7 やがてキュウになる⑨
「あらそうなの? たとえそうでも、正面で対峙する私に気取られず、後ろへまわって身体を傷付けたのは大したものだと思うわよ、【eraser】・スイ。……でもね」
言いつつ、エチサは薄笑いを浮かべる。
「私は痛みに強いの。肉を切らせて骨を断つ戦法は、得意でもあるのよ!」
叫びと共に彼女は角錐の槍を強引に肩から引き抜き、向き直る。向き直ると同時に彼女は一歩、スイの側へ踏み込んで袈裟懸けに切りつけた。
とっさに大鎌の柄を打ってある程度は弾き返したものの、それでも刃先はスイのシャツを裂く。
襟元の漆黒の蝶ネクタイも飛ばされてしまった。
シャツの下の皮膚が、薄くだが、切れた。
真白の地にじわりと血がにじむ。
「やってくれるな」
小さく舌打ちをすると、スイは、槍を持っていない左手で軽く傷を押さえた。
生温かい血が手を濡らし、傷自体が心臓であるかのように、ずきずき脈打っている。
「生身は不便ね。止血しなくて大丈夫?」
わざとらしいエチサの気遣いの言葉に、
「ほっとけ」
とスイは返す。
ひどい傷とまではいえないが、脈打つ痛みは鬱陶しい。
(……人間の器を、完全に諦めるか)
左手首にある布のブレスレットをチラッと一瞥する。その瞬間、てのひらをうっすらと染める血の赤が、スイの網膜を刺激した。
(……あ)
フラッシュバックする古い記憶。
「……角野君!」
鋭い声とはたかれる右手の痛みに、英一は我に返る。
固いものが床に落ちる、乾いた音が虚しく響く。
左手首を濡らす赤い血。脈打つ痛みが、一瞬遅れて知覚される。
やたら美人の『管理人』が無言で彼の手首をつかみ、止血するのを、ただされるがまま茫然と彼は見ている。
「君は死にたいのか?」
一通りの処置が終わり、リビングに落ち着いた頃。
感情を感じさせない無機質な目で、彼女は、コーヒーに砂糖はいるかいらないか問うような感じで問う。
「わかりません」
彼はそう答えた。
本当にわからないのだ。でも。
「強いて言うのなら。生きていたくない、のかもしれません。生きていたい、と思うほどの何かが、今の自分は見えません」
「どうすれば、君は生きていたくなる?」
「……わかりません」
自分がぼんやりしていたばかりに。
言うべき時に言うべき言葉を伝えていなかったばかりに。
さっちゃん……幸恵は死んでしまった。
そんなつもりは毛頭なかったが、間接的に彼女を殺してしまったのは、俺。
英一の頭にこびりつく思いは、この不思議な家で目を覚ました時から変わらない。
こんなにも愚かで罪深い自分が生きていていいのかという思いと、もはや自分が生きている意味などないという虚しさ。そして。
前髪を強くつかんで少なくない量を引き抜き、彼は言う。
「そもそも俺、生きているんでしょうか? ……管理人さん」
「うふふ」
エチサは会心の笑みを浮かべる。
「思ったよりも早く『【eraser】・スイ』のペルソナが顔からずり落ちたようねえ、英一君」
彼女はおもむろに大鎌を構える。
「……さよなら」
「先生ー!!」
つる草の茎を握りしめ、マドカは叫ぶ。
「『彼を守れ』!!」
浄化の力を送る鍵となる言葉を彼は叫ぶが、これ以上力は送れない!
「くそお!」
「……さよなら」
遠くて聞こえないはずのエチサの声が、何故かマドカの耳が拾う。彼女はおもむろに大鎌を構え……。
「先生、目を覚ませ! ……駄目だー!」
『【eraser】・エン! 身を乗り出しすぎると……』
範を超える!
声にならない【管理者・ゼロ】の声がマドカの脳に響くが。
マドカは身を乗り出す。
保護の籠であり、監禁の檻でもあるつる草の茎の戒めを破り、マドカは、加速度を付けて茜のにじむ薄闇の底へと落ちて行った。
『【eraser】・エーン!』
【管理者・ゼロ】の、いつになく焦りのにじむ絶叫が、薄闇の世界にこだました。