前編
「アクマド=レイン様!悪魔吸収お疲れ様でした!」
「それでは旅の御武運を祈っておりますぞ!」
ここはしがない田舎町。教会の出入り口からオレンジ色の奇抜なファッションに出で立ちのイケメン青年と黄色と黒色という派手というより毒々しくかなり露出の多いチビでビッチ、略してチビッチな女の子。そしてその後ろからこの教会の主である黒服の神士様とシスターの合計四人の姿が出てくる。
「これもアクマド=レインの仕事ですから」
と丁重に挨拶を交わしてオレンジイケメンとチビッチはその教会の敷地内から離れる。オレンジイケメンは姿勢良くキビキビと歩き、チビッチはフラフラと酔っ払いみたいな歩き方をする。しかも女の子のはずなのにその姿は非常にスキだらけで大股を開いて下着をチラチラ覗かせる。
「むしろ見せつけてるんだよ。ニヒヒヒッ」
とはチビッチの独り言。
二人が教会の敷地を抜けて、この田舎町の中心になっている大通りへと向かっていく後ろ姿を神士様とシスターはニコニコ笑顔で見送っていた。
「神士様。何も追い出すように送り出さなくても良いではありませんか。せっかくですし、旅の疲れを癒すため一晩泊まっていただけば……「シャラァップゥウウッ!貴女は一体何を頭のおかしいことを言っているのですくわぁ?」
黒服の神士がシスターの発言を遮断する。怒りの表情から察するによほど口にしてはいけない禁句だったようだ。頭を真っ赤に噴火させ、青筋はいきり立ち、目の玉は飛び出さんばかりに見開き、唾が散らそうがお構いなしだ。
元々目は大きく印象的でおかっぱ頭をしている。頭頂部には河童の皿のような帽子を被っている。年齢は五十代前半だろうか。かなりのおっさんである。そんな少しは落ち着いたらどうかと思われるおっさん、ではなかった、黒服の神士が声を荒立ててシスターに詰め寄る。教会の外で怒鳴り声が聞かれるかもしれないなんて一向に考えもせずに。
「良いですか?よく聞きなさい。あのアクマド=レインというヤツは人の罪を吸い取り、己に溜め込む糞詰まりのクソ虫みたいな存在なんです!横にいたクソビッチ悪魔がいたでしょう?あれが証拠ですよ」
横にいたクソビッチ悪魔とはチビッチのことだろう。ひどい言われようだった。
「あの悪魔はですね。アクマド=レインが今までに溜め込んできた罪を表出した姿。非常におぞましい何とも不潔で下品な姿!こ、こ、この私に色目なんぞ使ってきやがったのですよ?わかりますか?あんな幼な子のくせにあれだけ珠の肌を見せびらかせ、パ、パンツを恥じらいもなく晒しまくって!何たる侮辱!神への冒涜ですよこれは!」
憤るのは構わないが、後半はどう考えてもスケベ心が見え隠れする発言である。性事には疎く清らかで純潔さを身上とするシスターは正直引く。神への冒涜ではなく、それはただお前のムッツリスケベのせいだろ?と。
「貴女も見たでしょう?地下室での出来事を。この世のものとは思えぬ仕事の様子を」
神士の言葉のあと画面はうっすらと場面転換のためにブラックアウトしていく。
数刻前。ここは教会の地下牢。この教会には規律破りの犯罪者を投獄しておく施設がある。それがこの地下牢だ。そのイメージに相応しく周りを石材で囲み、じっとりと淀んだ湿気交じりの肌に張り付く嫌な感じのする空間。明かりのロウソクは細くて辺りはほとんど照らされていない暗闇。衛生面は最悪でネズミなどの小動物や虫たちが平然とウロチョロ動きまわり活動していた。非常にカビ臭くて排泄物も放置されているような異臭がそこかしこから臭ってくる。それもそのはず凶悪犯罪者の食事用に牢の真上に教会のトイレが設置されているからだ。真っ当な感覚の持ち主ならそんな不衛生な場所にいるだけでも強いストレスを感じるだろう。
「アクマド=レイン様。こちらの者です」
頭ペコペコ、腰は低く、もみ手でご機嫌伺いの神士はオレンジイケメンとチビッチを地下牢へ案内しているところ。さきほどまでの威勢も何処へその。地下牢に続く階段を下りて、合計三つあるうちの一つの牢の前に立っていた。
凶悪犯罪者用の牢、ではなく一枚の壁を隔てた隣の場所にある軽犯罪・もしくは罪の確定してない容疑者クラスの牢。男子用。そもそも凶悪犯罪者用の牢はここ丸三年は全く使われていない。言わばこの牢は軽犯罪者や容疑者たちへの脅し牢という役目を果たす。凶悪犯罪者なんてすぐに処刑してしまうわけで。
ただその牢の側にあるためか環境は同様によろしくはないが、さすがに最低限の人権は尊重してくれる待遇は成されているだろうか。食事、着替え、布団、日用品くらいなら一通り揃ってはいるようだ。
そんな軽犯罪者用の牢の中にポツンと背を向けて布団に包まっている男が一人いた。
「なぁゼガ。早く終わらせようぜ。こんなクソ溜まりの臭いところにいたら鼻がもげそうだぜ」
とチビッチ。悪魔だけに口が非常に悪い。外見は可愛らしい女の子のように見えてもこの子は列記とした悪魔なのだ。口も悪いし態度も悪い。あまりにこの臭いに耐え切れずに胸を覆っている衣装を上に持ち上げてマスク代わりにするが、もちろんそんなことをすれば上半身を晒すことになる。そうでなくとも露出の強い衣装なのでチラチラと男の視線をかき集めるというのに。その証拠に突然現れた少女の上半身裸に目が釘付けとなってしまったスケベ神士。同じくシスターも信じられないといった表情で口元を手で隠してしまう。
チビッチの身なりを元に戻しながら口の悪さを是正する、ゼガと呼ばれたオレンジイケメン。
「そんな口の利き方をしてはいけませんよ。それに身なりもきとんとすること。わかりましたか?ゼルベール」
どうやらチビッチの名はゼルベールと言うらしい。ゼガに身なりを整えてもらう。そもそもこのゼルベールの格好と言えば、キツい黄色に黒色のラインが入ったボディアートのように見えるデザインのぴっちりと締め付けるチューブトップ。下は極ミニのタイトスカート。少しでも足を上げようものなら下着が丸見えになってしまうだろう。あとはアームロングにオーバーニーソックスといった具合だ。これらも同じ黄色に黒色の模様。この奇抜なファッションは女郎蜘蛛を象徴しているのだ。
そう、ゼルベールは女郎蜘蛛の悪魔なのである。あと特徴的といえば頭の左右に四本の蜘蛛足が出ている。この蜘蛛足はブクブクと太ってボンレスハムでも乗せているようにも見える。それが逆に可愛らしく見えるような、見えないような妙なアクセサリーとなっていた。
この時代は神や悪魔が実在すると信じられている。実際にアクマド=レインの横には悪魔を連れているわけだ。法整備もままならず、各町各村の自警団や教会に判断を任せているような場所ではゼルベールのような格好をした女の子がそこいらを歩けばどうなるものか?考えただけでも恐ろしい。運が良くて身売りされるくらいだろう。そういう時代だった。
それに比べてゼガのほうはどうだろう。こっちは対照的にオレンジ色の修行服を着ている。締め付けは手首足首だけで余裕のある服に同色の腹帯で調整する。きっちり着込めば防寒に優れ、ゆったり着崩して風通しをよくすれば暑さも凌げる万能服。またオレンジは宗教的意味合いを持つ色であり、ゼガ本人の性格も表している。品行方正、その佇まいは穢れを知らない純朴な好青年と誰もが語るだろう。きっと虫を殺したことすら無さそうな、それを感じさせない、どこからどう見ても善人だ。ゼルベールが悪魔ならゼガは神に仕えし者といったところか。
そんな二人が何故この辛気臭い地下牢へ来たかというと。
二人は臆せず地下牢へと入っていく。後ろで再び鍵が閉まる音を聞く。神士とシスターは外から鍵をかけたのだ。
「くくくっ。まるで投獄された気分だなゼガ?いずれお前もこうなるのさ」
「人の罪は背負っても、私自身が罪なんぞ犯しませんよ」
そう言い切るとゼガはこの地下牢に唯一存在する人物へと近寄っていく。背を向け布団の中で静かに包まっている。その人物の体格の良さから、いつ事が起きても良いように護身の型を作りながらゼガは人物に声をかける。
「もしもし、そこの御仁。少しお話をさせてもらえませんか?」
「あ、ああ、あぁ、あぁ」
明かりが細くてよく見えないがゼガのほうに顔を向けてくれたようだ。寝起きだろうか?やけに機嫌の悪そうな雰囲気である。
「オラッさっさと起きろっての!」ゴツン☆
「ギャヒュィーンッ!」
せっかくゼガが事を荒立てないよう低姿勢で接触したのに、それを台無しにするゼルベールのケツキックが牢の人物に炸裂する。しかもつま先が尻穴に直撃する痛恨の一撃だ。大の男も悲鳴を上げてしまう見事な角度でねじ込むように決まっていた。
「ぴゃ!しゃららっ!じゃっしゃ!しゃるあああああッ!」
な、何を言っているのかわからないが、男は怒りに任せて乱暴に立ち上がる。下腹がでっぷりと出た中年腹。だが腕や足を見るに筋肉質でケンカは強そうだ。
「アクマド=レイン様ぁ!気を付けて下さいませ。そやつの名はブッチャ!腕っ節は相当のもので、ここ最近誰彼構わずケンカばかりするので閉じ込めてやったんですよー!ひぃぃぃぃっ!」
「ぶるらぅら、あ、しゃああああああーッ!」
「ギャァアアッ!」
牢の外にいるのに神士は腰を抜かしてシスターの後ろまで逃げ込む。
「ゼガ、見えるだろ?ブタの顔面から出ているもの」
ゼルベールが指差すその方向には、ブタじゃなくブッチャの顔。その顔からはうにょうにょと気味の悪い黒い蛆虫ようの何かがあちこちに蠢いていた。目から鼻から耳から口から、穴という穴から数十匹という黒い蛆虫がわらわらと湧いて出ていた。かなり気持ち悪い。
「なるほど。これはかなり悪魔が溜まっていますね。早急に対応せねばなりません!」
こうと決めれば行動が早い。ゼガは即行動に移し、ブッチャに突撃する。急激に殺気を伴った男が近づいてきたのでブッチャも本能のまま返り討つため拳を繰り出す。
ブォンッ! ブッチャの拳は空振りする。当たり前だが突然の事態に行う人間の行動ほど読みやすいものはない。素直に繰り出された拳の動線は少し身を翻せば回避は簡単だ。
ゼガはブッチャの懐に潜り込み、距離を測るために顔面に二発ほどスガッスガッ!と拳をぶち当てる。
「フゴゴッ」
ブッチャはよろける事すらしなかった。すぐにブッチャは次弾の拳を振り上げる。今度は体勢を整え、重心を乗せた一撃になる。ゼガの攻撃があまりにも非力すぎて余裕を感じたのだろう。
「ガ、ガキョギョキョキョ、ギャアアアアー!」
力の差を見せ付けるようにブッチャは拳を振り下ろす。スゴゴゴゴッ!という擬音まで見える真っ直ぐな直線の攻撃。スピードも威力も申し分ない。この一撃をまともに喰らえば、ゼガは一溜りもないだろう。哀れ、ゼガは脳震盪を起こし無様に床へ転がるだけだ。
もちろんそんなことにはならない。余裕を見せ付ける一撃なんてこれまたスキだらけなのだ。さきほどの一撃よりも動線がはっきり見える。強さを過信する者の悪い癖だ。窮鼠猫を噛むとはこのことでゼガはこの一撃を誘っていた。
元々距離は近距離戦。ゼガはブッチャの一撃に合わせて元いた位置から一秒にも満たない速さで懐に踏み込む。一番威力の高い攻撃を繰り出せる距離感は初発の攻撃ですでに掴んでいる。その間合いにブッチャの顔面が入ったきた瞬間、ゼガのカウンターパンチが炸裂する。
ゴニュッ! ブッチャの鼻がゼガの拳の形を描くようにひん曲がる。
「……ギョ、ギョギョ、ギョゴゴゴゴブフゥッ」
……ズシィン! ブッチャは膝から崩れるように倒れた。埃っぽい床に巨体が倒れるものだから埃が舞い上がって大変だった。
「ゲーホッゲホゲホッ!なんだよこの埃は!汚ねぇな!」
ゼルベールは怒り心頭。舞い上がる埃を払い除けながら文句ばかり言っている。ゼガのほうはブッチャが完全にのびているか確認すると、戦いで熱くなった精神と肉体を沈静化させるため深呼吸をしていた。取るに足らない心理戦だったが、短時間でこれだけの運動量だと心身ともに疲労してしまう。
ふぅ~と一息つくと未だにのびているブッチャを抱き起こす。
「さぁゼルベール。お願いしますよ」
「はいはいっと」
「返事は一回にしてください」
「は、はーい、はいはい、は、はーいはいーっと」
ムッとするゼガをお構いなしにゼルベールはブッチャの口の中へ手を突っ込む。黒い蛆虫のようなものもお構いなしだ。口の中に異物が入ってきたブッチャは堪まらず嘔吐しようとするがそれもお構いなしだ。何もかもお構いなしにゼルベールはグングンと口から喉へと、喉から胃の辺りまで強引に手を突っ込んでいく。意外と入るものだなと変に納得してしまうくらいに。そんなところまで突っ込まれているブッチャのほうは堪ったものじゃないだろうが。見る見るうちに青ざめて、目から大粒の涙をボロボロとこぼす大男。
「モゴォオオー!モンゴゴ!」
ブッチャの悲鳴もお構いなしだ。
「よっと、はっと、いたいたこいつだ!」
ゼルベールに何か手応えを感じたらしい。手をギュッと握り締めて胃中にいた何かを引っ張り出そうとする。が、上手く引っ張り出せないようだ。入りは指先伸ばして手を突っ込んでいるが、帰りは握りコブシとプラスアルファで何かを握っているわけだから、胃や喉の内側にひっかかって抜けないようだ。
「ガボボボボボッ」
あらら。ブッチャは気絶しました。肉体は鍛えることが出来ても体内は鍛えられないからだろう。そのあともゴチュ!ゴチュ!と体内を摩擦する嫌な音をたてながら、口から何か異質なものを取り出そうと試みるゼルベール。
「ちっ。ここがこう引っかかってるからなーよっと」
ブチャブブチャ!ジュジュッジュー! あーこの音どこかで聞いたことがあるなーと思ったら、釣りをしているときに、釣った魚の奥で釣り針が引っかかって全然取れなくて、面倒臭くなって釣り針を無理やり引っこ抜いた音に似ているな。すっごく。
なんてゼガが思っていたら、ようやく最後の一踏ん張り。ゼルベールの手首まで出てかかっている。
「んーーーっ!このっこのっ!コモンドリャアアアアアーッ!」
ああ、そんな強引に引っ張ったら!それ以前にコモンドリャーって変な掛け声は何?
