卒業舞踏会での婚約破棄が多すぎるので、王宮式典局は対応要領を整備しました
王宮式典局に勤めて五年になるが、毎年この季節になると胃の奥が重くなる。
「メルディナ、今年も例の時期が来たな」
執務室の扉を開けるなり、上司がそう言った。式典局次長、ヴェイン・アシュフォード様。公爵家の次男でありながら社交界より文書庫を愛する変わり者で、私の作る文書の決裁者である。
「存じております、次長。王立学園卒業記念舞踏会、開催まであと十日。例年通りであれば、そろそろ『予兆』が観測される頃合いです」
「予兆は出たぞ。第二王子殿下が、ここ一月で男爵令嬢のサロンに十一回お忍びで通われた。一方、婚約者であるグランヴェル公爵令嬢への文の数はゼロ。学園の警備記録と門衛日誌から確認済みだ」
「……数字が雄弁ですね」
私は席を立ち、書架から一冊の冊子を取り出した。
表紙にはこうある。
『卒業記念舞踏会における婚約破棄事案発生時対応要領(第三版)』
起案者、メルディナ・ロウ。決裁者、ヴェイン・アシュフォード。
わが式典局が誇る、おそらく大陸唯一の行政文書である。
◇
誤解のないように申し上げておくと、私とて好きでこんなものを作ったわけではない。
三年前。第一王子殿下が卒業舞踏会の壇上で侯爵令嬢への婚約破棄を宣言された。会場は大混乱、楽団は演奏を続けるべきか否かで指揮者が卒倒し、料理は冷め、招待客四百名の馬車の手配は崩壊し、翌朝までに国王陛下へ上がった報告は七系統で内容がすべて食い違っていた。
事後処理を押し付けられたのは、当然ながら会場運営を所管する我が式典局である。私は三晩徹夜した。
二年前。今度は宰相閣下のご子息が同じことをやった。よりにもよって乾杯の直前に。私は四晩徹夜した。
昨年。辺境伯のご令息が断罪劇を始めたが、糾弾の途中で挙げた「証拠」が日付も署名もない怪文書であったため、逆に名誉毀損で訴えられた。訴訟記録の整理を手伝わされた私は、五晩徹夜した。
三年連続である。もはやこれは偶発事象ではない。毎年必ず発生する定例行事だ。
ならば、定例行事には何が必要か。
手順書である。
◇
対応要領第三版の骨子は三つ。
一つ。「音楽停止及び会場統制」。断罪宣言の開始を確認した場合、楽団は曲の途中であっても八小節以内に静かに演奏を終了し、給仕は配膳を一時停止する。混乱の最大要因は「誰も状況を統制していないこと」だと、三年分の苦い経験が教えている。
二つ。「証拠書類の真贋確認」。断罪の場で提示された証拠は、その場で式典局立会いのもと真贋確認を行う。日付、署名、印章、紙質、筆跡。確認が済むまで、いかなる処分の宣言も「無効」として記録する。怪文書で人の人生を終わらせてはいけないのだ。誰の人生であっても。
三つ。「国王陛下への第一報」。事実のみを時系列で記した統一様式により、発生から一刻以内に一系統で報告する。七系統で食い違う報告は、もう二度とごめんである。
「我ながら美しい文書だと思います」
「ああ。君の作る文書は美しい。無駄がなく、漏れがなく、誰が読んでも同じ結論に至る」
ヴェイン様は要領をめくりながら、ふと真顔で言った。
「だが今年は、これが本番で試される。第二王子殿下が相手でも、君はこの手順を執行できるか」
「次長。手順書というものは、相手によって執行したりしなかったりするのであれば、最初から存在しない方がましです」
「……いい答えだ」
彼が少しだけ笑ったのを、私は見なかったことにして退室した。決裁者の微笑は文書に残らないので、職務上、記録する必要がないのである。
◇
卒業記念舞踏会、当日。
会場は花と燭台で飾られ、楽団は二度の予行を終え、給仕の動線は完璧だった。私は会場の東側、柱の陰の「式典局統制位置」に立つ。手元には対応要領と、懐中時計と、白紙の記録用紙。
そして開宴から一時間二十分後。
「皆、聞いてくれ!」
来た。
壇上に上がったのは第二王子レオニス殿下。その隣には涙目の男爵令嬢。眼下には、突然名指しされて立ち尽くす婚約者、グランヴェル公爵令嬢クラリーチェ様。
「私はここに、クラリーチェ・グランヴェルとの婚約破棄を宣言する! この女は清らかなソフィを階段から突き落とし、ドレスを切り裂き、あまつさえ実家の商会を使って彼女の家を破産させようとした! 証拠もある!」
殿下が高々と書類の束を掲げた瞬間、私は懐中時計の竜頭を押した。
二十二時〇七分、事案発生。
「楽団、八小節」
私の合図で、ワルツは不自然でない減速を経て、静かに終わった。給仕が壁際に下がる。ざわめきはあるが、混乱はない。統制された静寂の中で、殿下の声だけが響く構図が完成した。
殿下は満足げだった。会場が自分のために静まったと思っておられるのだろう。
残念ながら、静まったのは手順のためである。
「失礼いたします、殿下」
私は記録用紙を手に、壇へ進み出た。
