7 やがてキュウになる⑦
「もう少しで【Darkness】のいる座標……だな」
手首のブレスレットの数値を確認しつつ、スイが言う。
安住燿子を退け、二人はさらに降りてゆく。
辺りの薄闇が一段、深くなり、遥か先の斜め下方は茜色に染まっている。
そして何故か、息苦しくなってきた。
「息苦しさや不安感、理由のない焦燥。【dark】が濃くなってくれば、どうしてもそういう影響を受ける。【dark】は【eraser】自身も持っているからな、ある程度の共鳴は仕方がない」
そう言うスイの額に、薄く汗が浮いていることにマドカは気付いた。
【dark】からの圧は、【Darkness】――エチサ――と関係の深いスイの方が強く感じているのかもしれない。
マドカは浄化の力を少し増やす。
しかし、息苦しさは変わらない。
「九条君、あまり無理するな。能力の息切れが心配だ」
「はい……」
ゆっくりと、さらに降下。
マドカは、のどを塞ぐような異様な息苦しさにあえぐ。呼吸が浅く、せわしなくなってきて……。
「……九条君?」
スイが怪訝そうに呼びかける声が遠くから聞こえてきた、ような気がした。
「マ~ドカちゃ~ん!」
記憶の中の、嫌な声の合唱。思わず彼は呼吸を止める。
「間違いは正しましょうねえ~」
拘束され、動けない身体。股間に当たる、ひんやりとしたはさみの刃。
ショッキ、という、あまりにも軽やかな音。
一瞬後に来た、冷たさにも似た激痛!
「あ、ああ、あああ、ぐあああああ!!」
意味をなさない叫びがのどを突き破る。
身体がすさまじい勢いでのけぞり、拘束を振り払う。
……すさまじい息苦しさ。圧迫感。
身体が引き裂かれる痛み。内臓へダイレクトに伝わる強烈な異物感。
のたうちまわりたいのに動くこともできない。
目の前が、真っ赤に染まる!
「……ねえ、九条君」
恐慌状態のマドカの耳へ、優し気な声がすんなりと入ってきた。
マドカがよく知る『さっちゃん先輩』の声だ。
「無理矢理『女』にされた気分は、どう?」
昏い赤一色に染まる視界。
楽し気にはさみを開閉する、ショキショキという音がかすかに聞こえてくる。
「私もそうだった。ひたすら痛くて苦しくて。憎らしくて腹立たしくて情けなくて。連れ込まれたあいつの部屋、離れの窓の赤い西日を、それでも私はただただ、じっと見ているしかなかったんだよ。誰も……助けになんか来てくれなかったから……」
「あああ、あああああ!」
「九条君!……九条君!!」
強い声と共に、脳を揺らすような衝撃。
マドカはハッと我に返る。額に埋め込まれた、細めの角錐の端が見えた。
汗が浮いたスイの顔が、思いがけないほど近くにあった。
「良かった、正気を取り戻せたか。君、かなりきつい精神攻撃を食らったみたいだな」
ホッとしたようにそう言うスイを、マドカはぼんやり見上げた後、のろのろと額の汗を指でぬぐった。
ぬぐうと同時に、角錐は静かに消えていく。
「は、い……。気が、狂いそう……でした」
「あいつ、か?」
問う相棒へ、マドカはどうしても震えてしまいながらうなずく。
「その……彼女の……を。疑似体験、させられた、ようです。狂って……当然ですよ、あんなの」
がくがくと震えながら、マドカは言葉を絞り出す。
「あんな……あんな……」
スイはしばらく黙って、震えの止まらないマドカの背中を撫ぜた。
「……大丈夫。大丈夫だ、九条君。君は彼女じゃない」
強い意味を込め、彼はマドカに言い聞かせる。
「共感はいい。でも、君は彼女じゃない。絶対に自分を明け渡すな! 君は君だ、君が君だからこそ、最終的に俺や彼女を、君は救える!」
「俺が、俺だからこそ……」
茫然と呟くマドカへ、スイはしっかりとうなずいてみせる。
「そうだ。少なくともこの領域まで、我々はほぼ無傷で来られた。そんなことなど、【eraser】・スイだけでは不可能だったと痛感している」
スイは妙に透き通った笑みを浮かべる。
「君はここで待機しながら補佐してくれ。対象の視認が可能な限り、君は能力を操れるだろう? これ以上の降下は危険だ。……管理人。そろそろ、彼の保護を願う」
『……承知した』
いつも以上に冷ややかな声が、思いがけないくらい近くで答えた。
その瞬間、マドカの左手首のブレスレットからいきなりつる草が伸び始め、瞬く間にゆるくマドカの全身を包み込んだ。
「【eraser】・エン」
驚いているマドカへ、スイは真面目にこう言った。
「そのつる草の籠は、君という人間の器を守る最後の砦になる。その中から可能な限り、自身と俺の浄化の円陣を保ってくれ。俺は……」
言いながら彼は、己れの右手首のブレスレットをちぎった。
「今から【Darkness】との一騎打ちに向かう」
赤地にフレア模様の刺繍のブレスレットが、引きちぎられた瞬間、赤い火を噴く。
それを全身にまとわせ、彼は強く空を蹴って素早く降りてゆく。
「先生ー!」
つる草の太い茎を強くつかみ、マドカは降りてゆくスイへ向かって叫ぶ。
彼はちょっとだけこちらを見上げ、不敵に笑んでみせ……軽く片手をあげると、さらに降下する。
昏い赤のにじむ、永遠の夕映えの世界へと。