ズッビョオーンッ! 見事。無事に?ゼルベールはブッチャの体内から何かを引っ張り出せたようだ。長い戦いだった。おかげでブッチャは泡状のいろいろな体液の入り混ざったものを噴出している。ご愁傷様です。よく頑張りました。おやすみなさい。死なないと思うけど。
ビチャビチャビチャッ!と跳ねる取り出した何か。ゼルベールの手の中で今も元気に踊っているそれはまさに蛆虫の親玉。ゼルベールの顔くらいの大きさがある黒い蛆虫だった。
「ほっほぅ。けっこうデカいなこの罪は」
「こんな大きな罪が腹の中にいたのですね」
「まぁでもこの大きさならせいぜい多数の人間をボコボコにしたくらいの罪かな。それじゃいただきまーすっと」
ゼルベールは腹を空かせた子どものようにその罪を喰らい始める。小さくて可愛い八重歯が黒い蛆虫の身体に容赦なく噛み付き、肉を引き千切ってモシャモシャと咀嚼、そして飲下していく。パクパクと食べ進めていき、あっという間に完食してしまった。
ゼルベール。アクマド=レインと共にするこの悪魔の役割はこうして犯罪者から罪を引き出し食べてしまうことである。
そしてこの罪の行方がどこかと言えば……
「ふぃ~食った食った。ごっそうさまっと。どうだいゼガ?気分のほうは」
「……え、えぇ。大丈夫ですよ大丈夫です」
よく見るとブッチャを支えているゼガは眉間にしわを寄せて顔を紅潮させていた。なんだか鼓動が早くなり、目はランランとギラついているようにも見える。呼吸もひどく乱れていた。まるでさっきまでのブッチャの表情そのままに変化していく。
しかしブッチャのように暴れることはなく、特定のリズムで行う呼吸法を使って、だんだんと穏やかな表情に戻していくゼガ。
実は悪魔が食った罪は一心同体であるアクマド=レイン本人の心に加算されていく。つまり悪魔が罪を食えば食うほどアクマド=レイン自身は大罪者となっていく。人の罪を代わりに背負って相手の罪を許していく。それがアクマド=レイン唯一の自己犠牲型救済方法なのだ。いずれは大罪者として地獄に堕ちていくだろう。それも承知の上だ。
ただそれだけなら地獄行きの準備をするだけで事が済むが、問題は先ほどのゼガの異変。罪を背負うということは同時にその犯罪欲求をも受け持つということ。このときのゼガはブッチャが爆発させていた破壊衝動や暴力行為への強い欲求を罪を受け取ったゼガが抑圧しなければならない。もしその欲求を抑え切れなかった場合は今まで溜め込んできた罪と共に、全てが解放されて暴れ回ることになっていただろう。
忘れているかもしれないが神士がアクマド=レインを牢に入れたとき、鍵を閉めたのはこういう理由からだ。もちろんこれはゼガからの希望だし、言われなくても閉めていただろう。
頭の中で真っ赤なトマトが爆発していくイメージをゆっくりとゆっくりと払拭して落ち着かせようとするゼガ。ここもお得意のリラックス呼吸法でゆっくりとゆっくりと欲求を鎮めていく。
……のだが。
「ねぇねぇゼガー鼻フック!」
「フガンゴッ!」
ガツッ!と見事にゼガの鼻穴に指を突っ込んで持ち上げるゼルベール。正直カチンときたゼガではあるが、これこそ悪魔の仕事。アクマド=レインとわざわざ行動を共にする悪魔はこうして人間を悪に悪にと導こうとする。今この鼻フックでゼガがブチ切れればゼルベールの狙い通り。きっとゼガはその怒りを抑えきれなくなり、犯罪者へと変貌することだろう。一度解放された欲求を再び抑えることはまず不可能。我慢に我慢を重ねた排泄行為のように。
だけどゼルベール的には悔しいかなゼガはそんなことにはならず、ゆっくりと微笑みながら鼻に突っ込まれた指を引き抜いて優しくゼルベールを諭す。
「今度やったら殺……コホン。じゃなくてこんなことをしてはいけません。わかりましたか?」
「怒ってる?もしかして怒ってる?」
「お、怒ってなんかいませんよ」
「ちぇー。もう少しだったのにな」
最後にゼガのケツを一蹴りするも、もうゼガの気持ちは穏やかに戻っている。ハハハッと笑顔で子供のイタズラを諭すように立ち上がって、ゼルベールの頭をなでなでする。
一方吸い取られたブッチャのほうはと言えば、口周りから出血はしているものの、抑圧という罪から解放されてスッキリした表情になって気絶している。まるでHな夢でも見ているような気の抜けた間抜け面だ。
アクマド=レインに罪を吸い出された者は欲求や罪に関わる一部の記憶を無くしてしまう。そのためブッチャは目を覚ますとアクマド=レインのことも自分が何故ここに入れられているのかも覚えていないだろう。まことに勝手ながら。
「無事にアクマド=レインの仕事を終えました」
「……その、よう、です、な」
……。
神士はいぶしかるようにゼガの頭から足先までを要確認して、渋々牢を開錠してやる。んーっと背伸びして身体の緊張をほぐすゼガとゼルベール。その様子をひとときも目を離さず監視する神士とシスター。いつ暴れ出さないかとヒヤヒヤしながら。ただし神士のほうはゼルベールの両手を伸ばして露になった腋の下に視線が注がれていた。とんだ生臭神士である。
そんなやり取りが数刻前に行われていた。時間軸が元に戻り、ゼガとゼルベールを送り出した神士とシスターとの会話に戻る。
「良いか?アクマド=レインはいつその溜め込んだ罪を爆発させて人を襲ってしまうか、あるいは罪に飲み込まれて気が狂ってしまうか。そんな危険人物をこの神聖なるクレア教会に一分一秒でも置いておけるものかバカモノ!バカも休み休み言えってんだバカモノめ。
さっさと罪を溜め込んで勝手に自殺でもしてくれれば良いものを」
「……」
そう言い残すと神士はさっさと教会内へと帰っていく。シスターはアクマド=レインの悲しき運命を祈ることしかできなかった。
「ヒヒヒッ危険人物を教会に置いておけるかーだってよ。ゼガ?」
ゼルベールの耳はこういう陰口に対しては非常に地獄耳になる。教会から離れて姿が見えなくなっても聞こえてしまう悪魔の耳。陰口なんて叩かせておけば良いものをわざわざこうして教えてくれるのはゼガの精神面をチクチクと攻撃するためか。
「別に構いませんよ、ゼルベール。私の身一つを犠牲にすることで罪人が救われて世の中が平和になっていただければ、私は幸せですから」
「ケーッ!良い子ちゃんぶるなよな!気分悪いぜ!」
ペッペッペーッと唾を道端に吐き捨てるゼルベール。やれやれと手持ちの雑巾を取り出してそれを丁寧に拭き取っていくゼガ。
「それに私の目的はそれだけじゃありません。私の最大の目標は自分の悪魔に。そう。貴女に勝つことなのですよ、ゼルベール。
私は生まれてから今まで一度も悪を行ったことがありません。品行方正、一寸の虫にも平等の魂。弱き者を助け、彼らを導く。自分より相手。相手よりみんな。全ての人の幸せこそ私の幸せ。こんな私だからこそ神様はアクマド=レインの仕事を与えてくださったに違いありません。これは私に対する試練なのです。無尽蔵に善人な私だけが行える最大の神への奉仕だと思っています」
ゼガは道端の雑草にかかったゼルベールの唾を葉一枚一枚綺麗にしていく。
「……頭大丈夫か?どれだけ誇大妄想に病んでいるんだよ。神様なんているわけねぇし」
「悪魔の貴女がいるのですから、神様だってちゃんと私を見守っててくれてますよ」
「キモッ!神様とかキモーッ!気持ち悪すぎだよ!」
ハハハッと大人の返しをしたゼガはすっかり綺麗になった道端を見て頷きながら満足するのだった。
「全くお前はつまらない男だよ。この世にいない神なんぞに奉仕したり、くだらない罪人を救ったって意味がないだろ。誰がその見返りをくれるって言うんだ?
