【短編小説】複眼
狭い。
息が詰まるほどではないが広くはない。おれは八畳ほどのサングラス屋にいた。もう少し広かったかも知れない。
店の壁という壁、細長い棚と言う棚にサングラスのフレームが吊られ、そのレンズがこちらを見ている。
昆虫の目みたいだ。無数のおれがおれを見ている。おれはその視線の中を泳ぐ。
サングラスの他には中古のネックレスや指輪が雑然と並び、指紋や皮脂で曇ったガラスケースが光を鈍く反射している。
そこはおれの知らない店だ。
しかし店主の男とは親しい。
理由はない。知らない顔なのに昔からおれを知っているような話し方をする。おれもその男を知っているかのように話す。
社会性は記憶の代替品だ。
店は案外と忙しい。
客が入れ替わり立ち替わり訪れる。
おれは店主の男との話を切り上げてサングラスを探す。細いフレームのサングラスを探していたはずだ。
余白のある顔になりたかったのだと思う。
他に理由があったかも知れない。それは忘れてしまった。忘れるくらいだ。たぶんどうでもいい理由なんだろう。
いくつか試す。どれも軽すぎる。
レンズ越しに見る店内は微妙に遠近が狂っている。狂った光の中で無数の複眼みたいなレンズがおれを見ている。
客が来る。おれは虫の視線から身をかわす。
客が来る。狂った光の中でおれは鏡の前に取り残される。
さっきまであったフレームが消えている。どこにもない。
「売れたんだろうね」
店主が笑う。歯がやけに白い。
仕方なく大きなレンズのものを手に取る。顔に当てると上下が逆だった。
レンズの曲面が頬骨に食い込み、鼻当てが額に触れている。
妙にしっくりくる。
外さずにしばらく鏡を見る。上下が逆のほうが自然に見える瞬間がある。
まさかな。
サングラスを正位置にかけなおす。レンズが顔の半分を覆う。視界が暗くなり店の奥行きがさらに浅くなる。
鏡の中のおれは髪が長い。
湿ったように額に貼りついている。いつからこんなに長かった?
おれは店主に顔を向ける。
「これをかけるなら、髪をどうにかしないと」
店主は首を傾げる。
「そのままでいいよ」
鏡の中の男は誰かに似ている気がする。
昔の俳優のようでもあるし、溺れかけている人間のようでもある。
おれの背は低い。視線はレンズの奥で鈍く光っている。光は狂っているのか、もう分からない。
おれは金を払って店を出た。
店主の男が何か言った。
だがそれは棚に並んだ虫たちの複眼に飲み込まれていった。その中央に店主の歯だけが浮かんでいる。




