一難
「兄さん、起きないと遅刻するわよ?」
ゆさゆさ、と体を揺らされて目が覚めた。
頭をかいてあくびをひとつ。
目をこすると、紗菜がいた。
長かった黒髪は、肩のあたりまでになっている。
ほんの少し化粧をしていて大人っぽい顔立ちがさらに大人っぽくなっていた。
「あれ。……紗菜、なんで化粧なんかしてんの? 髪切った?」
「なんでって、仕事だからよ。それに、髪も切ってない。兄さんも早く。遅刻するわよー?」
「は? 仕事?」
ビビビビビビビ、とスマホのアラームが鳴りはじめた。
ん――スマホ??
よく周りを見れば、全然知らない誰かの部屋だ。
あれ。ナニコレ。
アラームを止めて日付を確認。
も、戻ってる!?
タイムリープから戻ってきてる!?
「え、ここどこ」
「兄さんの部屋じゃない。寝ぼけてるの?」
「俺はだって一人暮らしをしていて……」
「そうだったけど……会社が近いって話をしたら……一緒に住もうって、兄さんが言ったんじゃない」
紗菜に似た誰かかと思ったけど、やっぱりこいつは紗菜だ。
信頼と実績の貧乳は、まさしく紗菜のものだ。
変わらないものって、本当にあるんだなぁ……。
「な、何よ、じっとこっちを見て……」
「おまえは俺の妹なんだなって、安心していたところだ」
タイムリープ前と違う。
一人暮らしをしていたはずなのに、今俺は紗菜と暮らしているらしい。
家の中をうろつくと、やっぱり見覚えはない部屋ばかり。
月と日にちは、戻ってくる前と同じで、ちょうど一〇年後になっている。
「つーことは、過去が変わったから未来が変わったってことか……?」
「何ブツブツ言ってるの? いいから、ご飯早く食べてよ」
ダイニングのテーブルには焦げたパンと焦げた目玉焼きらしきものと葉っぱ状態のレタスがあった。
野性味あふれる朝食ですこと。
ん!? 一〇年後に戻ってきたってことは、今、俺と柊木ちゃんってどうなってんだ?
今紗菜とこうしているってことは、付き合ってるのか……? それとも――。
「……なあ、紗菜。柊木先生って覚えてる?」
「懐かしいね、柊木先生。それがどうかした?」
「今って何してるかわかる?」
「先生してるんじゃないの?」
まあ、そりゃ、先生だったもんな……。
「サナ、もしかしたら、って思ったことが何度かあるんだけど」
「うん?」
スマホのアドレス帳やSNSで柊木ちゃんを探す。
現代にいたころは連絡先ひとつ知らなかったけど、今なら知っててもおかしくない。
「柊木先生、やっぱり兄さんのことが好きだったと思うの。卒業するとき、兄さんは気まずそうにしてたけど、柊木先生はすっごく悲しそうだったし……」
気まずそうに? なんでだ?
あ。いた。柊木ちゃん。番号は見慣れたもので、もしかしたら変わっているかもしれないけど。
「サナ、先に行くね?」
と、紗菜はスマホをいじっている俺に構わず席を立つ。
「なあ、紗菜。高一の自分に言いたいことってなんかある?」
「え? そうね……。もっとトレーニングを頑張って、かな」
「トレーニング? ああ、豊胸トレーニング的な」
「――い、行ってきます」
逃げた。
そんなことしてたのか。紗菜。
で、結局貧乳のまま、と……。悲しき未来。
けど、さっき紗菜の言っていたことが気になる。
卒業って言えば、付き合っている柊木ちゃんと俺のゴールみたいなもんだ。
バレるとまずいから、それまでコソコソしようって話だったのに。
なのに、俺は気まずそうで、柊木ちゃんは悲しそう……?