そんなことするより、今、目の前にある自分の未曾有に溢れる欲望を素直に求めたほうが良いじゃないか?」
ゼルベールはそう言うとしなやかな体躯をより色めき立たせる。グラビアアイドル顔負けのセクシーポーズ。自分が可愛いと絶対の自信がないと出来ない計算づくされた際どいエロス。チビッチの本領発揮。そんじょそこらの男ならすぐに勘違いして「自分に気があるの?」と聞き返したくなるような色目使い。一瞬で相手に伝わる身体の熱量。盛った猫のように潤う瞳で直に見つめていく熱視線。その視線に捕らわれると自ら視線を外すことは困難になる。
その視線は固定したまま、ゼルベールはゼガのフェチ部位を探っていく。男の好きな女性の象徴を強調されるポーズをとっていく。順々にポーズを変えていくと男はフェチ部位を露わにされると必ず表情に出る。そこを見逃さずにチェックしていく。あきらかに目が釘付けに動いている部分を探し当てられれば、今度はそこを重点的に美しく魅せ付けてやる。これでスケベな男ならすぐに鼻の下を伸ばしたがるだろう。目は口程に物を言うとはこのことだ。
しかもゼルベールは悪魔だ。魅了で男心をくすぐるなんてお手の物。人間の女性では出来ないことも平気でやってのける。これでオチない人間の男なんていない。
「ほれほれ。男ならこういうのが好きなんだろ?」
と、男を小バカにした挑発的なセリフで男のプライドをくすぐっていく。セリフ一つで男の態度は変化する。特に支配的な男にこういう挑発は非常に効果的だ。男は弱さを嫌うので自分より立場の強さを見せられると強さの上塗りしようと反発する。よって女性よりも強いところを見せようと簡単に挑発に乗ってしまうのだ。
今のゼガもそうなのだろう。さっきからゼルベールから視線を逸らさない。しめしめとゼルベールも調子が出てきて、よりあざとく責め立てる。
「なぁゼガ。あたしのおっぱいどう?最近大きくなってないか?こうして毎日揉んでる効果出てるかな」
と、ゼガの視線を胸に下げさせたら、ゼルベールはこれ見よがしに小さな胸が大きく見せようと揉み始める。当然揉むことで動く布の形も計算済み。見えそうで見えないチラリズムを意識して慎重に指を動かす。ここでポロンと軽々しく見せるわけにはいかない。脱がせる男のお楽しみは最後に取って置かないと。
次に腰のくびれ。ここ自体にフェチを持つ男は少ないけど、そのラインに続くお尻の形を魅せる対比効果があるので、ここも無視できない重要なポイントになってくる。
その流れでようやくお尻だ。ゼルベールは胸が小さい分、お尻でポイントを稼ぎたい。ゼガに後ろ姿を披露してお尻を突き上げるようにする。四足動物の本能だろうか。突き上げられたお尻はその無防備さや従順性を象徴し、男は開かれた扉に侵入しようと背後に忍び寄ってくる。その男の心理を逆に利用して、ゼガに敢えて背後を取らせた形にする。
「ほれほれ。ゼガがその気になってくれれば、この身体好きにしてくれても良いんだぜ?」
不敵な笑みを交えつつ、受け身で男が誘いに乗ってくるのを待つ。その姿はまさに女郎蜘蛛。自分の張った蜘蛛の巣に早く捕縛されろとニヤニヤ待ち構えるゼルベール。この段階になればすでに時間の問題。じわりじわりとゼガの手がゼルベールに伸びてくる。やっぱり善い人ぶってるゼガも所詮男なのだ。己の欲望に耐え切れずに伸ばしてくる手に勝利を確信するゼルベールだった。
「大丈夫、大人っぽく女性らしく成長してますから安心してください」
ゼガの伸びた手はゼルベールの身体を素通りして頭にポンポンと優しく撫でてくる。どうもこの男、まるで娘の成長を喜ぶ父親の優しい目線でゼルベールを見ていたようだ。
……
…………
……………………。
「あ、あが、ががが、が」
状況を整理するのに時間がかかるゼルベール。唖然としすぎて全く言葉が出ない。このゼルベール様会心の誘いシチュエーションを素通り出来るバカがいるなんて。○○かこいつは。
……
…………
……………………。
まだまだ状況整理に時間がかかりそうだ。口をあんぐりと開けたまんまのゼルベール。そんなことになってるとは露知らずゼガはハハハッと笑うのだった。
「ムキャーーーーーッ!さっさと性犯罪者の罪をいっぱい吸い取って、あたしを襲えーーーッ!」
「ハハハッそんなことしませんよ」
「それはそれで失礼だっての!」
なんてギャーギャーとゼルベールが騒ぎ暴れながら、それを見て笑うゼガという二人の風景はいつものことだった。
教会から離れて三十分くらい歩いたところ。ようやく町の中心地までやって来た。町と言ってもここは田舎町。主に隣国へ小麦や豆の農作物を輸出して生計を立てているので、田舎町の中では中の上くらいの豊かさランキングに入るだろうか。宿や教会、病院、学校、数多くの店や施設もそこそこ充実しているし、人々の身なりも小奇麗なものだ。町娘さんなんかもちゃんとオシャレを満喫できている。今の流行は黄色なのだろう。決して派手とは言わないが、あちこちにワンポイントで黄色を取り入れて楽しんでいる女の子が目に付く。
町の女の子がこうして出遊べるのはその地区の治安に比例する。女の子は町の発展を示す一種のバロメータにもなっているので、女の子を誘拐する事件の要因としては第四位に挙げられる。昔は女性の人権は否定され、売買の対象にもされていた。さすがに最近ではその風潮も淘汰されて女性保護団体、今のアマゾネス団体に目を付けられると痛い目に合うだろう。女性は怒らせないほうが懸命だというのは良き教訓だ。
せっかくなのでここで少し世界観について説明したい。この町には先ほどゼガたちがお世話になっていた教会が信仰するクレゾアン神教内クレア派の信者たちが多数いる。アクマド=レインもこの宗派に所属している。
クレア派は絶対善の執行者。クレア神を崇め、善を尽くすのが基本の教え。もっともわかりやすいシンプルな宗教である。シンプルゆえに信者数は人口の約半数は誇る巨大組織となっている。その分強い支配権力を持つと言われ、アクマド=レインのような特別な能力を持つ信仰者の存在も認められているし、組織内での立場や管理監視も一応に施されている。ゼガたちがこうして旅が出来るのもそのおかげだ。
アクマド=レインは現在登録されている者だけでも数十名はいる。もちろんゼガは登録者なのでクレア派信者には手厚い加護が受けられる。旅を通じて宿の手配や食事も用意される。それと引き換えにその土地へ派遣され、罪人の罪を浄化しているようなものだから。ただゼガはそういう扱いは苦手なので出来る限りお断りしている。クレア派の人間の中にはアクマド=レインを良しとしない者も少ないからだ。
クレゾアン神教の中には他にゾアン派の存在がある。こちらは絶対善のクレア派とは違い、必要悪の存在も認めている。人間は生きるのに多くの罪を背負わなければならない。「綺麗事だけじゃないのよ人生は」というのが教訓だ。本来ならアクマド=レインはゾアン派の教えから派生したようなものだけど、少しでも心の悪を認めた瞬間、悪魔に心を奪われるだろう。なのでゾアン派にはアクマド=レインは存在しない。言い換えればゾアン派は悪を認めているのだ。罪を犯すことは仕方がないわけだし、生きるためならば進んでするべきが自然ではないか?というわけだ。
また以上の理由から絶対善のクレア派と悪を容認するゾアン派は仲が悪い。一応分派として小競り合いは絶えない。
クレゾアン神教は元々クレゾアン神話のクレゾアン兄弟から創造された。二人とも仲良き兄弟だったのだが、主神争いで敗れた弟ゾアンが悪と手を組み、兄クレアと終わりなき戦いをしているという物語を模しているのだとか。
他には女性地位向上を目指すアマゾネス団体。その支援者がアマゾレスでこちらは男性の加入もできる。リグアント独立勢は自然共存思考で世界の創造者に感謝し、自然破壊を強く反対する。モレアックは超常現象や予言・超能力などの超人的な力を追求する団体なのだが、その思考原理は世界破滅論。そのため非常に危険な団体に指定される。あとは無信仰者や取るに足らない勢力がいるくらいだ。
このうちアクマド=レインとして気を付けなければならないのはリグアント独立勢とモレアックだろう。
リグアント独立勢はクレア派とは仲が良いのだが、アクマド=レインの存在を全く認めていない。やはり罪は本人が背負って然るべき。それが自然懲罰だという考え。
モレアックは特殊でアクマド=レインの力には非常に興味を持っている。過去十年くらい前にアクマド=レインの一人がモレアックに拉致・拘束されて、限界まで犯罪者の罪を吸わせ続けるといった実験が行われたらしい。結果はどうだったかはわからない。何せ実験関係者は全員死亡した。何があって何がどうなったのか、今や誰も詳細を知る者はいない。とにかくモレアックとは関わらないほうが身の安全のためだろう。
それからゼガの出生について。ゼガの父親はアクマド=レイン。ゼガが生まれて間もなくクレア派の孤児院に預けられる。それは父親が我が子殺さぬようにという配慮だったのかもしれない。なのでゼガは父親の顔は知らない。
ゼガはクレア派の教えを守ってすくすくと元気で病気一つせず、自分のことより人のために尽くすような善い子に育っていった。孤児院の手伝いもよくするし、畑の管理にも才能があり、野菜や果物を豊作にしてきた。作った野菜や果物の余剰分はクレア派の貧しい信者に配って回り、ゼガに感謝する者はたくさんいただろう。そんな幼少期を過ごしていた。
ゼガがアクマド=レインになったのは父親の影響だったのかもしれない。そういう遺伝子を持っていたのかもしれない。むしろこれは運命なのかもしれない。ゼガはクレア派の信者にスカウトされて、アクマド=レインになることを進んで引き受けることにした。
悪魔との契約を交わし、そこでゼルベールと出会う。これから最期まで共に過ごすパートナーだ。いずれゼルベールに心を奪われるだろうが、ゼガは極めて優しく接することを誓う。
それからゼガたちはクレア派の教会側から要請された罪人の罪を吸い取って浄化していく。クレア派が多くいる各町を主に周って旅をしている。今回のように邪険に扱われることもあるにはあるが、ゼガはそれでも充実した日々を送っている。まだまだ軽犯罪者レベルの罪しか扱っていない未熟者だけれど。
「ねぇねぇちょっと見てよん。アレじゃないのん?」
と、この町の娘さんたちが井戸端会議している声が聞こえてくる。聞いているのはゼルベールの地獄耳。ゼガは地図を見ながら今後の旅のスケジュールを模索している。今日はもう宿に泊まろうか、次の町へと出発しようか、と。ゼガに構ってもらえないゼルベールは暇つぶしに耳を傾けてみることにした。
「ブッヒー。アレよ。絶対リッヒ=ランバード様に違いないブッヒッヒッ」
町娘さんたちの視線の向こうには何やら育ちの良さそうな血色の良いお兄さん、名前はリッヒ=ランバードと呼ばれていた貴族風の青年がナンパに成功した町娘さんをエスコートしているところだった。連れられる女の子はこの町のしがない少女。オシャレと言えばオシャレだし、可愛いと言えば可愛いし、胸が大きいかと言われればおっぱいは大きかった。この町の娘さんの中では上玉のランクに入るだろう。
しかしやはり田舎の匂いが抜け切ってない感じの女の子で、リッヒのような貴族でお育ちの良い青年がわざわざ選ぶような子じゃないと思われる。そもそも貴族が遊びに来るような場所でもない。貴族は貴族同士で用意された社交場で、身分のしっかりした相手と出会いを求めるはずなのに。そういう意味でかなり違和感のある光景だと言える。
「ブヒーブヒー。リッヒ様最高ッ!あだちもお嫁ざん候補に選ばれたーい」
「何でもリッヒ様はお忍びでお嫁さん探ししてるって噂らしいわよん。こんな田舎町にも来てくれるなんて夢のようだわん」
「隣国の大富豪!超玉の輿ッ!そじてイゲメン!堪んねぇわー」
やいのやいのと女が寄れば姦しいことこの上ない。そんな話に花を咲かせている最中、リッヒは女の子を移動用の歩行鳥に乗せる。歩行鳥とは馬に続く乗り物で馬ほど持久性はないが、餌代などの維持費が安く、気性も穏やかなので人気が高い。
そんな歩行鳥の背に乗せられた女の子はちょこんと可愛らしく腰を下ろし、リッヒは手綱を持って歩行鳥を誘導していく。たぶんそのままお持ち帰りするつもりだろう。町の出口を目指して歩み出す。ただリッヒの表情には不敵な笑みが浮かんでいるように見えたが、それは何を意味するのか?お持ち帰りの獲得感だろうか。ともかくその表情がなんとなく気になったゼルベールだった。
「ゼルベール!旅の買い出しをしますから付いて来てくださーい」
と、呼ばれる声。どうやらゼガはこのまま旅の支度をして、今日中に次の町へ出発するつもりらしい。
市場を回る。ゼガは長期保存可能な保存食を中心に必要なものを集めていく。干した肉・干しキノコ・果物や飲み水など。基本装備はリュックに入っているので心配なしと確認済み。あと途中に川沿いを進むことになるので川魚釣り用の道具も買っていく。擬似エサと糸くらいか。竿はその辺に落ちてる木の棒を代用すれば構わないだろう。
そんな感じでテキパキと買い物をしている横でゼルベールが良いものを見つけた。
リンゴ売りのオヤジが居眠りしていた。
店頭で居眠りとか良い根性をしている。ゼルベールはそれじゃあと遠慮なく大きなカゴに入ったリンゴを二つ、ゼガの分も盗み取る。もちろんオヤジは気付いていない。気持ち良さそうにリンゴを入れたカゴの前でコックリコックリと舟を漕いでいた。
「ほれゼガ。収穫だ」
と、抜き足差し足でも戻ってきたゼルベールはゼガに向けてリンゴを投げてよこす。
「……ど、どうしたんですか?このリンゴは」
「もらってきたんだよ。自由にお取りくださいって感じだったからな」
「……?」
確かにゼルベールは幼い少女の外見からなのかよく物をもらうことがある。可愛いお嬢ちゃんの気を引こうとしているのか、単に善意なのか。ただゼルベールは悪魔なので、その好意に遠慮はなく、むしろ「追加でよこせ」という態度で接するのでいつもゼガが間に入って謝罪する。
今回もそのようなものかと思ったのだが、こんなおいしそうなリンゴを自由にお取りくださいとはどういうことか。
「まぁ細かいことなんて良いじゃねぇか。おいしいぜ?」
シャクシャクと歯を立てると水々しく弾けるリンゴをかじるゼルベール。見ているだけでその美味が伝わってくるような。そのせいで唾液の分泌を促進させる。
「そ、そうですか。それじゃあ私もいただきます」
……。
というわけにも行かず、せめてこのリンゴの出元を探してお礼の一つもしなければならない。
キョロキョロとゼガが辺りを見回すと……すぐに見つかった。というか呆れてしまった。街路に腰掛けて手前にリンゴをたくさん入れたカゴを置き、売り出しているオヤジさん。きっと朝から重いカゴを運んできて疲れていたのだろう。この町周辺にリンゴ園なんてないので一山超えてきたのかも。このままだとサイフまで取られそうなので声をかけてあげることにした。
「もし?主人。起きてください」
「ンガッ!んっ?ん?」
身体をビクつかせながらようやく起きるオヤジ。熟睡していたようだ。まだ寝ぼけているようで目が半分開いていない。どうやらゼルベールはここから盗んだみたいなのでゼガは仕方なくリンゴの代金二つ分を支払うことにした。
「……全く。ゼルベールは油断も隙もないのですね。このリンゴを知らずに口にしていたらどうなることか」
「ヒヒヒッもちろん盗品を食べたことになっていただろうな。盗品くらい食べるのにビビりやがって」
「ビビるとかビビらないとか、そういう問題じゃありません。むしろリンゴ二つ分の代金も支払えないほど貧しくありませんので」
「そうじゃねぇよ。万引きはスリルを楽しむもんだろ。金があるとか無いとかじゃねぇって」
「……よくわかりませんが、そんなスリルを欲するほど心も貧しくありませんよ」
「ケッ!そうかい、やっぱりお前はつまらない男だよ」
シャクシャクとリンゴを芯を残して食べ終わるゼルベール。けっこう実が残っていて勿体ない食べ方をしていたが、構わずゼルベールはその辺りにポイ捨てしてしまう。
例によってゼガは食べ残しを拾おうとしたが、途中で手を止めて去ってしまった。その食べ残しはゼガが去ったあとに小汚い子供たちが拾って食べるだろう。親に捨てられたのだろうか。残念だけど、ゼガ自身が直接子供たちに施すことはできない。そういう決まりでアクマド=レインの職務ではなく、この地にいるクレア派の仕事だから。きっと余計なことをしてしまうとそれだけ反感を買うことになるだろう。この地にいるクレア派のプライドを傷付けるのは得策ではないから。
ゼガはリンゴを一かじりしてみた。苦かった。貧しい子供たちに何もできない自分の味がした気がした。
それから町を出るとそこは緑の多い自然が広がっていた。次の町へ行くためにはこの森を直進するのが早い。行き道には山から下ってくる川の流れがあるので、それに沿って山の麓まで行き、山を迂回するように歩けば迷うこともない。これが一般的なルートになる。ほとんどの人がこの道を使うのでルート外の場所は未開拓地のように自然のそのままの姿を残していた。
途中に川釣りをする人が休憩するために利用される釣り小屋も配置されているので便利だ。ゼガたちもそこで一泊するつもりだ。
この小屋には昔老夫婦が住んでいた。川魚を釣ったり、釣り目的や旅人の宿泊に提供して生計を立てていた。釣り好きな旦那さんはよく釣り人と釣りトークや一緒に川釣りをしたりと気楽な老後を楽しんでいたようだ。このことからわかるように夫婦の人柄はとても良く、夫婦が亡くなられた今でもこの小屋は宿泊所として利用されている。ほとんどの宿泊者は感謝の意を込めて小屋の手入れをしていくのが決まりで、おかげで今でも当時のまま小奇麗にされていた。
そんな小屋を目指して歩き続けているゼガたちだったが。
「おーい。腹減ったぞーゼガ」
「うううむむむ。おかしいですね。この川沿いを進めばすぐに小屋が見えてくるはずなのですが」
まさかの迷子。確かに川沿いに歩き続けていたのだが、地図を片手に持っていても道に迷ってしまう恐るべき方向音痴のゼガ。単純に出発した川沿いが間違っていて、一つ横の大きな川を進むべきところを別の川に沿って歩いてしまったようだ。なんたるイージーミス!
