7 やがてキュウになる⑧
「エチサ。出てこい」
茜色がにじむ、薄闇の底。
静かに降り立ったスイは、静かな声で呼びかける。
足元には相棒の生み出す清浄な防御の円陣、身体に纏うのは『人間』の器を半分諦めたことで生み出せる、形を変えた【eraser】の浄化の力。
「……呼んだかしら? こんなところまでわざわざお越し下さって主としてお礼を言うべきかしらねぇ、英一君。ああ、今のあなたは【eraser】・スイと呼ばれたいかな?」
声とともに白っぽい人影が現れた。
白の、寝間着にも見える簡素なワンピースを身に着けた少女。
色白で華奢な体躯、長い黒髪を無造作に垂らした彼女は、さながら等身大の小作りな人形を思わせる。
スイは思わず、瞬間的に息を呑んだ。
最後に会った日の彼女、そのままの姿だったからだ。
息をととのえ、彼は言う。
「……そうだな。こちらもお前を【Darkness】と呼ぼうか?」
「お好きなように。どんな名前で呼ばれても私の本質は変わらない……あなたと違って」
無表情だった少女の顔が、凶悪に歪む。
「私の人格はひとつ。私はエチサ! 望みはひとつ。 世界の破滅のみ!」
「お前の思うようにはさせない。残念だな」
スイの身体から、身に纏った炎が揺らめき立つ。
両手に握られているのは、炎をまとった角錐の槍。
ふふふ、とエチサは嗤う。
「元の顔がわからなくなるくらい多くのペルソナを重ね、自分を偽って形ばかりを整えているお前のような者に……、私を滅ぼす力などない!」
叫ぶ彼女の手に握られているのは、影を集めて固め、研ぎ澄ましたような黒い刃の大鎌。
「まずはひとつずつ、その欺瞞に満ちた顔をはぎ取ってあげましょう。剥き出しになったあなたが今と同じことを言えたなら。さすがに少しは認めてあげる」
「ペルソナを重ねてきたことは認める」
スイはいやに静かな声で答えた。
「ペルソナなしでは立てない軟弱者であることもな。それでも残念ながら、お前を浄化するという最終目的だけは。剥き出しの俺であっても、変わらないんだよ!」
「御託はもういい」
エチサは冷ややかに言うと、一度大きく、大鎌を振るった。
「ここは私のホームだから、お客様にはアドバンテージをあげる。かかってきなさい、張りぼての【eraser】!」
「では遠慮なく!」
言葉と同時にスイは、炎を纏う角錐の槍をひとつ、投げた。当然のようにエチサは大鎌でそれを振り払う。
もう片方の角錐の槍で振り切った大鎌を弾くが、当然エチサもそこは計算している。
湾曲した刃先で角錐の槍をからめるようにし、衝撃を逃がす。
「はあ!」
スイが発した気合と同時に角錐に纏わりついている浄化の炎が、絡まっている大鎌の刃先へ移る。
エチサは飛び退り、大鎌を振って浄化の炎を消す。
「アドバンテージはおしまい。そろそろ本気で行くから」
エチサは言い、ニヤリと口角を上げると上目遣いでスイを見る。
「まずは『角野先生』のペルソナを外しましょうか」
言うや否や彼女は、すさまじい速さでスイの後ろへまわり、瞬く間に彼のタキシードのジャケットを、大鎌の刃先で大きく裂いた。
「くそ! 何しやがる!」
彼の口をついて出る悪態に、エチサはにんまりした。
「うふふ。高校のクラブハウスで会った、【eraser】・スイの口調になったわね。良識ある学校の先生は、そんな喋り方しないものねえ」
「大きなお世話だ」
スイは吐き捨てると、背中が大きく裂けたジャケットを脱ぎ捨てた。
「油断したら服を破られ、脱いでゆくのか? 新手の野球拳かよ、お嬢さん。ヤロー脱がして何が楽しい?」
「楽しいわよ~。その強気の外面がいつまで続くか見物ねえ」
言葉通り楽し気に彼女は言うと、再び大鎌を振りかざす。
むろん、同じ手にかかるスイではない。
刃を躱しながら、炎を纏った正四面体の礫を相手に投げつける。
エチサは当然避ける。
逃げた位置に、スイは針状の数多の円錐を降らせるが、ギリギリで彼女は躱した。
「チョロチョロ鬱陶しいんだよ!」
叫び、彼は角錐の槍を振りかざすと同時に、再び彼女の全身へ、幾百の針状の円錐を向ける。
「甘い!」
彼女の叫びと同時に円錐の群れは、揺らぐ闇の空気に呑まれて消えた。
一瞬後、闇に呑まれた円錐は茜を含んだ薄墨に染まり、頂点すべてをスイへ向け、降り注ぐ!
『彼を守れ!』
声が響き、スイの頭上に防御の円陣が展開。
薄墨の円錐は防御陣に吸い込まれ、音もなく消えてしまった。
「あら憎たらしい。あの可愛いかった彼を、あなたはすっかり手なずけたのね」
エチサは唇をとがらせ、わざとらしく拗ねてみせた後、ニヤリとする。
「まあいいわ。彼の正気くらい、いつでも奪えるんだから。せいぜい仲良くなさい」
「彼は今、【管理者】の保護下だ。簡単にお前の思うようにはならんよ。それに……」
スイは角錐の槍を鋭く繰り出し、エチサの大鎌を何度も打つ。
「お前の相手は目の前にいるだろうが。よそ見するとは余裕だな!」
エチサは飛び退り、嗤う。
「やーね。英一君たら焼きもち? 嫉妬深い男は嫌われちゃうわよ~」
しかし、エチサの余裕もそこで終わった。
いつの間にか後ろへまわっていたスイに、左肩を浄化の槍で貫かれていたのだ。
「ぐ……やるわね。伊達に長く実戦を重ねてないみたい。今のはちょっと、わからなかった」
「お褒めに与り恐縮ですが」
ギリギリと音を立て、さらに深く彼女の肩に白銀の槍を埋めながら、スイは言う。
「心臓ねらって外しちまったからな、焼きが回ったと嗤ってもいいんだぜ、お嬢さん」