思いきって電話をかけてみた。
『…………もしもし?』
ちょっと警戒するような声音で、柊木ちゃんが出た。
「もしもし。真田誠治です。おはよう、春香さん」
『おはよう。久しぶりだね。誠治君』
この時間軸の柊木ちゃんからすれば久しぶりかもしれないけど、俺にとっては一日ぶりだ。
今どうしてる? とか、そんな前振り、建前はどうでもよかった。
予想したことを訊いてみた。
「俺と付き合ってたでしょ。高二のとき。もしかして……別れた?」
『うん。そうだよ。あれー? 覚えてないの? ショックだったなぁ……アレは』
「え、何。俺何かした?」
『付き合いはじめて二か月もしないうちに「もう飽きた」って言ったんだよ?』
そんなことを言うわけがない。
だって、付き合ってそれくらいだけど、飽きたなんて俺は思ってないからだ。
『それが原因で、カクンと気分が落ち込んじゃって……最終的に別れたんだよ。でも実は、今でもまだ好きだったりして……』
えへへ、と電話越しに柊木ちゃんが照れ笑うのがわかった。
ああ、やっぱり俺はこの人のことが好きなんだ。
「うん。俺も――」
そのときだった。
ガラッと風景が一変して、学校の教室に俺はいた。
日付は、現代に帰還する前のもの。厳密にいえば翌日、月曜日の朝だ。
よかった。どうにか帰ってこられた。
飽きたなんて、俺は言うはずないのに。一体何がどうなったんだ?
午前中の授業が終わって、いつものように世界史準備室にむかう。
やっぱり柊木ちゃんは先に来ていて、俺がすぐ食べられるように弁当をレジャーシートの上に広げていた。
「あの先生、絶対ヅラだよねー、誠治君もそう思うでしょー?」
「え。ああ、うん」
俺は相変わらず膝枕をされていて、箸で運ばれてくる弁当(唐揚げ)を食べるだけ。
「やっぱりさすがに飽きたな」
唐揚げ好きだし、美味しいんだけど。
「……」
柊木ちゃんが固まって、どんどん目に涙を溜めていった。
「ん? どうかした? なんで泣いて――」
膝の上にいる俺に構わず柊木ちゃんが立ち上がった。
「うぎゃ!?」
「せ、誠治君の、バカぁあああああああああん」
うわーん、と子供みたいな泣き方で、ガラガラと扉を開けて出ていく柊木ちゃん。
あ。
今俺、飽きたって言った。
こ――こういうことかぁあああああああああああああああ!
「先生ぇえええええええええええ唐揚げの話ぃいいいいいいいいいいい!」
俺も慌てて準備室を出る。
走ってどこかに行ったのかと思いきや、壁にもたれて膝を抱えていた。
すんすん、と鼻を鳴らして柊木ちゃんが泣いている。
「高校生のバカぁ……どうせ、可愛い女子が転校してきたんでしょ……。ふえええええ」
「勘違いだから! 飽きたって言ったのは」
ま、まずい。廊下で俺が柊木ちゃんを泣かしてるみたいになってる。
「と、とにかく準備室に……」
腕を取って、準備室に入った。
「春香さん、飽きたのは唐揚げであって、春香さんじゃないんだって」
「……ほんと?」
目じりやまつ毛を涙で濡らした柊木ちゃんが、俺を見上げる。
泣き顔も可愛いのはずるい。
「あたしに対して日ごろ思っていたことが、つい口をついて出たんじゃないの?」
「唐揚げに対する思いだから。春香さんのことを飽きたって思ったわけじゃないから」
たった二、三歩の距離を走ってきた柊木ちゃんが、俺に抱きつく。
「本当ならキスして」
「だから、学校ではしないってあれほど……」
「先生は、キスの拒否を拒否します」
さっそく準備万端。
目をつむって、顎をちょっと上げている。
しやすいように、お上品に少しだけ唇を突き出していた。
仕方ないので、ちゅ、とキスをすると、がしっと離れられないように後頭部を抱きしめられ、そのまま長期戦に突入。
「たぶんあたしは、ずっと誠治君が好き。だから。離さないで」
一〇年後の彼女も、柊木ちゃんの言った通り、まだ俺を好きだと言った。
「うん」
火照った頬をすり合わせ、鼻の頭をときどきぶつけて首を傾ける。
唇は柔らかくて温かい。
シャンプーのにおいや何やらが混ざった、柊木ちゃんの甘いにおいがした。
柊木ちゃんの誤解を解いた俺は、昼休憩中ずっとこうしていたせいで昼メシを食べそこなったのだった。