と、言いつつ別にそこまで重要な間違いではない。この川沿いを離れて正規の川を目指すなり、このまま進んでも山の麓へは辿り着けるからそこからまた小屋を目指しても十分日が暮れるまでには到着するだろう。ただ問題があるとすれば……。
「あーもー疲れたー。足が棒になって動けないぞーゼガー」
「うぅ。もう少しがんばってください。ゼルベール」
「大体この道で合ってるのかよ?絶対間違ってるって。だって小屋なんて全然見えてこないだろ」
「うぅ。どうなんでしょうね。でも地図にはこの道で合っているはずなのですが」
「もーどうでも良いよ!疲れたよ!しんどいよ!どうにかしろよ」
「いやはや困りましたね。もうすぐ着きますから我慢して歩いてください」
「イーヤーダー!ゼガの役立たず!」
「うぅぅ」
ゼルベールのわがままっぷりだろう。悪魔とはいえ、さすがにこの見た目の小さな女の子に不満を爆発されたらゼガも困り果ててしまう。
実は悪魔の姿は人それぞれ見え方が違う。同一の悪魔だったとしてもその人物の恐怖の対象として目に映り、見え方が全く異なるものだ。
アクマド=レインと契約する悪魔も同じでその人物の恐怖の対象で姿を表されることになる。ある者は虫であったり、モンスターであったり、架空や伝説上で語られる神獣であったり、または人間で両親や親族、犬や猫、小石や壷など様々な姿で出てくる。
差し詰めゼルベールがこのような女の子の姿で出てきた理由はゼガはこのような年代の女の子が苦手ということになる。道を間違えるという小さなミスではあるが、そこを指摘されるとシドロモドロになってしまうようだ。
普段見せない態度にゼルベールも調子が出てくる。弱みを握ることで無茶なわがままも通りやすくなるもの。悪を進める場合は特に握っておくべき手順となる。ゼガは自分がミスをしてしまった負い目もあるので素直に従わざるをを得なくなる。
さてどうしてくれようか?と思案するゼルベールではあったが、それよりも気になるものを発見してしまう。
「くんくん。おい、ゼガ。なんかこの辺りに“血”の匂いがしないか?」
「え?え?そ、そうですか?」
ゼルベールと同じように鼻を使って辺りの匂いを検査するゼガ。
……。うーん。ゼガにはそのような血の匂いは感じなかった。この辺りは正規ルートではなかったので、川沿いの水しぶきからくる清涼な香りと森林から湧き出したての清潔な酸素。あとは日の匂いくらいだろうか。こんな裏道を利用しているのはせいぜい道を間違ったゼガたちくらいなので人の気配は全くないと言って良い。
もしかすると二人しかいないのなら、ゼガ自身がいつの間にか怪我しているのかもしれない、とゼガは全身を調べてみたが出血は見つからなかった。
「いや、ゼガの血の匂いじゃない。そんなの間違えるはずがないだろ」
そうか。ゼルベールはゼガの血の匂いは間違えないのか。
「なるほどね。ここは人の通りもほとんどないし、行き来するにも川沿いということもあって迷いにくい。少し離れれば森の中という隠し物をするのにはうってつけな場所もあるわけだ」
ふむふむ。と独り言をつぶやきながら辺りを分析していくゼルベール。何を分析しているのか全くわからないが。
「ふふふ。蛇の道は蛇ってね。犯罪者と同じ感性を持つことで犯罪を行うのに適した場所を敏感に察知できるようになる」
そう言いながらゼルベールは川沿いを逸れて森の中へ入っていく。
「ちょっと、待ちなさい、ゼルベール?どこへ行こうと言うのですか?」
どんどん森の中へ進んでいくゼルベールに仕方なしにゼガも追う形で森の中へ入っていった。
森は日の光がほとんど入らず、森林が好き放題に伸び放題の場所。我先にと背を伸ばし葉を広げて日光を奪い合う木々。おかげで日中なのに薄暗くて薄気味悪い。虫や小動物ならさぞ隠れ場所には困らないだろう。
ゼルベールなら全身をすっぽり包み込めるくらいに背の育った草が生い茂る獣道。そこに問答無用で突き進むゼルベールを見失わないようにするのが精一杯だった。加えて土壌も人間が歩くために作られていないのでかなり不便だった。日の光が届かないので湿っていて踏むたびにグニャグニャとして気持ち悪い感触が続く。正直何を踏んでいるのかわからない。きっと長年積み重なってきた死骸や糞、枯れ草・枯れ枝・落ち葉や苔などと水気を大いに含んだ土が混じり合ったものだろう。腐敗しているものもあるかもしれない。うーん。想像したらすぐにでも引き返したい気分になるだろう。
ゼルベールの姿はほとんど見えないが進む度に草木が掻き分けられるのでそれを目印に追いかける。
「ゼルベール。こ、この先に一体何があると言うのですか?」
「血の匂いを隠した場所だよ」
「こんなところに血の匂いなんてありませんよ。動物か何かじゃないのですか?もう戻りましょう。ゼルベール?」
「動物じゃない。これは明らかに人間の血さ。誰も来やしないからこその隠し場所。罪はバレなきゃ罪にはならないんだぜ?いいから付いて来なって」
こうなってしまうとゼガにはどうしようもない。出来ればさっさと釣り小屋に行って、今晩のおかずになる川魚を釣りに行きたいゼガなのだが。
「高知能犯罪者の欠点は高知能者なら、誰でも思い付く最善の方法を無意識に選んでしまうことだな。犯罪者の視点で最善を選んでいけばいずれ辿り着く。とんでもない奇跡的な偶然が起きない限りな」
「……一体何の話をしているですか?」
「その点安心してくれて構わないぜ。お前の心が罪に折れて、あたしに乗っ取られることになれば、後世に残るような超知能的大犯罪を仕立ててやるからな」
「……」
「世の中お前のような純粋な白一色で出来てないってことさ。青草の色、枯れ草の色、木々の色、土の色、お前の色、人間の色、悪魔の色。いずれわかるさ。白が一番他の色に混ざりやすいってことをな」
「……」
その後も不吉な独り言を続けるゼルベール。悪魔というのはいつもこんなものなのだろうかとゼガは少々呆れてしまうのだった。
それから程なくして開けた場所が見えてきた。そこは沼だろうか。小さな水溜りが見える。さすがに土壌の緩い場所では木は立てぬとみえ、その周囲には日の光を邪魔立てする木々は無く、鬱蒼とした森の中で唯一温かみのあるオアシスのような気持ちの良い開放的な空間がそこにあった。まぁ沼だから美的センスから言えば所詮は沼の景観。でも暗い森の中を抜けて現れた沼だと何かこう神秘的な美しさというか。……いや、やっぱり沼は沼だ。そこを除けば日の光に照らされたその周囲はキラキラとした空気感が違って見えるのだが。
ゼルベールは鬱陶しい草むらから一歩足を踏み出すと赤い色を撒き散らす。
「……ッ!?」
その次の瞬間、銀色がゼガに向かってくる。ただ距離があったので、その銀色が届く前にゼガは後ろの緑色の中へ身を隠す。
あまりにも咄嗟の出来事だったのでよくわからなかったが、改めて今起こった出来事を回想してみよう。
あれはゼルベールが草むらを抜けた瞬間だった。すぐさまゼルベールから赤い液体が飛び散った。あれは血だ。血が血飛沫を上げてゼルベールは一瞬で血祭りにされた。多分頭部にかなりの損傷が起こったはずだ。どうも待ち伏せされていたようだ。
そしてゼルベールの赤で血塗られた銀色が次に目指した標的はゼガだった。草むらを分けて銀色が一直線にゼガの眼前へと迫り来る。あの形状はナイフ。片手で持てそうな、こういう森の中では扱うには手頃そうな必需品。そんなものが眼前に迫っていたようだ。ならゼガの取った行動は正しかったと言える。ゼガが全力で回避したから第二撃は襲ってこなかった。
ガサガサガササッ。どうやらナイフは草むらに沈んでいった。つまりナイフを持った人間も草むらに身を潜めたということだ。これはマズいかもしれない。向こうはゼガが後ろに飛んだことはわかっているはず。なら次の第二撃をどの距離からどの方向から撃てば良いか推測されてしまう。逆にゼガのほうは低姿勢のままどの方向へ向かえば良いのか、土地勘すらままならない。少なくともじっとしているわけにはいかないだろう。
「ヒッヒッヒッ。お兄さんやお兄さんや。こんなところで何してやがんだ?」
……ゼガでもゼルベールでもない三人目の声。新たな登場人物だ。声質は声変わりも終わっている若い青年のようだ。
「もしかお兄さんもアレか?小さい女の子をこんなところに連れ込んでイタズラでもするつもりだったのか?」
ザザザッと草が鳴る音がする。三人目が移動する音だ。
「でも残念だったな。俺様が先にいただちまったぜ。なかなか美味かったよ。俺も今度ガキでも連れ込んでやるかな。俺みたいにゴージャスで最高のイケメンならバカ女はホイホイ付いてきやがるからな」
「俺が殺人鬼だとも知らずにな」
にしても犯罪者はどうしてこうも自己主張が激しいんだろうな。喋るのは構わないがその声で方角や距離を測れるということを知らない。ゼガは慎重に三人目との位置を確認・調整するため、気付かれないように静かに動く。
「同じ趣向の変態に会えたことはうれしいが、ここは俺の処刑場でな。勝手に使ってもらっては困るんだよ。ここがバレちまう可能性だってある。だから死んでくれや!」
そのセリフと共に急に距離を縮めてくる三人目の男。上等。ゼガも相手との位置関係は把握済みなので迎え撃つ。
ゼガの頭上からナイフの切っ先が見えた。ナイフを持った三人目はナイフで攻撃しようとする。つまりナイフを追って軌道を推測すれば、避けるだけの簡単な足の動作で十分。タイミングを合わせて三人目の顔面にカウンターパンチを食らわせる。
「グァンギョロリッヒィーッ!」
哀れ三人目の男は鼻血を噴きながら派手に吹っ飛ばされる。どうやら格闘経験は無さそうだ。弱すぎる。
「て、てめへぇ!俺ひゃまのイへへるはほほなくりひゃひゃったな!」
正しく訳すと「て、てめぇ!俺様のイケてる顔を殴りやがったな!」だ。ゼガも立ち上がって相手の男の顔を見る。
リッヒだ。リッヒ=ランバード。川沿いを歩いているときにゼルベールが話していた、いけ好かない嫁探し中のお坊ちゃん。こんな森の奥にシャレた貴族衣装で来るなんて場違いも甚だしい。よく見るとリッヒの貴族衣装には家紋がくっきり見えている。リッヒ=ランバード家の家紋は歩行鳥を模した図形からなる。リッヒの家は歩行鳥の飼育・販売を行っている。もちろん急成長事業でガッポガッポと儲かっているらしい。
それはともかく鼻血が止まらないリッヒ。顔を真っ赤に血管を浮き上がらせ、とてもお怒りの様子だ。さきほどから鋭い視線でゼガを射抜けるんじゃないかというくらいに睨み付けている。
「てめぇ!覚悟は出来てんだろうな、おいッ!」
リッヒが勢いに任せて立ち上がろうとする際、右手が腰に回るのを見て、ゼガは咄嗟に身を転がした。
ズキュゥーーーンッ
ゼガがいた場所に空気が刺す音がした。それと同時に火薬の匂い。
「キッヒッヒッヒッ!これなんだかわかるか?貧乏人が」
リッヒの手に握られていたのは拳銃だった。今で言えば超小型ショットガン片手サイズ。はっきり言って撃つ側の負担が大きく、実用するには大きな問題がある銃なのだが、ゼガがいるこの時代では銃自体お目見えすることはまずない超貴重品。金持ちならではの贅沢品で普通は観賞用として満足しておくべきところだが、金の価値も分からぬお坊ちゃんは平然と発射したみたいだ。その一発でメイド一人を約二十年は契約できるだろう。勿体ない。
「形勢逆転と言ったところか?あ?そんなところに隠れてたって無駄だぜ?」
こ、これは非常にマズイ。こうしてゼガがいくら低姿勢で隠れていても、上から見下ろすリッヒには丸見えだろう。リッヒ側からすれば、別に位置情報を悟られてもどうでも良い。距離なんて関係なしに銃は撃てるから。
マズイマズイマズイ。ザッザッザッと草を掻き分け、リッヒが無作法で近寄ってくる。マズイ。命中率を下げるために距離を出来るだけ取っておくべきだった。しかしリッヒが銃を持っているとは思いもよらず、ミスをしてしまったかもしれない。反射的に第一撃を回避できたのはほぼ奇跡だ。だが今は非常にマズイ。動くことも出来ない。このまま距離を縮められるともっとマズイことになるのに。早く何か手を打っておきたいところなのだ。
どうすることもできないのか。
「フン。よく見たらクレアの修行服か。なら黙って犠牲になってくれや。それがお前に出来る俺様への救いだ」
ガチンッと銃が鳴る。一体何の音だ?もしリロードをしていたら一千一隅のチャンスだったのかもしれない。リロードの最中に行動を起こせたはず。しかし草壁から顔を出すのは危険すぎる。ここはあくまで下手に動かず、相手を優位に立たせて、心の余裕が生み出してくれる間抜けな隙が出来るのを待ったほうが良い。
草木が風になびく音。小鳥のざわめき。チャポンという水棲動物が水面に顔を出し、また水中に潜っていく音。それらの雑音は全て遮断し、ゼガの耳にはリッヒの動作音以外入れない。特に引き金の摩擦音には全神経を集中させて絶対に見逃さないように構える。
「……」
「どうした?さっきから黙りやがって。神様へのお祈りでもしてるのか?ま、今の神様は俺様だがな」
ガチンッキンッ!という小さな音が鳴る。銃を構えたのか?そんな音に聞こえた。来るか?
