九条さんの心の中には②
あれは文化祭の最終日。
日曜の午後だ。
そろそろ舞台の出し物も終盤、模擬店もちらほら片付け始めていた夕刻に近い頃。
ちょっとした騒ぎ――というか、軽い揉め事というべきかもしれない。クラブハウス周辺で後片づけをしていた者数人くらいしか、知っている人間はいないだろうから――が起こった。
軽く言い合うような声が聞こえてきて、茉奈が部室から下を覗くと。
建物の陰になる部分で、他校の生徒らしい、ちょっと雰囲気の悪そうな男子数人が、理数同好会の一年生である住川さんに絡んでいた。
住川さんは校内でも有名な可愛い子だ。
真っ黒でつやつやの髪を背中まで伸ばした、清楚系アイドルみたいな雰囲気の女の子で、他校の男子生徒からもよく声をかけられているという噂だ。
と言っても、本人はいたって大人しい、真面目で引っ込み思案なタイプであり、こういうナンパに困惑して涙ぐんでいることもあるらしい。
普段は彼女の親友が、中学時代からガードしているので事なきを得ているらしいのだが、今日はその親友も自分の所属クラブの活動で忙しくしている。
住川さんも、自分の同好会の出し物の後片付けをしていたのだ。
そこへ、『他校の男子達』がわざわざつけてきて、ひとりになった住川さんに声をかけ……有体に言うならナンパしてきた、ようなのだ。
困りますとか用があるんですとか、もごもご言ってる彼女へ、まあまあそう言わずに、とか、終わるまで待ってるから俺たちとお話しようよお茶くらいおごるし、とか、もちろんそっちもお友達と一緒でいいからさとか、なんだかしつこく食い下がっている様子だった。
「住川さん」
茉奈は思わず、部室の窓から声をかけた。
「後夜祭の準備、そろそろ行こうか?」
茉奈を見上げ、住川さんはホッとしたように頬をゆるめた。
「あ、お友達? お友達も可愛いな。じゃあさ、俺たちマジで待ってるから、用が済んで全部終わったら、彼女と一緒に駅前の……」
「おいお前ら。嫌がってるだろう? しつこくするなよ」
機嫌の悪そうな低い声が突然、ナンパ男たちの言葉を遮った。
仏頂面を隠しもせずに、ずかずかと大股で歩いて来たのは……理数同好会の会長・九条さんだった。
「先輩!」
住川さんは半泣きに近い声でそう言い、あっという間に彼の方へ走っていった。
「そろそろ終了時刻ですから。お客様はお帰り下さい」
慇懃無礼な口調でそう言う彼に、彼らの苛立ちが一気に膨れ上がった。
「なんだよ、お前」
一番しつこく住川さんに絡んでいた男子が、気色ばんで九条さんへ近付く。
九条さんは、瞬間的に軽く目を閉じ、眼鏡を外してカッターシャツの左胸にあるポケットに仕舞った。そしてふっと冷笑したのだ。
「もしかしたらと思ったけど。やっぱりお前、薮内だな?」
いきなり名前を呼ばれ、相手は一瞬、ポカンとしたが、
「え? お前……まさか、マドカちゃん? うっわマジかよ、あの軽くイジッただけでピーピー泣いてた、チビだったマドカちゃん? うへえ、ずいぶんとまあ育っちゃって~。俺と身長、そんな変わんなくね?」
などと言い、嫌な感じにせせら笑った。
「ちょっと背丈伸びたからってナマイキになっちゃってさあ。『千田高』に入れたんだからマドカちゃん、お勉強はソコソコおりこーさんだろうけど、ヒトの恋路を邪魔するなんてやっぱ頭わりぃワ」
九条さんは無言。しらけ切った顔で相手を見ている。
その態度に、薮内と呼ばれた男子生徒はさらにムカッときたのだろう、いきなり拳を握ると九条さんの頬すれすれへ、鋭くパンチを打ち出した。
住川さんの細い悲鳴。茉奈は慌てて部室を出、転がるように階段を下りた。
息を切らして茉奈がその場についた時。
現場は凍り付いていた。
薮内はパンチを繰り出した状態で、何故か硬直したように固まっていた。
九条さんは静かなまま。
両腕をだらんと垂らしたまま、静かにただ、立っているだけ。
パンチがかすめた彼の頬に、うっすら赤い線があったが、冷え切った瞳はこゆるぎもしていない。
「それで終わりか?」
ややあって、九条さんはボソッとそう言うと、ハッとする鋭い身のこなしで右腕を伸ばし、薮内の首筋をてのひらで押すようにして、彼を壁際へ追い詰めた。
「お前さあ」
なんだか悲しげな声で九条さんは言うと、緩慢な動作で左腕を上げた。
「小学生の頃と、ちっとも変ってないのな。いい加減セイチョーしろよ……背丈だけじゃなく」
言葉が終わるタイミングで、彼は左手で素早く薮内をデコピンした。
(……え?)
一瞬、ストロボがたかれたかと思うくらいの光が見えた……気がしたが、すぐ消えた。
(へ? 見間違い? 錯覚?)
茉奈が混乱しているうちに、薮内は急にその場へ、ヘタッと座り込んだ。
「おい」
その場で凍り付いたように固まっている薮内のツレに、彼は声をかける。
「オトモダチつれて、さっさとお帰りいただけますか?」
彼らは我に返り、おびえたようにうなずくと、薮内を引っ張り起こしてバタバタと乱れた足音を立てながら、去っていった。
「先輩!」
住川さんの泣き声が突然、響く。
「ありがとうございます、ありがとうございますぅ……」
泣きながらそう言う彼女へ、九条さんは困ったように眉をよせ、きまり悪そうに眼鏡をかけ直して言った。
「あ~いや。無事で何より。アイツとはたまたま、小学生の時からの因縁があったからねえ、ちょっと脅かしといた。ま、サスガにもう絡んでこないと思うけど、もしまたなんか言ってきたら。九条と本気でやり合うのかって言ってやったら何とかなると思うよ……ただこの件、他言は無用ねメンドクサイし」
「はい、はい……」
泣きながらうなずく住川さんは、彼の言葉を聞いていたのかどうかよくわからなかったが。
このことが噂として広がらなかったので、おそらく約束を守ったのだろう。