角野英一のエピローグ
あれから……どのくらい経ったのだろうか?
そもそも今は、朝なのだろうか晩なのだろうか?
うつらうつらとした半覚醒の状態で、角野英一はぼんやり思う。
緩和ケア病棟へ移り、もう数日は経っている筈。
痛みそのものは特にないが別に元気になる訳ではないし、とにかく眠い。
半覚醒が覚醒になることは、もしかすると、もうないかもしれない。
不意に思いつき、瞬間的に彼は焦る。が、
(……まあ、それならそれでもいいか。今更だよな)
と思い直す。
眠りが一段、急に深くなった。
ふと気付くと彼は、若草の萌える土手に座って川の流れを見ていた。
ああ、これは故郷の風景だ。
陽射しのあたたかさ。川面の輝き。
時折吹く風が、ハッとするほど鋭い。
この感じは早春だなと、煙草を吸いながら英一は思う。
故郷にいた頃は煙草なんか吸わなかったよなと、彼は意識の隅でぼんやり思う。
なにしろまだ未成年だったし、人生に煙草が必要だとも感じなかった。
煙を深く肺へ入れながら、小さく苦く笑う。
思えばあの頃は、人生が単純だった。
首周りがいやに暖かいと、英一は急に気付いた。
触れてみると、柔らかな毛糸の感触がある。
オフホワイトの細い純毛で、丁寧に編まれたマフラー。
クリスマスプレゼントとして、幸恵が編んでくれたものだ。
英一にはよくわからないが、『表編みと裏編みを交互に編んで、市松模様のようにした』編み方……らしい。
アルバイトで遅くまで外にいる英一を気遣って、せめて首周りが冷えないようにと、彼女は編んでくれたのだ。
(お返しに俺は、ちょっといいレストランで飯をおごったけど。高いのは無理だったとしても、何か……きれいな。ネックレスでもブローチでも、アクセサリーを贈れば良かったよな)
そんなことにも気がまわらない、要するに子供だったのだ、当時の俺は。
遠くから小さな声が聞こえてくる。
英一は煙草を消し、立ち上がって声の方へ目をやる。
「英一く~ん!」
声の主は幸恵だ。
小さな紙を手に、転がるように駆けてくる。
「受かった、受かったよ~」
頬を染め、一生懸命駆けてくる彼女。
ああそうだ、今日は彼女、大学の合格発表があるんだった。
これは決して来ることのない未来、切なくも儚い未来の夢を見ているのだと、知りながらも彼はほほ笑む。
「受かった、受かったよ! 私、4月から英一君と同じ大学に……」
息を切らし、満面の笑みで近付いてきた彼女を、英一はやわらかく抱き留め、腕の中に包み込む。
驚いたのだろう、腕の中で彼女の身体が硬直する。
「おめでとう。今まですごく、頑張っていたもんな」
英一が言うと、彼女は恥ずかしそうにうなずき、ありがとうとつぶやいた。
「さっちゃん。急にこんなこと言ってあれだけど。今までもこれからも、俺はさっちゃんのことが大好きだよ」
英一の顔のすぐ下にある、きちんと整えられた彼女の髪の上に、軽く唇を落とす。
「大好きだから……後は君が、選んでくれないか?」
ゆっくりと彼女を腕から離し、英一は両方のてのひらで、彼の持つ最後の浄化の力を光の微小な四面体に変え、怪訝な顔で小首を傾げている彼女を、やわらかくそれで包み込んだ。
次に風が吹いた時、若草の萌える土手には彼しかいなかった。
「おーい。【管理者・ゼロ】の『中の人』。いるんだろう?」
吹く風へ向かい、英一は呼びかける。
「最後にいい夢をという親心は有り難いけど。……過保護すぎだよ、あんた」
『【eraser】・スイ』の顔になり、彼は苦笑いする。
「他の【管理者】を知らないから、まあ何とも言えねえけどさ。場合によっては世界を消滅させる役目も担う【管理者】にしてはあんた、センチメンタルすぎるんじゃないか?……まあ。そこがあんたのいいところでもあるけど」
風が一瞬強く吹き、英一の髪を乱した。
「俺は彼女に縛られていいけど。彼女は俺に、縛られる必要はない。もしあの世で彼女が俺を許してくれるのなら、俺は彼女と一緒にいたいけど。仮に彼女が、もはや俺の顔すら見たくないのなら。永遠に会えなくてもかまわないと、覚悟している」
風が再び、強く吹いた。
「頼むから俺のそばにいてくれと、泣いて彼女にすがってもいいんだけど。彼女は頼まれると、断り切れない性格だからなあ。嫌でも我慢して、俺のそばにいてくれるかもしれない。……でもそれじゃあ、彼女は本当に幸せなんだろうかと、俺は今、思ってしまうんだ」
だから、と英一は、春の陽射しの中でからりと笑う。
「逝く時は、ひとりで逝く」
風がみたび、強く吹いた。
この意地っ張りの愚か者が、という黄泉の女神の名を持つ人の声が、薄れゆく彼の意識の中、最後にやわらかく、耳へ響いた。