「あ、そうだ。あのガキの処理は任せときな」
グチッと土壌が鳴る。これはリッヒが腰を下げて足場に踏ん張った音。
「お前がしたかった変態行為は俺が引き継いでやっからよ。まぁ死体になっちまってるが、俺は死姦でも範囲内だからな」
「そいつは止めてほしいぜ。お前なんてタイプじゃないだよ」
「ッ!」
グビィッ!とリッヒが息を飲み込む音がやけに大きく響いた。それだけこの空間でこの声はおかしい。まだ誰かいるのか、とリッヒは急いで辺りを見回しているようだ。次にバシャン!と水の弾ける音。次にドスン!と何かが倒れる音。次に「モゴガガガゥガッ!」とリッヒの苦しむ音と、ジタバタもがく音がした。
「ったく。悪魔様を殺そうだなんて、とんでもないやつだな」
……。ゼガは草壁から頭を出して状況を確認する。そこに立っているのは側頭部から血を噴き出しているゼルベールと、その血液が顔面に張り付いて溺れかかっているリッヒだった。
「いくら悪魔だからって頭を貫通されたら痛いんだから、もっと優しくしてくれよな。女の扱いを全くわかってない野郎だな」
「モギャズウグギイギギギギッ」
「おっとっと、危ないな」
無造作にゼルベールの頭から噴き出しているように見える血液だったが、まるで透明の管を通ってるかのような、頭から血液の触手がウニョウニョ出てるような、よく見ると数本に纏まって法則的に動いている。血の蛇は暴れるリッヒの身体に強引に巻き付いて大人しくさせている。
いや、ゼルベールの頭からだけじゃない。リッヒが手に持っているゼルベールの血が付いたナイフからも血の蛇がウニョニョと顔を出していた。ゼガが隠れている際に聞こえたのはこの血の蛇が初撃にリッヒの顔へ張り付いた音だろう。それから驚いて倒れ込むリッヒの側まで、ゼルベールは自立して歩み寄ってきたというところか。
何度も言うが小さい少女のように見えてゼルベールは悪魔なのだ。しかも女郎蜘蛛のように糸を身体中に内包している。この血の正体は血液が染み込んだ糸。血液を操っているように見えるが、実際は血の付いた糸を操っているわけだ。
ゼルベールの糸は毛細血管よりも細く、血液と同じように血管を巡らせている。多少出血しても糸を手繰れば体内に戻すことができるし、今回のようにわざと血液を付着させて、そこから攻撃に転化させることも可能。待ち伏せや不意打ちでやられたにしろ、ただでは起きない。
「ゼガとあたしは一心同体。勝手に死んでもらっては困るからね」
ゼルベール曰く、ゼガには死ななければ、両手両足、両目、鼻、口、耳、ところどころを潰されたって構わない。ゼガの生命活動に必要最低限の機能さえ維持できるなら何でも良いというわけ。だが、その生命の維持に危険が及ぶことがあればこうして助けてやると普段から言ってくる。
「ありがとうゼルベール。助かりました」
「じゃあ、恩返しにこいつ殺して良い?」
「それはダメです」
「ちぇ!ケチだな!でも暴れられると鬱陶しいから、ちょいと気絶しててもらうか」
するとリッヒの首に血液が巻き付いて絞め上げる。キュッという可愛い音と共にリッヒはすぐに大人しくなった。ずっと顔面に血液が張り付いていて窒息プレイ状態だったので抵抗する力も残っていなかったみたいだ。くたっとリッヒは眠るように静かになった。
ふぅ~っと戦闘時に高まっていた緊張感をゆっくり沈めていくゼガ。二度三度と呼吸していれば、全身に血が巡っていくのを実感できるくらいの落ち着きを取り戻すことができる。
「リッヒはここを処刑場と言ってましたが、どういうことなんでしょうね?こんな何も無いところに何をしに来ていたのでしょう?」
「何も無いところだから来たんじゃないか。草むらを抜けてそこを見てみろよ」
言われるままにゼガは今いる草むらを抜けてみる。
「ッ!こ、これは一体?」
なるほど。リッヒはこれを隠したかったのか。ゼガが見たものはこの世のものではないような悲惨な光景だった。
リッヒと一戦を交えた草むらを抜けると、すぐに開けた場所になる。そこには黒い緑がかった淀んだ沼が広がる。その手前。少し人が立てる場所があってこれは明らかに人工物だ。リッヒが草を刈って緩い土壌を踏み固めて作ったようだ。広場の端に刈った草が大きく積み上げられているのが見える。
そんなことはどうでも良い。今、ゼガの目の前に広がっている光景。それは壮絶な処刑現場といっても過言ではなかった。
広場に転がっているのはすでに原型がわからなくなっているパーツが落ちている。そのわずかな一部が女性の身体と判断できるのだが。それも一体ではない。何故なら頭部と思われるパーツが三つほど転がっているからだ。一つは真新しい少女の頭。他二体はもう腐敗も進んでいるし、一部食べられた痕がある。それに三体のバラバラ死体があるわけでもないようだ。明らかにどう見てもパーツが足りない。片手、両足、いや、ほとんど足りない。何が足りないかじゃなくて何がそこにあるのか。何がパーツで何が肉以下にされているのか。それに動物に食べられた分もありそうだ。
とどのつまり、ここはリッヒが少女を解体していた処刑場ということで間違いないだろう。凶器は錆付いた斧だ。真っ二つにされた少女の胴体にこれ見よがしに突き刺さっている。辺り一面を血の海にして、きっとあの一振りで少女の胴体は破壊したようだ。
そしてこの血溜まりから伸びている血の跡。それを追っていくと、どうもリッヒは頭部以外の大部分はこの沼に投げ捨てていたみたいだ。沼から生える水草にたくさん付着している血痕がその証拠だ。証拠隠滅のようにも見えるのだが、頭部などは残しているし、謎の行動になっている。
まぁそういうグロい現場状況の説明はこれくらいにしておこう。
「うぅぶぉおおおおおおっおぅぇええええええっ!」
ビチャ、ビチャチャ。
「おいおい。この程度の惨劇で吐き出すなよ。新米刑事かよ」
ケケケッと笑うゼルベールだったが、普通の人間の感覚でこの惨劇をいきなり見せられて何の反応もしない者なんていないだろう。こういう現場に手馴れの刑事でも目を覆いたくなるような、それくらい強烈な現場だった。気が狂ってるとしか思えない。
「そんなけたたましく嘔吐しなくても良いだろうに。誰かに聞かれたらあたしたちが犯人みたいに見られるだろうが」
もうそれどころではない。ゼガはとにかく朝食と間食のリンゴ、そしてかなりの胃液を地面に吐き捨てていく。幸いなのは人通りもないので清掃の必要は無さそうだ。いや、そんなことを考えている余裕はない。余裕がないというよりか現実逃避思考に切り替えたい。脳が強制的にこの惨事を思考から除去しようとしている。しかしそれは無理な話だ。これだけ強烈な映像を忘れることは邯鄲には出来ない。せめて目の前の光景が消えてなくなってくれれば、もしかして夢だったのかと思えるかもしれない。
「そろそろ落ち着いたか、ゼガ」
鶏肉丸ごと一匹分を暖炉の火で炙れば、中までジューシーに焼けているだろう。意外とそれくらいの時間が経っていたようだ。ゼガは酸欠気味で気分的にもやつれてしまっている。そして現状は残念ながら何も変わっていなかった。
「も、もう大丈夫で、です。心配してくれてありがとう。ゼルベール」
「心配なんかしてねぇっての。それでどうするんだ?リッヒを殺すのか?」
……パンパンッと軽く頬を叩くゼガ。
「その前にこの方たちに安らかな寝床を作りましょう」
本当は触れたくなかった。近寄りたくもなかった。見たくもなかった。もう忘れたかった。でもゼガはこれでもクレア派の人間だ。このまま少女の亡骸を野に晒しておくのは申し訳ない。ゼガは気合を入れ直して彼女らと向き合い埋葬してあげた。幸いなことにリッヒが刈り取った草束山の中からスコップなどの道具が見つかり、それを使わせてもらった。遺体に土をかけるだけの簡単な埋葬だったが。あとは世の道に迷わないよう歌を歌ってあげる。今のゼガにはそれで精一杯。
「迷える子羊たちよ。安らかにお眠りなさい」
簡素ではあるが葬儀を早々に終えるゼガ。両手を組んで嗚咽を我慢しながらだった。その様子を欠伸しながら見守るゼルベール。そして静かに気絶しているリッヒ。
「さ、て、と。そろそろ良いか?」
せっかちなゼルベールの促し。ゼガも無意識にその場を離れたくて、すぐにゼルベールのもとへ早足でやってくる。
「で、決心は着いたのか?リッヒを殺すのか。悪人に鉄槌を喰らわせるのが正義の役目。こんな薄暗い森の中に女の子を連れ込んで人知れず処刑してる悪人を許せるわけないもんな。お前は正義のヒーローになれるのさ」
表情はワクワクに満ち、どんな方法で懲らしめてやろうかとウズウズしているゼルベール。正義のヒーローといえばやっぱり男子の憧れ。こういうチャンスは滅多に来ないだろう。ゼルベールもそれを見越してゼガの気分を盛り上げようとしている。
「ほらほら。女の子をあんな目に合わせた極悪非道の犯罪者だぞ?お前が成敗しないで誰がするんだよ。どうせここなら誰にも見られない。きっと神様がこういう場を与えてくれたんだって。だからさぁ殺ろうよ!すぐに殺してやろうよ!」
もうワクワクが止まらないぞー!といった感じのゼルベールに対し、ゼガが一言。
「いえ、リッヒを許します」
……。
時間が止まる。ゼルベールもワクワク顔も一気に瞬間冷凍されてそのまま動かなくなってしまった。
「マ、マジか、よ?」
本気で信じられない発言に脳内処理が追いつかない。さすがの悪魔もそれはないぜという感じ。
「罪を憎んで人を憎まず。リッヒの罪は吸い出して私が背負います。それがアクマド=レイン流の救いですから」
バカ正直もここまで来れば愚か者だ。そんな風に思ってしまうゼルベール。言ってることは正しいのかもしれないが、よく悪を裁き正義のヒーローになれるチャンスを自ら放棄できるものだと逆に変な感心までしてしまう。健全な男子なら一度は夢見る憧れのシーンなのに。このシチュエーションの前で盛り上げ方が弱かったのか。悪魔ゼルベールの不覚。
「ぐぬぬぬ。正義のヒーローという言葉に弱いと思ったんだが」
そう。ゼルベールは悪魔なのだ。罪人を殺す行為もまた殺人になるのだ。罪が罪を生む最悪のスパイラル方式。正義のためという理由付けさえしてしまえば、人を殺すという大罪への意識も低くなるはずだったのに。
宗教戦争。よその国で起こった戦争。神の名のもとに剣を持ち、進んで人を殺していたあの戦争。悪魔のゼルベールから見れば所詮人間の正義なんてそんなものなのだ。
「神」や「相手が犯罪者」という免罪符さえあれば人を殺しても良いルール。結局人殺しも人間の尺度で正義か罪かが決まる。ならばこの状況下での審判はどう転んでもリッヒの死刑ではないのか?
