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【短編小説】複眼

掲載日:2026/02/17

 狭い。

 息が詰まるほどではないが広くはない。おれは八畳ほどのサングラス屋にいた。もう少し広かったかも知れない。

 店の壁という壁、細長い棚と言う棚にサングラスのフレームが吊られ、そのレンズがこちらを見ている。

 昆虫の目みたいだ。無数のおれがおれを見ている。おれはその視線の中を泳ぐ。


 

 サングラスの他には中古のネックレスや指輪が雑然と並び、指紋や皮脂で曇ったガラスケースが光を鈍く反射している。

 そこはおれの知らない店だ。

 しかし店主の男とは親しい。

 理由はない。知らない顔なのに昔からおれを知っているような話し方をする。おれもその男を知っているかのように話す。

 社会性は記憶の代替品だ。


 店は案外と忙しい。

 客が入れ替わり立ち替わり訪れる。

 おれは店主の男との話を切り上げてサングラスを探す。細いフレームのサングラスを探していたはずだ。

 余白のある顔になりたかったのだと思う。

 他に理由があったかも知れない。それは忘れてしまった。忘れるくらいだ。たぶんどうでもいい理由なんだろう。


 いくつか試す。どれも軽すぎる。

 レンズ越しに見る店内は微妙に遠近が狂っている。狂った光の中で無数の複眼みたいなレンズがおれを見ている。

 客が来る。おれは虫の視線から身をかわす。

 客が来る。狂った光の中でおれは鏡の前に取り残される。

 さっきまであったフレームが消えている。どこにもない。


「売れたんだろうね」

 店主が笑う。歯がやけに白い。

 仕方なく大きなレンズのものを手に取る。顔に当てると上下が逆だった。

 レンズの曲面が頬骨に食い込み、鼻当てが額に触れている。

 妙にしっくりくる。

 外さずにしばらく鏡を見る。上下が逆のほうが自然に見える瞬間がある。


 まさかな。

 サングラスを正位置にかけなおす。レンズが顔の半分を覆う。視界が暗くなり店の奥行きがさらに浅くなる。

 鏡の中のおれは髪が長い。

 湿ったように額に貼りついている。いつからこんなに長かった?

 おれは店主に顔を向ける。

「これをかけるなら、髪をどうにかしないと」

 店主は首を傾げる。

「そのままでいいよ」


 鏡の中の男は誰かに似ている気がする。

 昔の俳優のようでもあるし、溺れかけている人間のようでもある。

 おれの背は低い。視線はレンズの奥で鈍く光っている。光は狂っているのか、もう分からない。

 おれは金を払って店を出た。

 店主の男が何か言った。

 だがそれは棚に並んだ虫たちの複眼に飲み込まれていった。その中央に店主の歯だけが浮かんでいる。

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