「王宮式典局のメルディナ・ロウと申します。『卒業記念舞踏会における婚約破棄事案発生時対応要領』第七条に基づき、ただいま提示されました証拠書類の真贋確認を実施いたします」
「……は? 何だその要領というのは」
「昨年度、国王陛下の御裁可をいただいた王宮内規でございます。確認が完了するまで、本件処分は要領第九条により『無効』として記録されますので、ご了承ください。――では、拝見します」
殿下が呆気に取られている間に、私は書類の束を受け取った。確認は手順通り、五点。
一枚目。男爵令嬢の被害を記したという診断書。「日付が学園の休暇期間中です。階段から突き落とされたとされる日、学園は閉鎖されています。門衛日誌と矛盾」
二枚目。ドレスの修繕請求書。「印章が商業ギルドの旧様式です。この印章は二年前に廃止されています。発行日付とされる三月には存在しません」
三枚目。破産工作の指示書とされる書簡。「筆跡確認を求めます。クラリーチェ様、恐れ入りますがお名前をご記帳ください」
公爵令嬢は戸惑いながらも応じた。私は二つの署名を並べ、会場に向けて掲げる。
「ご覧の通り、書簡の筆跡は『リ』の払いと『チ』の角度が本人署名と一致しません。むしろ――」
私はそこで一度言葉を区切り、書類をめくる音だけを会場に響かせた。手順書には書いていないが、人は紙の音に弱い。
「――書簡の筆跡は、お隣のソフィ様が学園に提出された入学願書の筆跡と、九箇所において一致いたします。願書の写しは式典局が会場警備名簿の照合用に保管しております」
会場が、今度こそ本当に静まり返った。
「な……っ、それは、その」
「以上、提示された証拠三点はすべて偽造の疑いが濃厚です。要領第十一条に基づき、本件は『婚約破棄事案』から『公文書偽造及び虚偽告発事案』へ分類を変更し、衛兵局へ引き継ぎます。なお国王陛下への第一報は」
私は懐中時計を確認した。
「二十二時三十一分、発生から二十四分後に発出済みです。様式第一号、一系統。……ああ、ちょうど」
会場の扉が開き、近衛を従えた国王陛下ご本人が現れたのは、まったくの想定外だった。第一報を読んで直接お越しになるとは。手順書の改訂事項としてメモしておく。
「レオニス。話は文書で読んだ。続きは別室で聞こう」
陛下の声は静かだった。静かな決裁ほど怖いものはないと、文官なら誰でも知っている。
連行されていく殿下と男爵令嬢を見送りながら、私は記録用紙に最終行を書き入れた。
『二十二時四十分、事案終結。会場、舞踏会を再開』
楽団が次の曲を始める。何事もなかったかのように、人々が踊り出す。
クラリーチェ様が私のもとへ来て、深々と頭を下げられた。
「ありがとう。あなたは私の名誉を救ってくださったわ」
「いいえ、公爵令嬢様。私は手順を執行しただけです。……ただ」
私は少しだけ、本音を付け加えた。
「怪文書で終わらせていい人生など、一つもございませんので」
◇
後日。事後報告書一式を仕上げた私は、ヴェイン様の執務室に決裁を求めて入った。
彼は報告書を一枚ずつ、いつもより時間をかけて読んだ。そして最後の頁に署名をしてから、顔を上げた。
「メルディナ・ロウ起案の文書を、私は五年間決裁してきた」
「はい。お世話になっております」
「無駄がなく、漏れがなく、誰が読んでも同じ結論に至る。だが先日の舞踏会で一つだけ、私は君の文書にない結論に至った」
「……報告書に不備が?」
「いや。起案者に惚れたという結論だ。これは君の文書のどこにも書いていない」
私は三秒ほど沈黙した。手順書のどこにも、この事態への対応要領はない。
「……次長。それは口頭ではなく、文書でご提出いただけますか。日付と署名のないお話は、無効として記録する決まりですので」
「だろうと思った」
彼が懐から取り出したのは、一通の婚姻申込書だった。日付、署名、公爵家の印章、完備。紙質は王宮公文書用の上等品。
完璧な様式だった。まったく、腹立たしいほどに。
「真贋確認の結果を、いつまでに頂けるかな。起案者殿」
「――精査の上、前向きに決裁いたします」
その回答が様式として正しかったかどうかは、いまだに自信がない。
ただ、翌年度の対応要領第四版に「式典局員が壇上で求婚された場合」の項を追加する羽目になったことだけ、記録として残しておく。
手順書というものは、相手が誰であっても執行されねばならないのである。
(了)
お読みいただきありがとうございました。
「婚約破棄断罪劇って、会場を運営している裏方の人は毎回大変なのでは?」という思いつきから生まれた話です。世界のどこかで今日も、誰かの徹夜が手順書になっています。
メルディナとヴェイン次長のその後(新婚なのに会話が決裁文書風)も、いずれ書けたらと思っています。
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