それなのにこの男ときたら……。
「でも良いのかそれで?罪も無き少女を何人も殺されているんだぞ?殺されたほうの身にもなってみろよ。きっと無念だったに違いないぜ?」
「だからその罪の償いは私が背負います。きっとリッヒも止むに病まれぬ理由があったのかもしれませんし」
「……わかったよ」
ゼルベールのほうから折れる。ゼガと旅をしてわかっている。こうなると是が非でも自分を曲げないことを。
「だが一つ警告しておくが、リッヒは今までの暴れん坊やコソ泥のショボイ罪とはワケが違う。急激な重い罪の加算は心に大きな負担を与えて心を壊すことになるかもしれないんだぞ?その覚悟は出来ているんだろうな?もう少し段階を踏んでいったほうが身のため。やめておくべきだ」
「……心配ありがとうございます。でも私はアクマドレイン。罪に苦しむ者を見放してはおけません」
まぁそういうだろうと思っていたゼルベール。人は禁止されると反発してしまうものだから。ゼルベール的には別にゼガの心が壊れてしまおうが、いずれそうなるのだから構いはしない。ただこんなところでリタイヤしてもらっては、これから虐める楽しみが減るなといった程度の心配くらいだ。
「今のゼガに抱え切れる罪ではないのだが仕方ないな」
抱え切れぬ罪の重みに押し潰されそうになって苦しむゼガも見てみたいし。ゼルベールは言葉とは裏腹にさっさとそこで気絶しているリッヒの口の中へ強引に手を突っ込む。そんな思惑があるとは思いもよらぬ傍で見ているゼガ。「人間の口の中ってあんなに手を突っ込んでも平気なものなのか?」と全く見当違いなことを考えていた。
グイッグイッ!と捻りを加えつつ、どんどん口の中に手が腕が納まって、ついには肩の辺りまでグイグイッ!と入ってしまうから驚きだ。
「むむっこいつは大物だぜ。こっちが引っ張られちまいそうになるが、ここに爪を立てて大人しくさせれば……よっ!このっ!」
ゴゴゴブブッゴブッゴゴゴブッ!と何やら気持ち悪い音が響く。ゼルベールがリッヒの身体から罪を引っこ抜こうとする音なのだが、聞いているだけのゼガのはずがこっちまで口の中で痛みを感じる想像痛を起こしてしまう。
「ちっこのっいいかげんにしやがれってんだっこの!」
おっと。ここでまさかの両手挿入だ。ゼルベールは空いている手もリッヒの口の中へ。ビチビチビチッと肉が伸びるイヤな音を立て、両手を通すために強引に広げられる顔・首・胸・腹の皮や肉。見ているこっちの血の気がなくなってくる。
「よっと!ほっと!ドンジュリュアアアアーッ!」
ゴジュボジュジュジュッと肉が引き千切られていく音だ。リッヒの口は、いや、全身があり得ないほどに開き切る音。例えるなら無理して羊一頭を丸呑みした蛇のよう。
ちなみに言っておくとこれらはただの演出に過ぎない。実際には人間の骨組みまで粉砕する行為のように思うかもしれないが、罪を抜き取ってしまえば数分後に元の姿に戻る。痛みも口内に手を突っ込まれたくらいの小さな違和感が残る程度。どうしてこの演出が入るとかと言えば、ゼルベール曰く「なんか罪を搾り出す感じが伝わる」のが良いらしい。
ただ見てるだけのゼガへの精神的ダメージを優先した結果だとゼルベールは言うだろう。
「うおうおー!これは大きいっ!久しぶりに見たぜ!こんな黒光して逞しくて大きいの!」
目にハートマークを浮かばせながら興奮を抑えきれないゼルベールが叫ぶ。
それは正しく黒光りして逞しくて大きい今までに見たこともない
罪の塊。
それがリッヒの口から飛び出してきた。超巨大化させた芋虫。その身体は黒い宝石のように射し込む光をどんどん吸収していくような不安と不気味さを持つ色をしていた。深い漆黒。長時間それを眺めることを拒否したくなるような目を逸らしたくなるようなイヤな色をしている。こんなのがリッヒの口から出てきたとは到底信じられるものではない。
こんなものが自分の腹の中に入っていたなんて想像するだけでも卒倒してしまいそうになる。実際その当事者であるリッヒは気絶していることをある意味幸いだと思っても良いのかもしれない。こんな現状を直視しなくて。
両手で罪の首元らしき部分をガッチリ掴んで離さないゼルベール。罪は首を自由に動かせずにその拘束を嫌ってもがき暴れる。しかしガッチリ掴まれた手はそう簡単には離してくれない。ジタバタと漆黒の巨大芋虫が身をよじらせている姿は実に気持ちが悪い。多足種なのか十本、二十本とたくさんある足を不規則に揺らしている。その何本かはゼルベールの小さな身体を引っかき、巻き付き、貫かんと突付いたりしているのだが、ゼルベールは全く傷付くこともなく、体勢を崩すようなこともなかった。掴んだ獲物は絶対に離さない。そういう強い意志を感じさせる。
「ふっふーーん。図体はデカくても知性は無さそうだ。言葉も話せない。低脳な低級罪め。大人しくしろってんだよ!」
ゼルベールが急ハンドルを切るように腕を回す。それに釣られて罪の首も一回転。ペソンッ!と簡素な音がする。芋虫の頭は上下逆さま。なかなか滑稽な絵だ。当然ながらそんなことをされた罪は堪ったものじゃない。身体を痙攣させて口からは緑色の気持ち悪い液体をボトボトと地面に落としていた。
「ようやく静かになったな。では、いっただきまーっす」
ゼルベールは罪に口付けをするように唇と当てると、チュルチュルと音を立てて吸い始めた。すると面白いものであれだけ巨大な罪がどんどん吸いこまれて萎んでいく。まるで膨らんていた風船の空気が一気に抜けていくような、ものすごい吸引力に見える。あっという間に罪はゼルベールの腹の中に全て収まってしまった。さすがにあの巨体だ。ゼルベールの腹は赤ちゃんでも孕んだみたいにパンパンに膨れ上がってしまった。はちきれんばかりだ。
「あぁーっ苦しいっ!さすがにこんな大きいの入れたら壊れちゃいそうだよ。ゲプッ」
さすがのゼルベールも苦しそうに消化促進のため横になってしまった。大きく膨れた腹が痛々しい。ゲプゲプと下品にゲップを繰り返しながら。
そしてやってくる恐怖の時間が。
ッ-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------。
何が起こったのかわからないだろう?そう。ゼガ本人にも何が起こったのか、何を起こされたのか全く理解できない。
例えるなら、そう。数千メートル上空から無残にも落とされて、どうすることも出来なくて、着地したわずか数秒間だけを切り取って体感したような。想像を絶する衝撃をまともに受けたはずなのに、その衝撃を全く覚えてないような。実際にそんな状況下では人間の精神は現実から逃避してしまう。その間は走馬灯やら気絶するやら夢想するやらで、わずかな空中遊泳を楽しむことなく、脳は精神を守るために空白にしてしまうわけだが、無理やりでも表現しろと言われれば先ほどゼガが体験した時間はこんな感じだろう。
一気にゼガの精神は意識から無意識へ切り替わる。
……
…………
……………………。
ふわふわ~っふわふわ~っと浮かぶクラゲの海中散歩。海中に身体が溶け出していくような錯覚。自分で身体が溶け出さぬよう押さえ付けたら、その圧力だけでプチッと潰れてしまうような不安定感。
「……こ、ここはどこでしょう?何が起ったのでしょう?」
意識をわずかな電力だけで起動させた頼りない覚醒。
「もし死を体感できるなら、こんな感覚かもしれませんね」
なんて不吉な想像をしたおかげで、ハッと気付くことができた。自分が今どういう状況に晒されているのか急に強い不安が横切り今しなければいけないことを思い出すことができた。状況を確認しなければいけない。通常電力を脳に一気に流して通常運転まで急覚醒を起こす。あまりにも急だったのか一瞬フラつきそうになるが、そもそも立っていないので倒れることはなかった。軽い頭痛がしただけ。その頭痛もすぐに治まって、ようやくゼガは自身に起きたことに落ち着いて整理する余裕ができた。
さて、今のゼガが体感しているのは言わば罪を背負うための業のようなもの。罪の請負過程にすぎない。ただいつもの乱暴者や盗人とは中身が異なる重い罪。そのためいつもとは順序が違ってくる。罪を吸い取った後に感じる一時的な体調不良や気分を害する程度の業ではないわけだ。
まず真っ先に断っておかなければいけないことは、ゼガが置かれているのは現実ではない。きっと現実のゼガは気絶しているだけだろう。背負うべき罪が重すぎたんだ。
脳への負担はそのまま肉体にも移る。脳は強い衝撃を察知して精神の安全性を保つために無理やりに意識のブレーカーを落としただけ。たまに記憶部分の忘却や退化・幼児化など脳への障害が現れることもあるにはあるが、今回ゼガの脳が選択したのは幸いにも気絶だけだった。なので今ゼガが体感している場所は全て心の中の出来事だと表現すれば良いだろう。罪と言う黒き液体を注がれた容器の中で泳ぐゼガの自我。
ふわふわと浮遊しながらゼガは落ち着いて周りを観察してみる。しかし何もなかった。ただ真っ黒い空間が永遠に広がっているだけ。右も左も上も下も。宇宙空間に放り出されたような。まぁ宇宙空間へいきなり装備もなしにポンと置かれた場合、人の精神が数分として平常でいられるわけがないのだが。
ふわふわと黒い空間を彷徨っているとようやく光明を発見し、吸い寄せられるように光明のほうへとゼガは泳いでいった。その瞬間は照明を落とされた映画館の中でこれから映画本編が始まりますよという合図のような感覚で。
光明に導かれるままに進んでいく。いや、進んでいるのか流されているのか。どっちみち、抵抗する必要はない。抵抗する術もない。他に方法もない。人が眠ると何故か夢を見てしまう現象と同様に、この現象もまた不可避に不自然な自然のことだった。
一時的なホワイトアウト。今までの黒い空間を白一色の一点で消して、うっすらと徐々に真っ白いキャンバスへと光景が変化していった。
「ここはどこなのでしょう?」
その光景はゼガの見たことのない場所だった。記憶にすらない場所。そこは辺り一面が緑色の草原。少し離れたところにあれは牛小屋か。木で組まれた囲いがあって、その中で牛が飼われている。その延長線上はまた草原が続いていく。牛小屋とは反対側の光景は小道がずっと向こうまで続く。目を凝らしてよく見れば小道の先には町の色、茶色いレンガ風の屋根たちが見える。ぼんやりとだが、結構な距離がありそうだとゼガは思った。そんな場所。
なぜこんな光景を見ているのだろう。
「ギャーボス!」
「アハハハッどうだ!参ったか、リッヒ!」
やんよやんよと黄色い子供たちの元気な声がゼガの耳に聞こえてきた。
「ぶわああああーーん!」
「ウフフッ。リッヒは絶対お姉ちゃんに敵わないんだから」
アッハッハッと子供が笑う声と泣く声の二人の声がする。一人は女の子。活発そうで両腕に腰に当てて高らかに勝利の笑い。八重歯を覗かせる非常に可愛いらしい子だった。片方は男の子。草の上にへたり込んで大泣きしているリッヒと言われた小さな子供。
もしかしてこれはリッヒの過去の一部かもしれない。あの子供がリッヒの幼少のころだと一目でわかる。年齢は四歳か五歳。お姉ちゃんと名乗ったほうはプラス二歳くらい。児童の平均的身長・体重を見た目から推測する。リッヒとは目が似ているような気がする。身なりはそんじょそこらの子供とはケタ違いにお坊ちゃんお嬢ちゃんが着るような上品な服装だった。もしかすると近辺の大人より断然豪華かもしれない。
でもそんな服を着ていてもやっぱり子供は子供。草原を走り回ったり転げ回ったり遊び回ったりした結果、ドロだらけになっていた。
「リッヒ!泣いてないで、もう一回おいで!男でしょ」
「うーっううーっ」
座り込んで泣きじゃくっていたリッヒは目に涙を浮かべながらもお姉ちゃんに一生懸命ぶつかっていく。それを姉は受け止めて単純な押し合いをする。相撲とかそういう試合ではない。ただ本当に単純な力比べ。そのため二歳年上の姉にほとんど完敗してしまうリッヒ。何度も何度も転がされては大きな声で泣いていた。少々乱暴ながらも子供が行う他愛ない遊びのようにゼガは見えた。
それから二度目のホワイトアウトからの復帰。場面転換が早すぎる気もするが、次はどこかの屋敷の中か。広い一室ですごく高そうな調度品や家具、暖炉なんかも並んでいる。リッヒの家が金持ちだとうんざりするほどわからせてくれる豪華さの数々。貧乏人には絵空事のように見えて現実感が持てない。部屋にあるもの一つ取ってもゼロをいくつ付ければ買えるものなのか検討も付かない。
そんな部屋の中心に四人用のテーブルに三人の人物がいた。一人は少し大人になったリッヒ七歳。一人は姉九歳。もう一人は誰だろう?六十歳そこそこのおばさ、……お姉さんがいて、リッヒ姉弟と対面して座っていた。
「リッヒさん。何故この程度の問題もわからないの?リアさんはすぐに正解を出しましたよ」
「そうよそうよ。リッヒってばこんな簡単な問題もわからないのかしら?本当におバカさんね。お姉ちゃんには勝てないんだから」
「……」
ぷーっとふくれっ面になるリッヒ。どうやらあのおばさ、……お姉さんは家庭教師らしい。メガネをかけて厳しそうな雰囲気がある。
