1 中心は、0(ゼロ)④
「……あ」
ポケットの中に入っていたのは、きれいに四つに折りたたんだ印刷物。
今朝方『理数同好会』の憧れの先輩から渡された、『魔法陣』の問題が刷られたA4の紙だった。
バグ騒動のせいですっかり忘れていた。
「……『そこは、0じゃ』、か」
魔法陣の中心部の空欄を見ながら、マドカは呟いた。
(あれって絶対、『花散らしの凛!』外伝、『バイオレンス・リリィズ』のエピソードだよな)
少女漫画でありながら、少年漫画のような身体を張った共闘や対立、同性同士の厚い友情を描いて根強いファンの多い作品『花散らしの凛!』。
マドカの母の愛読書のひとつだ。
東京を中心に、公立私立関わらず中学校という中学校を裏から支配している、選りすぐりの(不良)少女たちの組織『花園』。
そのトップである冬薔薇の君(通称・クイーン)のお気に入りで№2の地位にいる凛が、女王や組織からの独立・自立を目指し、知力体力を尽くして戦うというストーリーで……もう三十年以上は昔の作品だ。
古いながらも有名な作品だが、その外伝の、魔法陣をめぐるエピソードまで知っている高校生など、イマドキまずいない。
よほどの蜜蜂(『花散らしの凛!』オタクの通称)か広く深い漫画好きか……特殊な背景持ちか、でもなければ。
マドカは、どちらかというなら特殊な背景持ち、だろう。
彼の両親はそろって漫画好きで、一階にある一番大きな部屋(マンガ部屋、と彼の家では呼んでいる)に、互いが結婚前から愛読してきたコミックスが山のようにある。
丁寧に扱うこと、という約束はあるものの、そこにあるコミックスはどれを読んでもいいと、マドカは字を読めるようになって以来、許されている。
宿題や必要な勉強を済ませた後、マドカは毎日のようにそこで、オタクの両親が厳選した古い名作マンガを読みふけり、小中学生時代を過ごしてきた。
バグにおびえ、意識と無意識のはざまで息をひそめるように暮らすマドカは当然、ストレスがたまる。
現実が苦しい彼は、身近にあるフィクションの世界へ逃げた。
両親の血なのか、漫画は彼にとって馴染みやすい世界でもあった。
単純に言うと面白い。
マンガ部屋のコミックスを隅から隅まで読みつくした後、彼は、自分でも面白い漫画を探しては借りたり買ったりして読むのが趣味になった。
それは別にいい。
漫画好きの子供など、掃いて捨てるほどいるものだ。
良くも悪くもマドカは、毎夏コミケに行くほど気合の入ったオタクではない。
友人に推し漫画の『布教』をし過ぎてウザがられないよう、気を付けてもいる。
この程度の趣味なら『突出』とまでいかないだろう。
だが。
(ひょっとして……)
不吉な予想が脳裏をよぎり、ザッと音を立てて血の気が引く。
このところ――少なくとも中学生になった頃くらいから――、『バグ』は起こらなくなっていた。
もう起こらないのかもしれないと、期待が半分以上ながら思っていた。
『突出』を避ける生き癖は身に染みついていたものの、緊張感というか臨戦態勢というか、そんな感覚は鈍っていた。
あの先輩に強く惹かれたこと、意外にも彼女が『九条マドカ』という人間の存在を覚えてくれていて有頂天になったこと、その先輩が『花散らしの凛!』などという古い漫画の、外伝のエピソードまで網羅しているらしい、ということ。
一つ一つは小さいが、短い期間に三つも発生したマドカにとっての『突出』が、今回の強烈な『バグ』を引き起こしたのではないだろうか?
経験から類推される予想が閃き、マドカは慄く。
手に持ったプリントを思わずぐしゃりと握りつぶし、ゴミ箱へ叩きこもうとして……止めた。
『バグ』はすでに発生した。
おそらく、今回のバグはこれで終わりだろう。
このプリントもそうだが、プリントを渡してくれた先輩に罪などまったくない。
それに、せっかく手渡しされたプリントをこのまま捨てるのも、考えてみれば失礼な話だ。
マドカはプリントに入ったしわを丁寧に伸ばすと、机の上へ置いた。
少しわななく右手で彼は、ゆっくり、空欄に答えを埋めていった。