EP5 「好きだよ、ずっと。ずっと前から」
※この作品には暴力的描写、流血表現、一部性的なニュアンスを含む描写があります。苦手な方はご注意ください。
制服姿の少女が、俺の首を絞めていた。
視界が滲む。喉に食い込む指。力が抜けていく。
芽依の顔がすぐ目の前にあるのに、その瞳だけがどこにも焦点を結んでいない。
真っ赤に充血した眼差しに、自分自身の姿が映っていないことがわかる。
「……ッごめ、ね……ごめんね……リョウ……逃げて……!」
押しつぶされた声。
自分の手で俺を殺そうとしながら、芽依は泣いていた。
叫ぶように、懇願するように、何度も言葉が重なる。
「だめなの、止まらないの……逃げて、早く、逃げて…う゛…でも……やだ、やだ、殺したくない……!」
崩れた顔。涙と鼻水でくしゃくしゃになった頬が、俺の頬に触れている。
声が裏返る。喉が焼けるような嗚咽と一緒に、彼女の手はさらに強く締め上げてくる。
「大好きなのに……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
涼しいはずの廊下が、ぐらぐらと揺れる。
苦しい。息ができない。
けれど──それでも、殴れなかった。
「……ッ、ぐぅ……!」
悲鳴のような声が、喉から漏れた。
力を振り絞って、ようやく彼女の手を引き離すと、俺はバランスを崩して後方へ転倒した。
がしゃん、と何かが崩れる音。
背がロッカーにぶつかったらしい。中身が散らばり、何かが芽依の足元まで滑るように転がった。
それは、銀色に光る──ハサミだった。
芽依の視線が、それに吸い寄せられるように向いた。
「……メイ!ダメだ!」
そう言おうとした時にはもう遅く、芽依の身体が、勝手にハサミへと手を伸ばしていた。
彼女自身の意思ではない。動かされている。
手が、震えながら刃を握る。
「だめだめダメダメ…………いや、なんで……なんで、私……!」
右手に握られたハサミが、涼を狙って振り上げられようとする。
だが、左手がそれを止める。引き戻すように、ぶつかるように。
芽依の意識が、身体の中で引き裂かれている。
「……もう……お願い、動かないで……!」
芽依はガクガクと震えながら、左手で強引に、自分の喉元に刃を近づける。
「……リョウを、傷つけるくらいなら……ッ!」
刃先が彼女の首に触れた瞬間、俺は咄嗟に身を乗り出して彼女の手首を掴み、渾身の力で両腕を拘束した。
「やめろメイ!! やめてくれ!!」
ぐっと力を込めて、動きを封じる。
身体が暴れているのに、声だけが泣いていた。
その瞬間、彼女の腰が抜けるように力を失い、俺の腕の中で崩れた。
そのまま、失禁したのがわかった。ぐしゃりと下着が濡れ、情けない暖かさが布越しに伝わる。
「ごめ…ん…お゛っご、ごめんね…」
その身体は痙攣しながらも、かすかに震えていた。
芽依の身体が落ち着きを取り戻していくのを感じたが、俺の手は一切力を緩めることはなかった。
しばらくの沈黙。
突然、芽依がぽつりと呟く。
「覚え、てる……? あの、あ、給食の牛乳こぼした日……、みんな笑ってたのに、リョウだけ、黙って、ハンカチ出してくれた」
絶え絶えの唇で辛うじて発話しているのがわかった。
「……ああ」
「……それから……体育の時、足くじいた、私を……おんぶして保、健室まで……あれも」
「うん…」
「……お祭りの日、上手に、着付け出来なくて……でも、かわい、いって言ってくれ、た…」
「…ゔん」
涙が止まらない。彼女も、俺も。
「ぜんぶぜんぶ…楽しかったね…」
大粒の涙で顔をめちゃくちゃにしながら芽依は笑っていた。
「た…だのしがった!」
声が声にならない。
「もう…戻れ、ないの、かな……」
俺は言葉が出なかった。
胸が潰れそうで、涙で視界が歪んで前が見えない