「良いですかリッヒさん。あなたはこの家に生まれたご長男なんですよ?こんな簡単な問題もわからないでどうするのです?こんなことではわたくしがお父様に叱られてしまいます。それから……
ガミガミガミガミとうるさい小言を続ける家庭教師。うんざりした表情でリッヒは聞き流していく。非常につまらなく無駄な時間になった。
「……ッ!いててててっ!」
「こら!リッヒ。ちゃんと家庭教師の言うことを聞きなさいよね!」
リッヒの不真面目な態度を正すように姉のリアが罰として耳を引っ張ったのだ。
「いってーな!何するんだ!」
「リッヒがいけないんじゃない!文句があるんだったら……」
リアは可愛らしいおつむを人差し指でツンツンと指差して。
「ここで勝ってみせなさいよ。おバカリッヒ」
「ぐうーううううーっ!このぉ!」
リッヒはその挑発的な態度に怒りを覚えて飛び掛かったのだが、セイッ!というリアの掛け声に続いて、リッヒは空中を舞っていた。
「ングアッヒーッ!」
そして落ちた。リアお得意の受身投げ。相手の攻撃に対して受身で勢いを流しつつ、その勢いを再利用して相手の重心を持ち上げ、反動ついでに相手の身体を投げ飛ばすリア必殺の護身術。しかも段持ち。
「ウフフッ。リッヒはいつまで経ってもお姉ちゃんには敵わないんだから」
「ぐぬぬぬぬ」
無様に投げ飛ばされたな格好で悔しそうな顔をしかめるリッヒだった。
それからさらにホワイトアウトからの復帰。ゼガはようやくこれがリッヒの記憶であると気付けたわけだが、しかし何のためにこれを見せられているのかの解答まで辿り着くにはまだもう少し時間がかかるようだ。
次の光景はリッヒ七歳の思い出に出てきた屋敷の、これは玄関ホールだろうか。先ほどの日常とは事態が一変している様子。場が慌しくリッヒの他にもたくさんの人たちが入り混じって、あちらこちらと世話しなく動いていた。まずリッヒの傍らにいる中年の男女はご両親か。泣き崩れる母親と深刻な面持ちでその母親を支えている父親。その周りにはこの屋敷のメイドや使用人たちがいた。それと一人難しい顔をしているのは格好から推測するに刑事だろうか。警察の制服を着ている男たちも何名かいて、屋敷の人間たちに事情聴取していた。
そういえば、見渡すとずっとリッヒの傍にいた姉の姿がこの場にはいないようだ。今までの思い出の中に必ず出演していたのに。リッヒの発育度合いを見れば青年と言われるくらいなので、年齢を考えれば嫁いだのか自立したのかもしれない。この時代のセレブ女子は早めに嫁がされる。政略結婚という考え方もあるが、それはさておき。ゼガは相変わらず、未だ地に足も付けられずふわふわと宙に浮かびながら、次々映るリッヒの過去の一部始終を見守ることしかできなかった。一体これからどうなっていくのやら?とリッヒたちの会話に耳を傾けている。
「リッヒ。お前はもう十六歳になるな。ならば真実を言おう。今何が起きたのか。お前の姉リアは……
心無き誘拐犯によって……
殺されたのだ」
「……えっ?」
父からの「殺された」の言葉に反応して、横にいる母は限界だったのだろう。水風船をパンッと割ったような大粒の涙がボロボロと目から溢れ出てきて悲鳴のような泣き言を叫んでいた。それを懸命に慰める父の姿。一斉に沈んでいく雰囲気。
父の言葉が耳から脳へ入っていくのに、やたら時間がかかる。たった五文字が頭の奥底でぐるぐるとタライ回しにされていた。聴覚情報として正しく受け取ることも出来ず、脳信号の迷子だ。だがしかしその情報は正常な手順を踏んでリッヒの脳へと導かれたのだから、いくらその文字情報の処理を否定しても、し切れるわけがないのだ。
そしてやがて爆発。
「うがあああああーーーーーッ!なんでだよー!なんで姉さんが殺されなくちゃいけないんだよ!おかしいだろ、そんなの!どうなってんだよ一体よぉ!誰か説明しろおおおおおーっ!」
リッヒも母に負けじと大声で泣く。いや、鳴き喚く。亡き叫ぶ。雷鳴のような歌声は玄関ホール内、屋敷中、いやもっと外の世界まで轟きを馳せた。ビリッビリッビリッとガラス窓を大きく震わせた。
「父さんはさぁ!な、ん、で!そんなに冷静にいられるんだ!取り乱しもせずに!わかってんのか?姉さんが殺されたんだぞ?悔しくねぇのかよ!この人でなし!」
「……驕るなよ、リッヒ。もし目の前に犯人がいたらワシはそいつを八つ裂きにしておる」
ゾクッと悪寒が走った。静まる空気。それはリッヒが初めて見た。こんな父を。こんな殺気立てた野獣を。まるで長槍を目の前数センチ先に突き付けられたように背筋が凍る。いや凍る程度のものじゃない。気持ちではとっくに串刺しにされた。この父の眼光は、ヤヴァイ。そう、リッヒの防衛本能がひどく警鐘を鳴り響かせる。リッヒは眼光だけで気持ちが喰われてしまった。
そのおかげで少しはクールダウンできたようだ。リッヒはいつの間にか冷静に周囲を判断できるまで感情は回復していた。いや、強引に回復させられていた。乱れた服装を正すリッヒ。
「聞くが良い、リッヒよ。お前の姉リアは心無き人間に殺された。これは事実だ。許せないのはその犯人だ。だがさらに許せないのはそんな連中に姉のリアをみすみす殺されたワシらだ。そんな隙を一部とて見せたワシらの責任なんだ」
「そ、そんなわけないだろう!悪いのは全部その犯人だろうが」
反論するリッヒ。当たり前だ。「何故被害者である俺たちに非があるというんだ?それは大間違いだよ」とリッヒは言葉を続ける。
「そうではないんだよ、リッヒ。ワシらは人並み以上に金持ちだ。それだけの理由で他者に恨みを買っていることだってある。確かに恨まれる筋合いはない。だが人間の感情というやつはそこまで合理的には出来ていないのだ。
殺した犯人が悪い。そんな犯人に殺される隙を見せたリアも悪い。そしてリアを守りきれなかったワシらも悪い」
「……僕には納得できないよ、父さん。父さんはそれで納得してるのかよ。姉さんが殺されたのは僕らが悪かったってそう思ってんのかよ」
横でグズグズと泣く母をギュッと抱きしめて父はこう言った。
「納得できるわけがないだろう。ワシもまたそこまで合理的な感情を持ち合わせておらん。だがそれは納得しなければならんのだ。そう、しなければならんのだ」
「ごめん、父さん。僕にはどうしても納得なんて出来ないよ」
リッヒは玄関ホールから退出する。自分の部屋へ引きこもり、そしてベッドの上で泣いた。
その後、姉のリアを殺した誘拐犯グル-プは捕まり、全員処刑されることとなった。さすがに大富豪の娘さんが殺されたのだ。ランバード家の全勢力を持って捜査が行われた賜物だろう。すぐさま両親とリッヒは呼ばれて、処刑現場に立ち合えることになった。この時代のポピュラーな処刑法は火あぶり。リッヒの眼前には大小様々な男たちが町の一角で磔にされていた。どいつもこいつも悪そうな顔しやがってというのが正直な感想。そいつらは猿轡を噛まされていたので会話することは出来なかった。会話する気もなかった。
娘を奪われたランバード家は特等席。最前列で火あぶりショーを見る権利がある。浄化の炎を持って颯爽と現れる騎士。こちらに一瞥くれると、その炎を磔にされた男たちの足元に投じていく。手際良く表情も変えずにパッパッパッと。まるで大量のゴミを処理していくような軽快な動作だった。ボウボウボウと火は次々と燃え上がり、犯人たちはすぐに煙の中へ包み込まれていった。煙で姿は見えないが苦しむ様がよく伝わってくる。煙を吸って咳き込む声。高熱による悲鳴。動くことで尚締め上げる拘束用の縄が軋む音。どれをとってみてもその壮絶さを伝えるのに十分な説得力があるだろう。
そんな様子も数分もすれば鎮火していく。
さっきからなんだろう?この空虚感。リッヒは空を掴むような現実感の中でこの火あぶりショーを見せられているのだ。何の感動もない。表情一つ変えずにこのショーの幕引きまで見つめているだけだった。
本来ならもっとこう何かあるはずなのに。姉さんを殺した犯人たちが今目の前で処刑されているというのに。
リッヒは理由のわからぬ、中身のない空虚感を抱えながらその場を後にした。
それから二年の時を経てリッヒ十八歳になったある日。リッヒに縁談が持ち上がった。相手は社交界デビューしたときに始めて会話した同年代のステキな女性。相手方がすごく気に入ってくれて、とにかく会いたいとのこと。
この頃のリッヒは何かを打ち消すように勉学に運動にビジネスに、何でも好き嫌いせず一生懸命に取り組んでいた。その姿は見る人が見れば痛々しいのだが、事情を知らぬ者にはエネルギッシュに見えたに違いない。すごくパワーを感じたに違いない。急速に実績を積んでいくリッヒの姿は女性から見れば、すごく魅力的に見えるだろう。
そんなこともあってか縁談はそれだけではない。リッヒは数多くの縁談を頂いていた。それだけでもここ数年のリッヒの頑張りが伺えるだろう。
そのうち一人の女性と出会い、結婚し、そして……
妻をハンマーで殴り殺していた。
とんとん拍子で縁談は進み、両者共に惹かれ合い、まさに理想的な夫婦関係を築けるはずだったのに。その理想は唐突に跡形もなく呆気なく崩れ去っていった。
それは夫婦の寝室でのこと。新婚らしく見ているこっちが恥ずかしくなるようなピンク色で満たされた甘い空間に妻が大量の血を頭部から流して倒れていた。リッヒは自分すら信じられないといった表情を浮かべ、肩で息をし、呼吸がひどく乱れていた。手には凶器であるハンマー。鉄打ちに使われるような持ち手の長いハンマーで先端に血痕がびっちり付着していたので間違いない。リッヒがそのハンマーで妻の頭部を殴打したのだ。
第一発見者のメイドはリッヒの両親を部屋にすぐさま連れて来ていたところだ。
「……リッヒ、お前……」
言葉にならなかった。言葉に出来なかった。リッヒの父はひどい狼狽ぶりを見せて立っていた。
「……違うんだ。これじゃない。全然違うんだ。これじゃない……」
呪文のようにそんな言葉を繰り返すリッヒ。混乱しているのかもしれない。父はとにかくこのことを無かったことにした。世間に知られるわけにもいかない。妻の遺体をあらゆる意味で隠蔽し、何事もなかったかのように世間に振舞うことにした。
この対応が非常にマズかった。何故ならリッヒは第二、第三の事件を繋ぐことになるのだから。
「違う。違う。違う。違う」
父のおかげでリッヒは裁かれなかった。裁かれなかったから、次の妻を探して同じように殺した。リッヒはイケメンで金持ちで姉を持っていた経験から女性を立てることも上手だったので、これで落ちない女性はいない。そのため女性を探すことに何の苦労なかった。それが良いことなのか悪いことなのかは別として。
問題は遺体隠しだったが、これも大富豪の財力を持ってすれば造作もないこと。結婚に関しても重婚もそれほど強い規制があるわけではない時代。そもそも大富豪のこのような行いに誰がケチを付けられようものか。。
「違う。これも違う」
おかげで来る日も来る日も生贄として捧げられた妻たちを次から次へ手にかけていくリッヒ。出来上がった女性の遺体を父が隠していくというサイクル。それでも彼は満足することはなかった。
「違う。これも違う。こんなの姉さんじゃない」
来る日も来る日もまた新しい生贄を探してきては自室に連れ込み同じように手をかけていくリッヒ。時には遠くの町からわざわざ妻を連れて来ることもあった。それでも全く満足には程遠かった。
「違う。これも違う。こんなの姉さんじゃない。姉さんは一体どこにいるんだよ。姉さん助けてよ。姉さんがいないと僕は押し潰されそうで怖いよ」
リッヒが満足できない理由。それは大好きな姉さんを失った空虚感から逃れられないことにあった。
姉が亡くなった日から、彼を襲う空虚感。この何か大切なものを失った感覚がいつもリッヒの心を不安定にさせる。いつも彼はこの不安から逃げる作業しかしていない。姉がいなくなった現実、それを受け止めるにはリッヒの精神年齢はまだ幼かったのだ。今も姉の面影を残す女性を選んでは「姉ではない事実」に直面し打ち付けられ、「姉ではなかった」ことに腹を立て、身勝手にも騙されたのだと思い込んで、女性を殺害してしまう。そんな繰り返し。
リッヒはポッカリと開いた心の空虚感に押し潰されないよう未だに犯行を続けていたのだ。もしこの空虚感に飲み込まれでもしたら、リッヒは廃人のように変わっているだろう。それを回避するためにリッヒの脳はそんな異常行動を取らせたのかもしれない。それがリッヒが唯一人間として保てる選択だったのなら止むを得ないとして。
リッヒは今日もまたこの空虚感に飲み込まれないために、この世界に居続けるために新しい生贄を探していく。終わることのない空虚を埋める作業として。
……。
ガクンッと音ではない擬音が鳴る。リッヒの罪の深さを知るための記憶旅行の終わり。気絶から突然の覚醒を果たしたゼガだった。冷や汗で全身がビッショビショになっていた。
どうやらゼルベールの膝枕で寝ていたようだ。ゼガの目の前には空の色と空から覗き込むゼルベールの顔が見てとれる。ゼルベールの膝枕と自分の後頭部との接着部分にじっとりと汗で濡らしていく感覚があった。
