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まさき

作者: 糸川草一郎

 昼には温かかった元城町も、日が暮れる頃にはすっかり冷えて、表通りの人通りもその頃には絶えてしまったようだったし、帰宅を急ぐ車の列も、さして渋滞しているわけでもないのに何故かのろのろと走っていた。坂を登ったところに大きな山桜があり、花の時期も過ぎていたから、もう葉桜となっていた。

 坂の上は若の宮町であったが、電柱にある地名の表示は、何故か薄れてまったく読めなくなっていた。私は腹が減っていたので、何か食べたかったが、定食屋はどこも閉まっているようだったし、コンビニもなかった。ただ、その道の向かいの、居酒屋「まさき」だけが菜の花色の灯を煌々と点していたので、そこの暖簾をくぐることにした。

 中にはまだ客は誰も居なかった。カウンターの右隅に陣取って、生ビールと、品書にあった豚の唐揚げを頼むと、店のママは無表情に返事をして、生ビールを注ぎ、私の前に置いた。

 私が生ビールを飲み、豆を食べていると、男の客が二人這入ってきた。一人はヤンキースの野球帽を目深に被っていたが、どう見ても以前ここで飲んだことのある、伊野さんだった。

 伊野さんは、私に目礼もせずカウンターの左隅に連れと坐ると、ママがおもむろに注いだグラスの酒を飲みはじめた。グラスの酒は白く濁っていたが、氷は入っていなかった。そうして私は二人の様子を小半時ほど窺うともなく窺っていたけれど、二人ともまったく口を利かない。

 そのうちに私は思い出した。伊野さんとは、二三度ここで飲んだだけの間柄だったが、彼は確か、昨年の秋の長雨の晩、潤井川に飛び込んで亡くなったはずである。

 店の女の子が裏から這入って来た。志穂さんだった。志穂さんは他に倉坂製薬の派遣社員をやっている。趣味でロック・バンドをやっていて、これがいっぱしの人気バンドらしい。彼女は私の姿を認めると、にっこりと目礼をして私のすぐ近くに立った。志穂さんの定位置で、暇な時はいつもそこに立っている。カウンターのすぐそばなので、居やすいのだろう。

 と、そのうちに伊野さんが憚りに立ったので、志穂さんに小声で訊いてみた。

「そこに坐っていたの、伊野さんだよね」

「そうですよ」

「彼、昨年死んだんじゃなかったっけ」

「それがどうかしましたか」

「どうかしましたかって、不思議じゃないの」

「どうして」

 これ以上、何を訊いても無駄のような気がしたので、私は口をつぐんだ。そのうち、少しして伊野さんが戻ってきた。彼はグラスの酒を明けると、勘定をして連れと出て行った。客はふたたび私一人になった。一人になると、私の話し相手はもっぱら志穂さんだけになる。

 志穂さんは二二歳。私にはただのお嬢さんに過ぎなかったが、彼女には年に似合わぬ落ち着きがあった。私は志穂さんに好感を持っていたけれど、彼女をどうこうしたいとは思わなかった。私には麻里と言う婚約者がいたからであるが、そうではなく彼女には他に男がいそうな雰囲気があった。彼女自身は彼なんかいないと言っていたが、そんな風には見えなかった。

 ママがようやく豚の唐揚げを持ってきた。少量のキャベツの千切りにタルタルソースがかかっている。

「唐揚げには味が付いているから、そのままでも食べられるよ」

 志穂さんは興味があったらしく、目の前の厨房で試食している。彼女が言った。

「あ、美味しい」

 私は友人がやっている中華の店で、これを注文して食べたことがある。それは薄切りの豚肉だったが、ここのは分厚い。

「ママ、これ美味いよ」

「あ、よかった。でも自信あったんだよね」

「さすがです」

 それを食べ終えると、私もお勘定をした。外へ出ると西に傾きかけて、遅い月が出ていた。家は近いし、さほど酔ってはいなかったので、タクシーも呼ばず、その夜はそのまま歩いて帰った。

 翌日の昼前、出先の仕事のついでに、事務用品を買おうと思い、本町通りの文房具屋へ会社の車で行く途中、若の宮町の「まさき」の前を通った。

 だが、「まさき」は何故か看板だけ残して、閉店しており、おもてに「テナント募集」の大きなプレートが貼ってあった。私が「まさき」で飲んだのは、つい十二時間ほど前のことである。それが翌日には「テナント募集」って、どういうことだろうか。私にはいくら考えてもわからなかった。

 その翌日、仕事を引けて、若の宮町の坂を上っていた。腹が減っていたが、あいにくやっている店はなかった。坂を登ったところに大きな山桜があり、花の時期も過ぎていたから、もうすっかり葉桜となっていた。電柱にある地名の表示は、一昨日とは違って新たに貼りかえられたのか、薄闇の中でもはっきり読めた。

 驚いたのは、その道の向かいの、廃業したはずの居酒屋「まさき」だけが菜の花色の灯を煌々と点していた。私は恐る恐る、近づいてみたが、「テナント募集」のプレートは外されており、一昨日の店の様子と何ら変わったところはなかった。私は暖簾をくぐった。

「あ、おかえり」

「いらっしゃいませ」

 一歩這入ると厨房の中に、ママと志穂さんが笑顔で立っていた。

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