7 やがてキュウになる⑪
静寂。
【eraser】・スイであり角野英一である男は、静寂の中でふと、我に返った。
身を起こし、見回し……立ち上がる。
乳白色のもやがただようばかりで、辺りには何もない。
彼が身に着けているのは、胸元を裂かれて血がにじんでいるウイングカラーの白いシャツと、濃紺のカマーバンドとトラウザー。
(俺は……、死んだのか?)
ふと思う。
それならそれで仕方ないとは思うが、きちんとエチサを浄化できたのか、また、九条マドカがどうなったのかが気になる。
(彼も……死んでしまったのか?)
そう思うと、哀しみと痛ましさに胸が引きちぎられる。
もっと彼を守ってやれたのではないかとも思い、己れの弱さとふがいなさに腹が立つし、彼と彼のご両親に申し訳なくてたまらない。
(君は……君は死ぬ必要などなかったんだ!!)
【eraser】として生まれついてしまったのは仕方がない。
だけど、何故君は俺の相棒になれるだけの【eraser】に生まれついてしまったのだ!
男は心で叫ぶ。
彼がいなければおそらく自分は、安住燿子にかなりやられていた筈。
ひょっとすると、その段階で消されていたかもしれない。
最後の最後に彼女が落としてきた、闇の礫はそのくらい凶悪な気配を纏っていた。
下手をするとその手前、安住清哉にすら翻弄されていた可能性も高い。
あいつは屑だが、抱えている寂しさや慟哭は本物だったから。
今更ながらだが、彼の防御の円陣の力は大きかった。
それはもう、想定以上だ。
(俺ひとりだと成功率は一割にも満たない。常々管理人に言われてきていたが、そんなことあるかと心のどこかで高をくくっていた。とんでもない、思い上がりだったな……)
自分が【Darkness】のそばまで行けたのは相棒がいたお蔭。
その大切な相棒を、自分は最後まで守り切れたのだろうか?
「九条君! 九条君! 君は無事なのか?」
虚空へ向かって、男は思わず呼びかける。
君に会い、君の目を見て礼を言いたい。
君は最高の相棒であり、最高の【eraser】で……最初で最後、そして最高の、本当の意味での俺の教え子。
君と出会えた幸運を、人生で一番感謝している、と。
……ああ。
自分はいつでもそうだ。
言うべき時に言うべき言葉を言わず、悔やんでばかりいる。
男は熱くなる目頭を耐える。
「そもそも最初から……そうだ。俺が彼女に、たった一言を言わなかったばかりに、こんなとんでもない事態にまで……」
あの時だって、別に言葉を惜しんでいたつもりはなかった。
言わなくてもわかっているだろうと、どこかで慢心してもいた。
照れくさくもあったし、何の力もない今の自分が、安易な約束はできないと自制……いや。
有体に言えば、ビビっていた。
何故言わなかった?
たった一言ではないか。
『君が好きだ』と。
そしてこう続ければ良かった。
お互いが大学生になったら、周りが何と言おうと結婚しよう。絶対苦労をかけないとまでは言えないけど、絶対一緒に幸せになろう、と。
そう、言っていれば……。
「……英一君?」
男は鋭く振り返る。
男と彼女の高校の制服を着ているのは。
「さ…さっ、ちゃん……」
在りし日の彼女を、男は常にそう呼んでいた。
きちんと整えられた三つ編みのおさげ、プレスされた制服。
曇りなく磨かれた黒いローファーに、銀縁の眼鏡も常に輝いていた。
閉鎖的な田舎だ、遊びまわる母のせいで悪く言われる彼女は、必要以上に身だしなみに気を遣っていた……。
「さっちゃん……か。懐かしい名前。もっとも私は幸恵じゃなくて、エチサなんだけど?」
そううそぶく彼女があまりにも痛々しく、目をそむけそうになるが耐える。
「幸恵でもエチサでも……君は、君だ」
ようやく男は思い至った。
「幸恵もエチサも君なんだ。いくらたくさんのペルソナを重ねても、俺は俺から逃げられなかったし……どの俺も、結局は俺だった」
どう解釈していいのかわからない、という顔の彼女へ、男はやわらかく笑む。
「今更だけど言う。今まで言わずに後悔ばかりしてきたからな。それに俺はもうすぐ死ぬ。ひょっとするともうすでに死んでいるのかもしれないし、生きていても明日には死ぬ。差はどうせその程度だ、恥をかいてもかき捨てというものだな」
男は姿勢を正し、まっすぐ彼女の目を見て言う。
「君が好きだ」
「素のエチサ? 変なことを言うのね」
あどけなさの残る少女の顔に似合わない、他人を小馬鹿にした表情。
どことなくちぐはぐな印象がある。
「そうですね。でもそんな印象を持ちました……先輩」
「だから。私はあなたの先輩なんかじゃないの、【eraser】・エン」
やや苛立ったように彼女は言った。
「攻略対象者である【eraser】候補者の好みを研究し、シナリオに沿って攻略しただけの乙女ゲームのプレイヤー。あなたにもわかるように説明してあげると、そういう感じなの」
彼女は嫌な笑みを浮かべ、意地悪くそんなことを言う。
「ちなみに。あなたの大体の好みを分析し終わったのは、あなたが中学生になってしばらくした頃。安住ユキエは攻略対象者にぶつける最有力の私のアバターだったけど、この頃からあなたの好みに合うよう、彼女のパラメーターを丁寧に微調整したのよ。……どう? 気に入っていただけた?」
「そうですね、まんまと攻略されました」
苦笑い含みにマドカは諾う。
「腹は立ちますけど。俺が一番惚れたあなたの魅力は、結局、あなたが苦労して整えた細かいパラメーター以外の部分みたいな気がしますから。もう……、いいかなって」。
怪訝そうに眉を寄せる彼女へ、マドカはまっすぐ見つめて言う。
「さっちゃん先輩。あなたはきれいです。容姿だけじゃなく、存在そのものが。見てると切なくなるくらい真っ直ぐなあなたが、俺は好きです」