はちみつに飛び込め!
男は30を超えると童貞であれば魔法使いになる。
でも、童貞でないとどうなるかというと、気が変になるらしい。本当かは知らない。
芥川海人は30歳の誕生日を迎えた夜、ワインを一瓶、空けていた。恋人でもあった一つ年上の31歳のマナミはもう荷物をまとめて昨日の夜中、家を出ていた。「30歳になったら結婚しよう」というのを、芥川がふいにしたからだ。女にとっての30歳というのは一つのリミットだ。それ以上の歳での恋愛は、難しいもので、結婚を前提としたものでないと、ただ時間を無駄にしてしまうだけだ。
それを芥川もわかっているから、追いかける事はしなかった。
きっと、群馬へと帰るのだろう。新幹線か飛行機か、あるいは夜行バスかは知らないが。
「馬鹿な女だよ、俺みたいなのと一緒にいてさ」
そう誰に向けたわけではない言葉を口にして、ワイン瓶をラッパ飲みし、空にするとソファにぐったりと寝て沈んだ。
目覚ましの音がしなければ、そのままにずっと寝ていただろう。
「マナミ、飯はどう」
そこまで口にしたとき、もうマナミは家を出ていることを思い出した。
そうだ、これからはこの家に一人で暮らすことになっているのだ。
立ちあがって、キッチンへと向かう。
キッチンの小窓からは外が見えた。外は途轍もない雪になっていた。道を歩く小学生くらいの子供たちが、雪玉を作っては投げて作っては投げてを繰り返し、その端を通ろうとする車からクラクションを鳴らされる。それで、笑いながら子供たちが逃げていった。
子供の頃は良かった。
なんて、振り返るならワインを一人で、一瓶を飲み干すべきではなかった。
冷蔵庫の中から、バター、食パンを二枚、卵と牛乳を取り出す。
牛乳に卵を割り入れて溶いた液に、食パンを浸す。食パンがじわっと全ての溶液を吸い取るまでの間に、フライパンを取り出して、コンロへと置いて火にかけた。ちちちっとコンロに火が付くのを確認してから、一欠けらのバターを置いて溶かす。
バターから煙か湯気が出たときを見計らい、溶液を吸い上げた食パンを置いた。
じゅわっと音を立てながら卵の液を焼き固めながら、パンが焼けていく。
フレンチトースト。
芥川はたまに食べたくなるんだよな、と呟いた。
皿にしっかりと焼き目のついたフレンチトーストを載せて、昨晩の寝床でもあったリビングのソファへと持っていく。
ウキウキにフレンチトーストをフォークで切り分けて、一つ口に運ぶ。
「しまったな」
一口食べただけで芥川は口をへの字に曲げた。
「甘くはない」
砂糖を入れ忘れたことを今更になって、芥川は思い出した。かといってバニラエッセンスも入れていない。
しかし、これこそが人生の味と割り切ることにした。
二口目を覚悟を決めて食べようとした時。
ガチャり、と扉が開いて、荷物を持ったままのマナミが玄関から現れた。
頭から真っ白な雪をかぶった彼女は、化粧していないだろうに、頬が真っ赤だ。
「ただいま、ちょっと、換気扇回してよー」
「なんで帰ってきてんの」
「なんでって、ニュース見てないの? 大雪で、飛行機も新幹線もバスも運休してんのよ」
キッチンへと向かいながら、マナミは言った。
「で、そこで子供たちと雪合戦してたら、お腹減っちゃってさ。なんかない? てか、そのフレンチトーストもらっていい?」
芥川は自分が食べていたフレンチトーストをちらりと一瞥した。
そして、これも人生か、とあきらめる。
「ハチミツとお皿とフォーク、持って来てくれよ。このフレンチトースト、砂糖も何もないんだ」
「なにそれ、甘くないじゃん。人生味?」
「いや」
マユミからの言葉に、芥川は首を振る。
「人生っていうのは甘くできるから」
ハチミツの入った瓶を手にキッチンから出てくるマユミの姿を見ながら、芥川は笑い、言った。