしまい飲み切れなかったジョッキを呷って立ち上がり、レプスもあわあわと立ち上がって自分の空のジョッキを持ってうろたえる
店からの借り物ではないために洗ってからしまいたいが洗う場所など見当たる筈も無い
そこへ、すっと手を出されてレプスは無意識にジョッキを渡したがその行き着いた先を見てぎょっとした
(汚れたまんまなのにしまっちまったべ!)
無造作に荷袋に突き込まれたジョッキは逆さに入れられたわけではないとはいえ、中で温和しく倒れずにいてくれる可能性は低い
だがそんなことには欠片も頓着せず荷袋を下げて勇人を抱えたシリウスは船内に入っていってしまう
まだ出航時間ではなく客室は開放されていない筈だ、食事は乗船前に済ませ今しがた一服したばかりだから食堂というのも考え難い、どこへ行こうというのか
「え、ギルド? まだ閉まっ、え?」
行き着く先はギルドの出張窓口だったが、一服前に乗船してすぐ確認した時と変わらず やはり閉業中の札が健在している
当然閉まっている筈の扉は、目の前のシリウスが扉の手前にまで迫ると、自動的に開いた……わけではなく職員が丁度良く開けた
「ぅわっ」
驚く職員の脇をすり抜け中に入ってしまうその背中をレプスはひぃひぃと追う
「あ、ちょ、」
慌てて閉業中の札をひっくり返し開業中にした職員が中に入ると、先ほど自分の横をすり抜けて行った男は窓口前で待っている――片腕に眠る女を抱えて
……絶対に刺激したくない、何事も無く終わることを男は祈った
「閲覧の申請を、これで見れるもの総て」
「は、はい、……げ、わ、かりました、申請の許可が、下りるまで、この札を持って、暫し、お待ちを」
何かとんでもないものでも見せられたのだろうか、待てと言われて壁際のテーブル席に向かったシリウスを気にしながらもレプスも窓口に向かう
「あのう……」
「あ、は、はいっ」
何かの作業をしている職員の手が震えている、レプスは益々シリウスが気になった、あの男、職員を恐喝でもしたのだろうか
「書類を送って欲しいんだすけども……」
「あ、書類、書類ですね、はい、大丈夫です大丈夫です、えぇと、書類の大きさはどのくらいでしょうか?」
「これだす」
「はい、ではこちらに入れて、宛先などをこの用紙に記入して下さい、通信札をお持ちでしたら荷物と用紙と一緒に提出をお願いします」
ギルドは通信業務と金融業務も兼務している、商人も金融や郵便物は取り扱うが選ぶのは客の好みや都合に因る
書類を入れる為の浅い箱と用紙を渡され受け取ったレプスは(さすが世界を股に掛ける受付さんだべ、おらのことさ哂ったりすながった)と色々な人種に会い対応慣れしている職員の態度を賞賛しつつシリウス達が座る席に向かい腰を下ろし、その姿を見て職員はぎょっとした、あの男の連れなのか、先に言ってくれよ! と
食堂や喫茶店なら兎も角、ギルドで言う必要性はあまりなかろう
(手続ぎの仕方がおんなじで良がったべ)
商人の娘らしく、共通語を読めて書けるレプスは渡された用紙の記入欄を埋めながらほっとした
送り主と送り先と送る内容物と指定日時の有る無しを埋め、送ってもらいたい書類を箱に入れて、荷袋から通信札を出して用紙と共に添えて提出する
「お願ぇしますだ」
「か、確認させていただきます」
通信札は大抵の場合、中に所持者の情報が術によって埋め込まれている、札のランクによってやり取りできる内容に差があり、特定の相手のみにしか使用できないものや、既に通信費が支払われていて送り主に費用の負担が無いものと様々だ
レプスの場合は神殿のみと遣り取りができるもので、費用も神殿負担になっている
一方、職員はテンパっていた
今回に限って閲覧の許可が何故だかとんでもなく早い、もう下りた、早くね? 逆に不安を煽る、酷い時は年単位で待たされるなんてこともあり何時もは待たされた客が短気だったりすると八つ当たりを受けたりする程だ、いや、短気じゃなくても年単位で待たされたら誰だって怒るだろ、自分でも怒る、きっと聖人君子だって怒り狂って醜く罵りカウンターを乗り越えて酒瓶で殴り掛かって来るに違いない、実際 十年ほど前にぶち切れた者が居たらしい
因みに職員に理不尽な暴力を加えたりするとどんなに上位者でもギルドに関するあらゆる権利も権限も失うことになるので嫌な思いだけで済む、たまに致命傷級の言葉の刃を投擲してくる紳士や淑女もいたりして涙で枕を濡らしたりシーツに世界地図を描くこともままあるけれど
何時ものことなのでソレはソレで慣れたものだ、だが、だからこそ早いと逆に怖い、とんでもなく寒気を感じる、声を掛けたくない、置いておくから取りに来てくれないかな、お嬢さんあの三つ眼男の連れだよね? 飴あげるから持って行ってくれない? 溶岩が噴出してそれどころじゃなくならないかな、魔獣が突如襲来するとか、隕石降って来い、神が御光臨してもいい、魔王が御生誕あそばされてもよろしい、今すぐ! 等等頭の中はぐるぐると回っている
因みに今回の閲覧物は第三者の手を介するのは職務違反に抵触するが分かっていても期待せずにはいられない
そうこうしているうちに別の客もちらほらと現れはじめた
依頼の登録、紹介、銀行業務、通信業務、こんなに気が紛れる職務時間がかつてあっただろうか、否、ない
現実逃避とは分かっていても客は大歓迎、そうでないなら今すぐ交代時間になってほしいと切に思う
労働の喜びに従事していたせいだろう、業務は欠片も滞ることなく瞬く間に終わり順番を待つ客の追加も今のところ現れない、何でこんな時だけ……
もうこれ以上の延長工作は無理だ、バレたら怖い、そう覚悟を決めて職員が許可された閲覧魔具を転送陣から取り出し、せめて少しでも媚を売っておこうかと窓口を離れて男に声を掛けようとした時だった
「お待たせいた……」
「あっれ、こんなトコまで連れ込んでんのかよ、よっぽど具合がいぃっで?! 痛って痛って、はな、離せこのっ」
「そんまま握りちゃぶしてやりゃいいべ!」
――なぜ、いま、このたいみんぐで!
職員は心の中で絶叫したが、偏に現実と向き合いたくなくて逃避した結果である、嫌なことも不味い料理も先延ばしにしたからと言って消えて無くなるわけではない、寧ろ大抵の場合どちらも時間の経過と共に悪化は加速する
出入り口を開ききらないうちにシリウスを目敏く見つけた相手は脇目も振らずにずかずかと歩み寄り、眠る勇人の胸元へと無遠慮に伸ばした手をがっちりと指を組むようにシリウスに握り返され、骨がみしみしと軋む音が特別耳が良いわけでもない職員の耳にも届いた、幻聴を期待したいが現実である、職員は急速に手足の末端が冷えるのを感じた
因みに現在、出張窓口には他にも客が居るが助ける者は一人もおらず、視線すら誰も向けない……が、その時
「んぁ? ……馬か」
「馬ですね」
騒ぎに勇人が眼を覚まし、寝惚け眼で馬……ではなく馬の獣人を視界に捕らえた
「馬じゃねーよ鹿だっつーの!」
訂正しよう、馬面の鹿、つまり度し難い馬鹿だ