黒柊木ちゃん
朝っぱらからやたらと紗菜がうるさい。
あいつ、部屋で何叫んでるんだ?
お陰で目が覚めたわ。
着替えて下に降り、朝食を食べる。
いつもなら、朝食は紗菜も一緒に食べるのに、全然二階から降りてこない。
母さんもそれを不思議がって、天井……二階を見上げた。
「さーちゃん、何してるのかしら」
「さあ。なんか叫んでたけど」
ずず、と俺は味噌汁をすする。
朝の味噌汁ウマ。
いつもなら、俺よりも紗菜のほうが起きるのも早いし、だいたいあいつのほうが先に朝飯を食っていることのほうが多い。
首をかしげて、母さんがダイニングを出ていく。
すぐに、上で何か話している声が聞こえて、母さんが戻ってきた。
「さーちゃん、今日具合悪いみたい」
「へえ。あそ」
……その割にはやたらと叫んでたけど……俺の幻聴か?
紗菜は休み、と。
朝食を済ませ、登校する。
この日、柊木ちゃんも学校を休んでいるらしく、世界史の授業は自習になった。
柊木ちゃんも? 風邪か何か流行ってんのか?
自習の課題をぱぱっと済ませた俺は、柊木ちゃんにメールを送った。
『体調悪い? 大丈夫?』
一人暮らしで風邪ひくと、かなり大変だからなー。
帰りに何か買っていってあげよう。
とか思っていると、即返信があった。
『大丈夫じゃない』
……いつも絵文字でキャピついているメールが、今日はそっけない。
この感じからして、相当辛いんだろう。
今日は柊木ちゃんと資料室でご飯の日だから弁当は持って来てないし……。
これからの授業は……英語に数学、芸術の選択授業に体育……まあ、一回くらい出なくても大丈夫だろう。
「おぉい、真田、プリント見せてくれぃ」
「好きにしろ。あとで前に出しといて」
隣の藤本の席に課題のプリントをのせる。
帰り支度をしていると、
「真田、何、帰るの? サボんなよ」
「サボりじゃねえよ。ちょっと大事な用を思い出したんだ」
「おまえ帰ったら、オレが体育の授業困るだろ。二人一組どうやって作ったらいいんだよ」
「俺はおまえの『二人一組要員』じゃねえんだよ。じゃあな」
ぽんぽん、と藤本の肩を叩いて、俺は足早に教室から出ていく。
『今からそっち行く。何か欲しい物ある?』
廊下を歩きながらメールを送っておく。
学校をサボることは怒りそうだけど、お見舞いに行くことは喜んでくれそうだからプラマイゼロだろう。
『特にない』
うーん。よっぽど辛いらしい。いつもなら、『ありがとう。でも気にしなくていいよ?』とかひと言ふた言ありそうなのに。
柊木ちゃんちまでの途中にあるコンビニで、適当にプリンや飲み物を買ってアパートに向かう。
呼び鈴を鳴らすと、扉の内側で人けがして、カタン、と鍵の開く音がした。
ちょっとだけ隙間が空いて、柊木ちゃんが覗いてくる。
「プリン買ってきたけど……」
いつもと様子がおかしい。
飼い猫が、野に放たれて野生化してしまったかのような、そんな感じがする。
じいいいいい、と柊木ちゃんは俺を見て、手元の袋を見て、しゅばっとプリンを奪った。
なんちゅー早業か。
「何で、ここ知ってるの?」
「何でって……何で?」
何言い出すんだ、いきなり。
「今、学校の時間なのに。何でここに来たの」
「そりゃあ、具合悪いって聞いたから……」
あ、そうか。これはあれだな。
心を鬼にして、俺のサボりを咎めようとしてるんだな?
普段あんなに甘々なのに、今日は塩加減が半端ないのはそのせいか。
「わかったよ。そこまで言うんなら、学校に戻るよ。今からなら午後の授業は間に合うし」
「そうじゃないわよ。帰れとか、言ってないし……」
どっちなんだよ。
今日は体調も悪いし、目つきも悪いし、すこぶる機嫌も悪いらしい。
さしずめ黒柊木ちゃんってところか。
「は、入る……?」
「え? 寝てなくていい?」
こくこく、とうなずいた柊木ちゃんは、ドアチェーンを開けて、俺を中に入れてくれた。
いつもは整然としているリビングは散らかって、食べ物や飲み物が出しっぱなしになっている。
別人格でも降臨したのか?