「…ありがと…出会って、くれて…本当にありがと、ね…」
芽依の声が、だんだん小さくなっていく。
泣き疲れた子供のように、彼女の身体がだらりと脱力していく。
「……あの時の、返事……まだ、聞けてなかったね……」
「最後に……ききたかった…な」
その言葉と同時に──
芽依の瞳から、光が消えた。
「メイ……?」
だらりと脱力した身体。返事はない。
「メイ?なあ、返事してくれよ……」
肩を揺さぶる。声をかける。
「メイ!メイ!!」
返ってくるのは、沈黙だけだった。
俺の中で、明確に何かが崩れるのを感じた。
息ができない。鼓動が荒ぶる。
「頼むよ……返事、してくれよ……」
それでも、どこかで分かっていた。
もう──戻ってこないのだと。
それでも、置いてはいけない。
諦めることも、できなかった。
この時、俺の中にはもう選択肢なんてなかった。
だらりと崩れていた芽依の身体が、硬直する。
次の瞬間、金属のような音を立てて、膝が床を叩いた。
骨と筋肉が無理やり駆動するような、不気味なぎこちなさで、芽依は立ち上がった。
そこにいたのは──もう、芽依じゃなかった。
顔つきが違う。目の奥が死んでいた。いや、逆に、何か別の何かがそこに宿っているようで──。
俺の知っている芽依じゃなかった。
俺は動かなかった。声も出さなかった。ただ、芽依の姿を見つめていた。
芽依は、無言のまま、刃がゆっくりと持ち上げる。狙いは、俺だ。
もう怖がることさえ、できなかった。
この刃が俺を裂いて終わるなら、それでいい。
あの子の痛みも、絶望も、孤独も──全部、俺の中に流れ込んでくれ。
彼女を、これ以上独りにしたくない。
芽依が振りかぶる。鋭く、正確に、俺の胸を狙って。
俺はその軌道に、自分の手を差し出した。
刃が、手のひらに沈む。
ズブリと骨を裂く感触が伝わってきたが、それはただの合図に過ぎなかった。
涼はそのまま、血のついた刃を包み込むように──芽依を、自分の胸へと引き寄せた。
傷ではなく、痛みではなく、その存在まるごとを受け止めるように。
「……もう、いいんだ」
耳元で、俺の声が震えた。
「痛いのも、苦しいのも、全部……もう、俺が受け止める」
暴れようとする芽依の身体を、力強く抱き締め続ける。
腕の中の彼女が、獣のように呼吸を荒げ、震えていた。
それでも俺は、離さなかった。
「メイ……」
「あのとき……お前、聞いたよな。俺が、メイの事、好きかどうかって──」
血が、俺の手のひらからじわじわと溢れて、芽依の肩を濡らしていく。
「……好きだよ。ずっと……ずっと前から」
唇が触れた瞬間、心臓の音が二つ、重なった。
胸の奥で凍りついていたものが、じわじわと溶けていく。
音が戻る。鼓動が、世界の輪郭を取り戻していく──
芽依の身体が、かすかに震えた。
その瞬間。
全身から力が抜けたように、芽依の呼吸が一つ、大きく漏れた。
「…………っ、あ…………」
硬直していた身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
目の焦点が合いはじめた。
そして、視線が、俺を見た。
「……リョ、ウ……」
──帰ってきた?
「……ああ!俺だよ、メイ!わかるのか!!」
俺の中の“抗体ナノマシンが”伝播したのか?
わからない。でも、そんな事、今はもうどうでも良かった。
芽依の瞳が、潤む。
涙があふれて、頬を伝ってこぼれていく。
「……さっき、なにか……ごめん、よく聞こえなかった……」
芽依が、伏せ目がちに訊いた。
俺は──黙って、もう一度だけ彼女を抱きしめた。
それが、すべての返事だった。
言葉なんて、もういらない。
ここにいる──それだけで、もう、全てだった。
連載情報やイラストなどを随時発信中
▼ X(旧Twitter)
https://twitter.com/simradio