梅雨の日
梅雨が本格化してきて、蒸し暑い日が続きはじめた。
今日も今日とて、じめじめと高い湿度で一日を過ごした。
放課後まで頑張っていた雲が雨を降らしはじめて、俺は途方に暮れていた。
予報が曇りだったから、傘を持って来ていない。
「どうしたもんかなぁ」
ぴちょん、ぴちょん、と屋根から垂れる雨粒を眺めながら独り言をつぶやく。
柊木ちゃんは、雨が降りそうな日は車で通勤しているから、乗せて帰ってくれるかもしれないけど、いつ仕事が終わるかわからない。
「兄さん? 傘忘れたの?」
振り返ると紗菜がいた。
「忘れたっていうか、降らないと思ったから持ってこなかったんだよ」
「そう……」
ごそごそ、と鞄を漁って、ウサギ柄のファンシーな折り畳み傘を取りだした。
小二女子の遠足かよ。
「サナ、折り畳みが鞄の中に一本あったんだけど、兄さんがどうしてもって言うなら、入れてあげなくもないわよ?」
「どうしても入れてほしいって言うつもりねえから、さっさと帰れよ。強くなるかもしれねえぞ?」
「ご、強情ね、兄さんも。そんなに入りたいんなら、素直に言えばいいのに」
「じゃあな。紗菜。俺は雨が弱まってから帰ることにするから」
「え、も、ちょ、違――……。もお、兄さんなんてビチョビチョになって、それから無事に帰ってくればいいのよ!」
無事は祈ってくれるのかよ。
フン、と鼻を鳴らした紗菜は、小二女子が持ってそうなウサギちゃんの傘を広げて、大股で帰っていった。
あの傘にアラサーは入れねえぞ、妹よ。
折り畳み傘ってのは、基本一人用だ。
俺が入ったら、おまえまでビチョビチョになるだろうが。
図書室に行って、時間でも潰すとするか。
くるりとターンして、廊下を歩いていると、書類を小脇に抱えた柊木ちゃんがむかいから歩いてきた。
「真田君、どうかした?」
「ああ、ちょっと図書室に」
「調べもの? 相変わらず真面目だね」
にっこり、と柊木ちゃんは先生スマイルを見せてくれる。
彼女として微笑んでくれるのも好きだけど、学校での先生スマイルは、またちょっと違っていい。
「いや、雨、結構強いから弱くなるまで雨宿りしようと」
「傘持ってきてないの? って、あたしもだけど」
紗菜にしたのと同じ説明をして、ふんふん、と柊木ちゃんが納得してくれた。
左腕の内側にある腕時計を見た柊木ちゃん。
「まだ時間あるし……ちょっと待ってて!」
ばひゅーん、と走り去ると、真っ黒の傘を持って戻ってきた。
「これ、職員室にいつも残ってる傘」
「いや、使えないって。先生たちも傘がない人がいるだろうし。俺は、ほら、そんなに家も遠くないから、雨が弱くなるのを待つよ」
「そっかそっか……じゃあ、先生が、真田君を家まで送ってあげる」
「車で?」
「ううん。今日は自転車。だから、徒歩で送ってあげる」
すごい楽しそうに柊木ちゃんが提案してくる。
徒歩で送る? で、柊木ちゃんも自分の傘がない……。それで今使える傘は一本。
「行こ行こ♪」
るんるんなのであった。
人けのない裏口を待ち合わせ場所に指定されて待っていると、黒い傘を差した柊木ちゃんが現れた。
「ささ、入って。ちょっと二人じゃ狭いかもだけど」
「そういうことか……」
お邪魔することにして、俺は柊木ちゃんと相合傘をすることにした。
わざわざ裏口を待ち合わせにしたのも、このためだったらしい。
「実は、憧れてたの~。好きな人と相合傘」
「小学生みたい」
「えっ!? 小学生みたい!?」
真顔で柊木ちゃんがショックを受けている。
「じぇ、ジェネレーションギャップってやつ…………?」
「高校生くらいになれば、そんなに憧れないと思うけど」
「そんなことないよ。紗菜ちゃんだって、誘ってたじゃない。相合傘」
「見てたのかよ……別に相合傘したかったわけじゃないと思うけど……」
肩と肩がくっつくくらいの至近距離で、柊木ちゃんが顔を近づけてきた。
つん、と俺の頬に唇が触れた。
「こら、帰り道で――」
「傘で見えないからセーフ。紗菜ちゃん、こんなふうに、キスするつもりだったのかもしれない……」
「しねえから。俺の妹を何だと思ってんだよ」