「あーあ、こんなに散らかして」
「いいでしょ、別に」
腕を抱いて、柊木ちゃんは目を細めている。
「でも、元気そうでよかった。この感じなら、明日は学校来られそう?」
「行けるわけ、ないじゃない……。こんな格好で……」
部屋着の柊木ちゃん。
その服を着て行けなんて俺は言っていない。
なんなんだろうな、この会話の噛み合わなさ。
本気で白柊木ちゃんの記憶を持たない黒柊木ちゃんが表に出てきたのか?
あと、この会話の感じ、どこかでいつもしてるんだよなぁ……。
どこだっけ。
ちらっと柊木ちゃんを見ると、自分のおぱーいをモミモミしていた。
な、何してんだ――――!?
「やっぱり……すごい……っ。あ、ちょっと何こっち見てるのよ、やらしい……」
俺が自分を見ていることに気づいた柊木ちゃんが、嫌そうな顔をする。
クッソ……この黒柊木ちゃん、これはこれでありだ……!
んもう、と柊木ちゃんはソファにすとんと座った。
白い脚を組んで、太ももの上で頬杖をついた。
「一番の問題は、どうして兄さんがここにいるかってことよ」
「だから、いつもこの家に……ん? 兄さん?」
「もしかして、気づかずにしゃべってたの?」
「待て。待て待て。どういうこと? おまえ……黒柊木ちゃんじゃないのか」
ふすー、と呆れたように柊木ちゃんは鼻からため息をついた。
「妹の顔忘れたの?」
柊木ちゃんは妹じゃないんだがががが。
「あ、そか。今は柊木先生になってるんだった」
「な、なってるんだった、ってなんだ!?」
てことは、どういうことだ。
別人格の黒柊木ちゃんが出てきてるんじゃなくて、そもそも別人が……入って……。
「妹…………?」
「そうよ」
「おまえ……もしかして、紗菜なのか?」
「だったら何よ」
こういう言い方、紗菜だ。
口調も仕草も、そうだと思って見てみると、もう紗菜にしか見えない。
会話のあの感じ、柊木ちゃんだと思ってしていると違和感がすごいけど、相手が紗菜だとすれば、合点がいく。
「何でおまえが柊木ちゃんになってるんだ?」
「そんなの、サナが知りたいわよっ。目が覚めたら、いきなりナイスバディになってて……!」
「おまえがそんなふうになるなんて、夢のような話だな」
「うるさいわよっ。夢だと思ったから二度寝したの! でも、携帯に電話がいっぱい入って……サナのじゃないから無視してて……相手を見たら教頭先生だったし、『柊木先生、今日はお休みですか?』なんて訊いてくるから……」
そして、黒柊木ちゃんこと紗菜は、洗面所を探して鏡を見たらしい。
「そしたらサナ、柊木先生になってたの」
おっぱいを揉みながら言うんじゃねえ。
ハマったのか。揉むの。
「よりによって、紗菜が柊木ちゃんの中に入るなんて……どんなファンタジーだよ……」
いや、タイムリープしてる俺が言うなって話ではある。
「兄さん、質問に答えて。どうして柊木先生の家を知ってるの?」
「何回か車で家まで送ってもらったことがあるから、その途中に『ここ先生の家なんだよ~』って教えてもらっただけだ」
間髪入れずに俺はさらっと嘘をつく。
むううう、と紗菜が唸った。
「でもでも、何で学校サボってまでお見舞いに来るの! 変っ」
「変じゃねえよ。日頃世話になってる人が病気してるんだ。お見舞いするだろう! 社会人ナメんな!」
本当は恋人が心配だから、ってだけだけど、そんなの紗菜に言えるわけねえ。
「しゃか、社会人……? 何言ってるの、兄さん? サナの仮説はこうよ。兄さんは、『柊木先生』が体調不良で休んでいることを知って、お見舞いと称して若い性を爆発させるため今日ここまで――」
「なわけあるか。若い性を爆発させてんのはおまえだろ。いつまで他人のおっぱい触ってんだ! 手ぇ離せ!」
俺だってちゃんと触ったことはまだねえんだぞ!
「一番の問題は、俺がここにいることじゃなくて、おまえが先生の中に入ったことだろうが」
まったくもう。
「サナのサナは、ちゃんと学校行ってるのかしら……」
「今日休むって、朝母さんが……」
あれ? 本物の柊木ちゃん、どこ行った……?
紗菜に上書きされているだけで、本体の中にいるのか……?
そういや、紗菜からメールが来てたな。中は確認してなかったけど。
「サナの本体、家にいるの?」
「そのはずだけど――。あれ、じゃあ朝悲鳴を上げてたのって……」
まさか……。