一株のミント
7/22の活動報告に掲載した短編を、少し整えた掌編になります。
内容は同じになります。
それはとある初夏の朝。
結木碧生がルーティンである『義昭の楠』の健康診断をしていた時だ。
神社の境内に、黒のパンツスーツを身に着けたすさまじく美しい女性が現れた。
(……これは!)
古い古い、古い記憶。
『結木碧生』の直接的な記憶ではなく、彼の、魂レベルでの古い記憶が揺り起こされる。
「イザナミノミコト。お久しぶりでございます」
碧生の口をついて出るのは、国生みの女神の名。
彼女は目許だけでふっと笑む。
「懐かしい名だ。あなたはまだ、その名で私を呼んでくれるのか、オナミの水神。今期のあなたは……片角を欠いた神鹿のようだな」
「……私はすでに神と呼ばれるほどの力はありません、ミコト」
頭ではなく、脊髄反射で出てくるような言葉。
「『片角を欠いている』という私の姿を見ていただければおわかりでしょう。私はもはや、全き姿の神ではない。もっと正しく言うのなら、今の私は妻子に頭の上がらない、ただのヒト。しがない、ただの親父です」
「何を言う。『欠いている』姿を無造作にさらせる者などそういない。あなたは立派に『神格』だ」
女神は言うと、表情を改めた。
「ここは昔とほとんど変わらず、神域のまま。それを見込み、あなたとあなたの眷属にお願いしたいことがあって今日は参った。……これを」
女神が差し出すのは、鉢植えのミント。
「これは……スペアミントの亜種でしょうか?」
碧生が言うと、女神はうなずく。
「ちょっと特殊なものだが、おっしゃる通りミントの一種だ。ただ……事情があって弱っている。ミントは丈夫な植物だが、どんな環境でも平気という訳ではない」
「それはそうですね、この状態であまり放置すると、株内部が蒸れて葉が落ちて弱りますし。どうも……この個体も、そういう状態で長く放置されていたのでしょうか?」
「当たらずとも遠からずだ、オナミの水神。このミントをあなた方で元気にしてやってほしい」
「普通に世話をするなら可能ですが。それだけで構わないのでしょうか?」
少しばかり心もとなさそうに答える碧生へ、女神はうなずく。
「十分だ。ここで、ゆったりと日を浴び適切に水を与えてもらえれば。後は彼女……ミント自身が、生きる力を取り戻すだろう。……そうだ」
女神は目の前の巨木へ視線を移す。
「『義昭の楠』に頼みたい。一日か二日に一度ほどでいいから、あなたからこのミントへ声をかけてやってほしい。『ウダタマキ、あなたは十分頑張った』と」
「『ウダタマキ』? それがこのミントの正式名でしょうか?」
首を傾げる碧生へ、女神は美しく笑む。
『承知いたしました、イザナミノミコト』
葉擦れを響かせ、楠は答えた。
『ところで。私以外の木霊も、彼女を見守るようにした方が彼女のためになりましょうか? そうであるなら、知り合いの木霊に声をかけます』
八百年の齢を数える楠に、女神はうなずく。
「そうだな、いいかもしれない。だがお互いに無理のないようにな」
「では……お預かりいたします」
大事そうに鉢を受け取る碧生へ、女神は言った。
「二、三週間ほどになるだろうが、よろしくお願いする。……『ウダタマキ』よ、とにかく今は何も考えず、生き物の本分に従ってただ日を浴び水を吸い上げ、風に吹かれてまどろみなさい。また、迎えに来る」
初夏のあたたかい日差しと柔らかな風に吹かれた、優しい夢。
『オナミの水神』
『イザナミノミコト』
そして……『義昭の楠』。
お話に出てくる、不思議な登場人物のような彼ら。
さながら童話の一節のように現実味のない、それでいてどこかしら生々しい実感――ほんのりと甘さを含んだ新緑のにおい、涼しげな葉擦れの音、『オナミの水神』と呼ばれていた男性の、耳障りのいいテノールの声、など――を伴った夢。
これは、高校教師・宇田珠紀の記憶にしっかりと残っている、とても不思議な夢の話である。