煩悶
三学期がはじまったものの、俺が悶々と悩んでいるのとは対照的に、柊木ちゃんは平常運転だった。
「三学期はねぇ、忙しいのです……お仕事いっぱいあるのです……」
週末の金曜はいつもへとへとで、HPもMPも底を突きかけている状態だった。
家庭科部の活動に顔を出すことが少なくなり、平日の帰りも遅かった。
ていっても、活動らしい活動はせず、放課後集まって三人で適当にしゃべるだけだったり、ときどき怜ちゃんを迎えて四人でしゃべったりするだけだった。
そんな状況なのに、俺の悩みなんて打ち明けられるはずもなかった。
再来月に別れるってことになっている、なんて言っても、信じてもらえるはずもないし。
多忙な一番の原因は、短いスパンで中間と期末テストがあるかららしい。
その分、テストの準備をしたり何だかんだの業務が、かなり圧縮されているようだ。
「あたし、要領が悪いから仕方ないんだよ」
と、柊木ちゃんは疲れた表情を笑顔に変える。
仕事に集中している今、俺たちの関係にかかわるシリアスな話をするのは、少し気が引けた。
柊木ちゃんがもう少し落ち着いてから――。
そんなふうに思っていると、一月末の中間テストが終わり(いつも通りそこそこの点数だった)、改まって話をする機会を窺っているうちに、二月の半ばに突入してしまった。
「おい、真田。おまえチョコ、貰えるの?」
「知らねえよ。義理で二個くらい貰えたら大勝利だろ」
そうじゃなくて、と藤本は声を潜めた。
「じゃなくて、本命のチョコ」
「誰から?」
とっさにとぼけたけど、あの口ぶり、俺が誰かから確定でもらえると思っている?
「……いや、何でもねえ」
「なあ、藤本、おまえもしかして……」
「知らねえ」
「まだ何も言ってねえぞ」
「おまえがもし誰かと付き合ってたとしても、オレにはどうでもいいことだからな。それでオレがモテるわけでもねえし」
独り言のように言ったあと、すぐに話題を変えた。誰々が告られたとかそういう話。
もしかすると、柊木ちゃんとのことを知っていて、あれこれフォローしてくれていたのかもしれない。俺の知らないところで。
「藤本、俺がチョコやろうか。日頃の感謝を込めたやつ」
「キモいな。要らねえよ」
だよな、と俺は笑った。
廊下側を見ていた藤本が小さくため息を吐いた。
「……んだよ、真田かよ。ドキっとしたじゃねえか」
クイクイ、と親指で外を指す。
「真田、あれ。お呼びだ」
藤本が指で差した先には、女子が二人いた。
目が合うと、一人がうなずいた。
席を立って、廊下に出ると「ちょっといい?」とうなずいたほうの女子に言われた。
顔はわかるけど、名前は覚えてない。ほとんど接点はなかったはず。
もう一人の女子は、選択の授業が一緒の大越さん。
いいけど、と俺が言うと、二人は廊下を歩き人けのないほうへと進む。元々予定していたのか、二人に会話はなく、示し合わせたように渡り廊下から校舎の外に出て茶道室の前までやってきた。
何も言わず、ぽんぽん、と大越さんの背中を叩いた女子は、踵を返し去っていった。
しばらく無言で、緊張がこっちまで伝わってきた。
……ややあって大越さんが口を開くと、好意を伝えられ、持ち手を握りしめた小さな紙袋が突き出された。
何て言ったのか、小声でよく聞きとれなかったけど、肝心な部分はきちんと聞こえた。
そういや、前もここらへんだったような……。
俺は大越さんにお断りの返事をした。
チョコは受け取ったほうがいいのか、どうしたら失礼にならないのかわからないでいると、強引に渡され、大越さんは走って行ってしまった。
以前もそうだったけど、この何とも言えないバツの悪さは慣れない。
◆柊木春香◆
チョコ、いつ渡そうかな?
放課後呼び出して――なんて、高校生みたいなことを考えていた。
廊下を歩きながら、いいタイミングはないものかと悩んでいると、女子二人の後ろを歩く誠治君の姿が見えた。
どくん、と心臓が変な跳ね方をする。
「……」
モヤモヤするその気持ちは、前とは質が違った。
上手く言えないけど、嫉妬とか不安とか、そういうのとは少し違った。
きっと誠治君は、告白される。
その点に関して、きっと断るだろうと心配もしていないし、むしろ信用していた。
――――先生は大人で、大人と恋愛すればいいのに。どうして兄さんなの
――――先生、兄さんは舞い上がっちゃってるだけよ。他にもきっといい子いっぱいいるのに、他に目がいかない状態になってるだけなの
年末、紗菜ちゃんに言われた言葉が、脳内でキィンと反響した。
「……」
あのときは売り言葉に買い言葉で、紗菜ちゃんに反論したけど、その刃はずっと胸に刺さったままだった。
あたしは、誠治君の可能性を……狭めている……?
それは、嫌だな……。
時間が止まったかのように廊下で立ち尽くしていると、女子が一人教室のほうへ戻っていく。しばらくして、目元を赤くした女子がうつむきがちにどこかへ小走りで行った。
しっかりしてて、ときどきエッチで、バイト先でも優秀で優しい誠治君――。
「……」
舞い上がって他に目がいかないのは、あたしも同じ。
独占したくて、誰かに取られたくなくて、無意識のうちに、誠治君の目や耳を塞いでしまっているんじゃないだろうか。
誠治君にとって最良の選択肢が、他にあるかもしれないのに。
何かあったとき、大人の女性として引き留められる魅力が、あたしにあっただろうか。
仕事の要領は悪いし、ポンコツだし、酔っ払うと酒乱気味だし。
魅力は家柄と体だけ――なんて、笑えない。
日頃の感謝と愛を込めたチョコは、この日渡せなかった。
「……誠治君、ごめんね、準備しようと思ってたら仕事が忙しくて――」
誠治君に、嘘をついてしまった。
自分の中にある何かが擦り減ったようだった。
『そっか。激務って感じだもんなぁ』
まあ、しゃーない、と電話口の誠治君言う。相変わらず高校生なのに仕事に対してすごく理解があるから助かる。
だからこそ余計に、罪悪感が胸に去来する。
捨てるのはもったいなかったので、週末遊びに来た夏海にあげた。
綺麗にしてあったラッピングは、そうだとバレないように捨てた。
誠治君ときちんと話せないまま、期末テスト期間に入ってしまった。
誠治君の期末テストの結果は、いつも通り各教科安定した点数を出していた。
期末テストが終わり、学校行事として残すことは卒業式のみとなり、校内はどこか弛緩した空気に満ちていた。
期末テスト前は、それから逃げるように仕事に没頭していたけど、ふとしたときに、やっぱり考えてしまう。
誠治君のことを。
どうしたら誠治君にとって最良なのか。
どうしたらあたしにとって最良なのか。
二人にとって、どの選択が一番なのか。
素敵な人が、あたしのことを好いてくれる。愛してくれる。
それはとても嬉しいことで幸せなことだけど、ふとしたときに影が差す。
こっちはいいけど、この人は、本当にあたしでいいの――?