「おかえり、ゼガ。先に言っておくがリッヒは元の川沿いまで捨ててきてやったぜ。ここでの出来事は一切記憶していないだろうよ。ま、変なタイミングで起きられても面倒だったし。それもこれもお前が罪を引き受けたわけだからな」
罪を吸い取られた人間は一時的に記憶障害に陥る。自ら犯した罪の全景を忘れてしまう作業のためだ。今のリッヒは抱えていた空虚感を失うと共に姉との思い出も全て忘れようとしている。
リッヒは少しだけ日常と記憶の相違はあるかもしれないが、いずれはけろっと普通の生活に戻っていけるだろう。何事もなかったように。
だからこそ、ここを新たに知られると後々面倒なことになる。完全に記憶の消去が終わらぬまま「なんでこんな場所で気絶していたのか?」と記憶に残されでもしたら、リッヒは記憶の断片から何かを探し始めるかもしれない。記憶からは何も出てきやしないが、出てくるとしたらそこで埋っている遺体くらいなものだ。
だがそれが面倒だと言える。この現場は後々クレア派の者に預けるため、騒がれるのはよろしくないというわけだ。遺族には申し訳ないが、真実を伝えるわけにもいかない。いずれゼガがその罪を償い、人知れず物語を穏便に収束させていかなければいけないのだ。
「さてとゼガちゃんよ。ここからが本番だぜ」
ゼガの呼吸は乱れ始め、治まる気配が全くない。実は覚醒してからずっとこんな調子で身動きもせず、天をゼルベールを見上げたままだった。見上げる瞳に光はなく、まさに死んだような目をしていた。そのくせ生きるための呼吸は激しいときた。冷や汗もひどい。まるで精神が死んでいるのに、肉体だけが死に抵抗し続けているような、いや逆だ。肉体はすでに活動停止しているのに、精神活動維持のために脳へ酸素を送り続けている。
ゼガの心の中はすでにリッヒの罪に侵されていた。ゼルベールが喰った罪は一心同体であるゼガの心に直接移される。そのため罪の意識とゼガのい心は今まさに戦いを初めているのだ。激しい肉体的戦闘よりもつらい心の葛藤戦。今この瞬間ゼガが一度でも気絶することが可能ならば、きっと安らかに眠ることが出来ただろう。永久に目覚める術のない、生きたままの眠りに。
現在ゼガの心の中はこうなっている。百パーセントの値が心の全体であるなら、ゼガの元いた精神的日常が三十パーセント。そしてリッヒが抱えていた空虚感、カラッポの何もないのが七十パーセントを占めている。水だけが入っていた水風船に、後から油を約二倍の量を無理やり入れて無理やり圧縮したような。かなり強い圧迫感の中でゼガの精神は隅っこに追いやられて、破裂しそうなくらい生き苦しくなっていた。何もないからこそゼガの精神をどんどん中和していき希薄になっていく。どんどん目は輝きを失って死んでいく。生命活動に必要なエネルギーもどんどん減速させられて、感覚が、生きている感覚が失っていくのを実感していく。
ゼガは正直に怖いと思った。今起こっている状況が怖い。なんだか自分が自分じゃなくなっていくような、そんな感じが怖い。何かにすがらねば、何かにしがみ付かなければ、ちっぽけな自分がちっぽけに消えていくんじゃないかとそんな不安が急激に膨れ上がっていく。ダメだ。もう無理だ。これ以上このままだとゼガは自分を把握できなくなってしまう。自分が壊れていってしまう。
「苦戦しているみたいだな、ゼガ?リッヒの気持ちに触れて、気が触れそうか?」
今、ゼガへの声かけは非常にありがたい。かけ声一つでも聴覚を通じて感覚を与えてくれる。おかげで自分がゼガであることを少しでも再認識できるから。薄れ行く意識の中で聞こえる声はどんな声であれ、助けのように感じてしまう。自分を、自分自身の意識を保つために手を伸ばして確認したい。自分がゼガであることを。本当に本物のゼガであること。
自分ではどうすることも出来ない苦難が立ちはだかると無意識に手を伸ばそうとする。誰かに助けを求めるために。それは無意識の意思表示。
「どうした?あたしに手なんか伸ばして。もしかして助けてほしいのか?この悪魔ゼルベール様に助けてほしいのか?」
声を出せる状況ではないゼガはさらに手を伸ばすことで返事とした。
「仕方ないな。ならこのゼルベール様が楽にしてやろう。ホレッ」
ポンッと手に感触。ちょうど一握りの何かを伸ばした手の中に持たされる。薄れいくゼガの目に見えたものは……?
ゼルベールはゼガの頭から移動し、仰向けに倒れるゼガの胸の上に馬乗りする形を取る。いわゆるマウントポジション。この形を取ることには意味がある。それはゼガにこれからする選択肢から逃さないため。
「さぁゼガ。お前が楽になる方法はただ一つだ。今、手に持っているナイフであたしの腹を裂け」
ゼガが手にしているものはリッヒが持っていた銀色のナイフだった。初撃ゼルベールの頭を貫いたあのナイフ。普段なら「何の冗談ですか?」と笑うところではあるが、いかんせんゼガの手はそのナイフを握る力が込められる。これは正否の問題ではない。溺れる者に与えられた藁だからだ。
「その苦しみから逃れるための方法はリッヒが行ってきたように女を刺し殺していくしかない。そうすることで一時的にでも空虚の広がりを抑えることが出来るんだよ。幸いあたしはお前の悪魔だ。悪魔ならいくら刺しても死にはしないし、ここなら誰も見てなんかいない。なら遠慮することなんてないぜ?」
平気な顔して、とんでもないことを言うゼルベール。やはり普段ならこんな提案を「バカなことを言ってはいけません」と頭を撫でてあげられる余裕くらいあるのだが、残念ながら今のゼガは普段じゃない。
頭は朦朧として空虚感の圧力で今にも押し潰されてしまう緊迫した事態なのだ。正しい判断が付かなくなっている。
ゆっくりと震える手で銀色のナイフをゼルベールの腹に近づけていく。
「そうだよ、ゼガ。お前は正しい。誰が見ても今の状況でゼガを咎めるやつなんていないさ。いるとしたら状況も察することも出来ない能無しだ。お前が悪いんじゃない。一人で抱えきれぬ罪ならば、あたしに分ければ良い。ゼガ一人で生きているわけではないんだからな。少しくらい痛みを分けろ」
ゼルベールの少し照れたような笑顔に心動かされるゼガ。手に持つ銀色のナイフはゼルベールの腹に切っ先を当てる。
「ちなみに知っているか?ナイフってのは支配・征服欲求、男性器を象徴するものでな?犯罪心理的にナイフが凶器に選ばれる理由にそれらの感情が入り混じっていると分析されるんだ。だったらこんなところを刺すのもアリなんじゃないか?」
そう言うとゼルベールは足を上げて大きく左右に開き、腹に当てられていたナイフの切っ先を自らの女性器の先に導き、あられのない姿に形を変えた。
「ひひひっゼガも男なんだから何も恥じることないんだぜ。どうせなら男性器の象徴であたしのココを貫くと良い。普段あたしを子供扱いしてるんだ。こういうときにこそ反撃させてもらうぜ」
軽い挑発を加えながらゼルベールお得意の誘惑でゼガの性を刺激する。それでなくともこの状況下だ。一刻も早くこの苦痛から逃れたいがためにゼガは本能のまま言う通りにしてしまった。ナイフの切っ先は震える手の振動が伝わってブルブルと動く。ゼルベールの下着に少しでも引っ掛ければ、たやすく切ってしまうだろう。それくらい自分の身体を制御しきれていない。
ゼガは今の状況をきっと半分も理解できていない。普段ならゼルベールとて女の子の身体だ。こんなはしたない格好を許すわけがない。ゼガはすぐに激怒して注意しているはずだった。
だが、もうゼガの心は限界に近い。初めて味わう他人の苦しみ。まさか空虚が人の心を押し潰すとは思ってもいなかっただろう。初めてだらけの体験で、どう対応して良いのかもわからない。ゼガのように苦痛を知らぬ者に耐えるのは難しい。
とうとうゼガの心が折れた。
ズシャアアアアーーーーッと赤き鮮血が飛ぶ。天まで届けと言わんばかりの見事な飛びっぷりだ。キレイな弧を描いてゼガの鼻血は辺り一面を真っ赤に染め上げていた。
……ゼガの鼻血?
「お、おい、ゼガ?おい、大丈夫かよ、ゼガ!おい!」
プシュウウウウウーーーーッとなおも噴き続ける鼻血。かなり緊張状態だったのだろう。あまりに盛大に噴き出したものだからゼガも一気に貧血に陥り、再び気絶してしまった。幸いなことはこの気絶が空虚感による圧迫で引き起こされたものではないってことくらいだ。
ゼルベールの問いかけも空しく、ゼガは意識の渦に沈んでいった。
何度目かの覚醒。場所は相変わらずだが、辺りはすっかり暗く夜の顔を見せていた。ゼガは鼻血を噴き出したときと同じく無様な格好で横たわっていた。ゼルベールはゼガを敷き布団にして寝ていた。身体の上でゼルベールの小さな重みをゼガは感じ取れた。傍らにはゼルベールが用意したのか、小さなランプが辺りを照らしてくれていた。夜の森は夜行性の野生動物が活動に入るので、こうして火の光で威嚇しておかないと危ない。
「おやおや。ようやくお目覚めかね、ゼガ?全くだらしねぇったらありゃしねぇな!」
ゼルベールの問い掛けには答えない。少し休んだおかげで意識は悪くない。少しばかり空虚感を感じる程度に残るくらいだ。早朝早起きしてまだ寝ぼけている感じだと思ってもらって構わない。ゼガは上体を起こし、頭が正常運転するまでの間、ボケ~ッと間抜けな顔をして待つことにした。
ゼガが上体を起こしたことでゼルベールも強制的に座る体勢に変えられた。それだけでも不満が爆発しそうになる。
「はぁ、あー!全くだらしねぇ!女の股見て鼻血噴くとかどんな古典ギャグだっての!」
ため息からの怒声に続ける。なかなか器用なマネをするゼルベールは、だらしないゼガを批判し始める。「今時そんなオチなんて流行らないぞ!」みたいな。ゼガもボ~っとする頭で苦笑いをする。
「でも良い収穫だったぜ。ゼガはあーいう責めに弱いんだな。今後の参考にさせてもらうぜ。ひひひひっ」
そう、ゼルベールの行いは決してゼガのためじゃない。あくまで悪魔のためだ。あの状況下でも人を陥れることを忘れない。きっとあのまま刺していれば、ゼルベールの狙い通りだった。
もし一度でも人を刺す快楽を味わってしまえば、その快楽なしではいられなくなる。ゼガは空虚感に抵抗するため・破壊欲求で埋め合わせるためにゼルベールを刺し続ける習慣を作ってしまっていただろう。
その習慣付けさえ出来てしまえば、ある時にふっとゼルベールが姿を消せばどうなるだろう?ゼガはゼルベールの代わりを探ねばならず、これで見事に殺人鬼を仕立てることが出来たわけだ。
とんだ小さな怪物だった。しかしそれは悪魔のせいではない。勝手に心が折れた弱き人間のせいだ。悪魔の存在なんて結局本人の弱さだから。悪魔としては文句を言われる筋合いは全くない。
ゼガは未だフラつく頭に鞭打って立ち上がり、フラフラとどこかへ歩いていく。
「どこに行くんだよ?」
その問いにも答えず、数歩分の移動で到着する主人なき処刑場、もといゼガが即席で作り上げた共同墓地の手前。ゼガはその墓地から犠牲者を掘り起こし、再度ちゃんとした形で埋葬をやり直し始めた。
遺体とはいえ女の子だ。まともな衣装はないが、草や葉で代用し、できるだけキレイに着飾ってあげた。この子達はゼガが背負うべき罪の犠牲者だ。出来る限りの手厚さで安らかに眠ってもらいたい。もちろんこれで終わりじゃないことはゼガもわかっている。この程度で罪なんて消えない。この程度で無念は一生消えない。ゼガは死ぬまで、いや死んでからもこの子達の罪を償っていかねばならない。
そして二度とこんな悲劇が起こらないように祈る。
「悲劇は無くならないさ。悲劇を起こすのは人間なんだからな」
「……」
「そもそもこんなことしても何の救いにもなりはしないって。死人に口なし。お前は身勝手に心を込めたフリして、身勝手に自己満足して、身勝手に許された気持ちに浸るだけなんだよ。あぁ。お前はなんて身勝手な男なんだ」
「それについて否定しません」
ゼガは合わせていた手を離して立ち上がる。後は事情をクレア教会に報告して、神士に弔ってもらわなければならない。正式な形で。ゼガが行ったのは応急埋葬のようなものだから。
ゼガは自らの手で葬りたかっただけかもしれない。それに意味があるのか、もしくは罪を背負う人物にそんなことされたくなかったかもしれない。わからないが、自己満足だと言われようと、いや自己満足で良い。ゼガが一人で勝手にしたことだ。それで良い。意味なんて求めるだけ無駄なのだから。
「なぁゼガ。空虚感のせいで考えるのが面倒臭いって思ってないか?」
「そうではありません。むしろ空虚感のおかげで、受け入れる器が広がっただけです」
「……あ?何カッコ付けてんだよ。カッコ良くねぇよ」
「アハハハッ。そうでしょうね。きっとそうなんですよ」
何か吹っ切れたような、逆にすがすがしい笑顔になるゼガだった。
「何一人で納得してんだか。気持ち悪いぞ」
「アハハッ。まぁ日も暮れていますし、そろそろ元の道に戻りましょうか。お腹も減ってきましたし」
「おっと、忘れてたぜ。もう腹ペコペコだよ。こんな辛気臭いとこさっさと退散しようぜ」
「そんな言い方をしてはいけませんよ」
「わかったから早く行こうぜー」
それからゼガたちは来た道を戻るのだった。