「重度のブラコン」
「……」
重度かはさておき、ブラコン気味なのは否定できなかった。
「いいなーって思って見てたら、紗菜ちゃんと一緒に帰らなかったから。それで、困っている誠治君の前に、颯爽と春香さん登場」
一部始終、きちんと見ていたらしい。
「なるほど。それで、相合傘で俺を送ろうってわけか」
「そんなに遠くもないから、送ったあと仕事にすぐ戻れるしね」
ボツン、ボツン、と雨粒が傘の上で勢いよく砕ける音がする。
雨が地面を叩く水音がうるさくて、隣の声を聞こうとすると、自然と距離は近づいた。
「誠治君、肩、濡れてる」
ずいっと俺のほうに柊木ちゃんが傘を傾けてくる。
「え。ああ。別にいいんだよ。これくらい。どうせ帰ったら着替えるんだし」
「ダメ。風邪ひいちゃう」
押しに負けて傘がこっち側に傾く。
となれば、必然的に柊木ちゃんのほうが傘が届かなくなる。
「春香さん、濡れてる」
「これくらい大丈夫」
「女の子が体冷やすのはよくない」
って、誰かが言っていた。どうしてよくないのは知らないけど。
「じゃあ、じゃあ、もっとくっつこ?」
くるっと俺の腕に手を回して、腕を組んで歩く格好になった。
傘で誰かわからないし、雨で人通りが少ないから、バレることはないだろう。
「街でデートして以来だね、こうするの」
「そうだっけ?」
「そうだ――みゃっ!? 水溜まりに思いきり突っ込んじゃった……足がぐしょぐしょ……」
ふえー、と柊木ちゃんは口をへの字に曲げている。
相合傘は、くっついて腕を組むところまで考えていたんじゃないかって思ったけど、そこまで計算するタイプでもないだろう。
雨にちょいちょい濡れて、靴も水溜まりに突っ込んだのに、柊木ちゃんは楽しそうだった。
「こうして、好きな人と一緒に帰るの、夢だったんだ。一回でいいからやってみたかったの。ごめんね、ちょっと強引だったかも」
「ううん。傘がなくて困ってたのは俺だし、むしろちょうどよかったんじゃない?」
そういえば、俺は柊木ちゃんの過去をあまり知らない。
この前の夏海ちゃんの言い草だと、彼氏どころか仲のいい男子がいたこともない、というような口ぶりだった。
「春香さん、学生のときはモテたんじゃないの?」
「えぇぇ? モテない、モテない。全然」
「そうかな……? 柊木先生は、男子がみんな憧れる年上お姉さんポジションなんだけど」
「へえ、そうなんだ? で、そのみんなの憧れを誠治君がこっそり奪っちゃったわけだ」
「そういうこと」
「けど、ちょっと嬉しいかも」
へへ、と小さく柊木ちゃんは笑う。
「あたしがモテそうに見えるってことは、あたしの自己評価は別として、誠治君には、あたしは魅力的に見えるってことでしょ?」
でしょ、でしょ、と柊木ちゃんが肘で俺の脇腹をつついてくる。
「じゃないと好きにならないよ」
「――――っ……、も、もおおお、誠治君のイタリア人んんんん!」
だから、日本人だって。
どんどん家が近づくにつれて、柊木ちゃんの足取りは重くなった。
俺を離すまいとしてか、組んでいる腕はちょっとだけ力が入っている。
「…………」
口数が減って、ちらっと横顔をのぞき見ると、寂しそうに唇を結んでいた。
「ちょっとだけ、寄り道していく?」
「ううん、いいよ。あ、あたし、学校帰って仕事があるから」
とは口で言いつつも、足取りはどんどん軽くなった。
顔も一気に晴れやかになっている、わかりやすい柊木ちゃんだった。
どこに行くわけでもなく、付近を散歩する。
元の調子を取り戻した柊木ちゃんと俺は、どうでもいい会話をあれこれ交わした。
俺たちは、雨の日だと、普通のカップルっぽいことができるらしい。
「どうかした?」
のぞき込んでくる柊木ちゃんに、俺は首を振る。
「もう、さっきから濡れまくりで、足の皮、絶対にふやけてるよ……」
「どんまい」
「こうなったらどれだけ濡れても一緒だね……」
むふふ、と笑った柊木ちゃんが水溜まりでジャンプする。
飛沫がこっちに飛んできた。
「うわ!? ――子供か!」
「あははは」
ただ、一緒の傘に入って帰り道を歩く、それだけで十分幸せなのだった。




