7 やがてキュウになる⑥
「英一? 英一だね?」
甲高い母親の声に、スイは内心舌打ちする。
泣き声が混じった母の声は、昔から苦手なのだ。
「今までどこ行ってたのよ! あんたが急にいなくなったせいで、ウチはとんでもない目にあったのよ! この、親不孝者が!」
叫びと同時に鋭い平手打ちが飛んできた。
さすがにスイは驚く。
そもそも母は、スイより頭ひとつ分は背が低い。普通なら、お互いが立った状態でスイの頬に垂直にしっかり平手打ちなど、母に出来る訳がないのだ。
だが物理の支配を受けないここでは関係ないのだなと、彼はある意味、感心した。
(しかし。いくら瞬間的とはいえ、【dark】が防御の陣の中にいる【eraser】に手を出せるのか? こちら側からならまだしも)
足元を見て納得。
防御の陣がかなり弱まっている。相棒の様子をちらりと確認すると、よろめいて額を抱えている少年の姿が見えた。彼は再び、内心舌打ちする。
【dark】がマドカに、心を揺らす幻を見せているのだろう。
身構えていても今回が初陣の彼だ、【dark】の本気の精神攻撃はかなりきついだろう。
「ちょっと! 何をよそ見しているの! ちゃんとお母さんの目を見なさい!」
ヒステリックに叫ぶ母……否。
母のごときものへ、スイは静かに目を向ける。
「ホントに、あんたと目を合わせていいのか?」
低い声でそう言い、スイは視線を鋭く尖らせた。
母のごときものが一瞬、ひるんだように一、二歩、後退った。
「うまく化けてるなァ。まあ、基本はウチのかあさんから発生した【dark】から組み立てたんだろうから、いい線いってるのは当然か」
「何、を……言って」
「さすがに自分の母親かどうかくらいは、数十年経ってもわかるもんなんだなァ。あの人は……」
ふっ、と、スイはやるせなさそうに笑んだ。
「怒り狂って、ヒトに手をあげるタイプじゃない。それくらい心が追い詰められた場合、発作的に自分で自分を傷付けるタイプなんだよ」
円陣の浄化の力が急に強くなった。
彼が持ち直したらしい。
少しホッとし、スイは右手に光の角錐の槍を作り上げる。
「まったく。俺は嫌なところばかり、あの人によく似ていやがる。怒り狂ったあの人が、泣きながら壁に額をぶっつけてたことを思い出すよ……昨日のことのように、な」
言葉の終わりに、彼は角錐を投げる。
母のごときものは、跡形もなく消え失せた。
周りにいた女たちが悲鳴を上げる。
「あんた」
ずい、と前に出てきた女は、黒の留め袖がすっきりと身についた、堂々たる『奥様』だ。
安住本家の嫁・安住燿子。
清哉の母親である。
「かなんわぁ。あんた、自分のお母ちゃんになんてことするのん?」
かなり傍系とはいえ、公家の流れをくむ家の娘だという触れ込みの彼女は、結婚後も西の地方の訛りを保持し続けていた。
家政の取り回しもそつのない、土地や家のしきたりに関しても従順だった『褒められ嫁』の彼女。
だが、別に望んでこちらへ来たのではないらしい。
半ば仕方なく東夷の土地へ嫁いできた彼女の、最後の意地や誇りがこの「京訛り」だったのかもしれない。
「『お母ちゃん』じゃないからですよ、燿子おばさん」
言いながら、スイは目をすがめる。
(……今回の中ボスの『本体』は彼女か)
「そういえば。ちょっと前に清哉に会いましたよ、おばさん。非の打ちどころのない『褒められ嫁』のあなたが、なんでまた清哉のようなドラ息子を産んだんです? そこは……いろんな意味で、昔から不思議でしたよ」
ふふっ、と彼女は意味ありげに笑う。
「そう? あの子は阿呆やけど可愛い子ォやで? 父親そっくりやし」
「そうですか?」
「そうやでぇ。短気で浅はかで、絶対に自分の非を認めへん。ほんま……そっくりや」
にやりと口角を上げる彼女の周りが、不穏にゆらぐ。
「あの子が産まれるまで五年。私は、石女やと舅姑、あの人にののしられ続けたもんや。不妊の原因は、別に女の方にあるとは限らへんのになァ。検査してくれって一回頼んだこともあるんやで? ほしたら、どえらい勢いで怒鳴られたワ。女の方に原因があるに決まってるってなァ」
彼女の顔が徐々に般若の顔になってゆく。
「その時、私、思たん。こんな家、滅びたらエエんやってな!」
ぶわり、と音を立てるような感じで、彼女の周囲が激しくゆらぐ。いつの間にか、彼女の周りにいた親戚の女たちの姿は消えていた。
「女やから。女のくせに。女の分際で。おんなおんなおんな! 何かっちゅうたら『女』を見下す! そう言う己れも女の胎から生まれたくせに! そんなに女を見下すんやったら、女にしか出来へんやり方で復讐したるって思たん。ほんで……最低の男の種、宿したったワ」
クツクツと嗤う彼女は、すでに正気ではない。
「滅びろ! 滅びろ滅びろ安住の家なんか!」
(……ああ)
エチサと燿子が共鳴したのがよくわかった。
立場こそ違うが、二人の恨みは底でつながっている。
「燿子おばさん」
「あんたもそうや! 男なんか、みんな敵や!」
「もう……楽になって下さい」
スイの身体から陽炎に似たものが激しく揺らめき立つ。
陽炎は幾百の、針のように細い白銀の円錐に変わり、一斉に燿子の頭上から降り注いだ。
「そんなん、効かへん!」
勝ち誇ったように叫ぶ燿子の声。彼女の周りにある、闇に似た昏い空気が揺らぎ、ことごとく針を打ち消す。
「……ぐっ」
だが気付くと彼女の胸に、いつの間にか深々と角錐の槍が刺さっていた。
「若造が、小賢しい……」
彼女は膝を折り、憎々し気にスイを見上げる。
が、一瞬後にふっ、と彼女は姿を消してしまった。
「先生、あぶない!」
マドカの声に、スイはハッとする。
複数の闇の礫が速度を上げ、スイに向かって降り注ぐ!
「彼を守れ!」
マドカの絶叫が虚空を貫く。スイの頭上に密度の濃い円陣が展開。
礫はすべて、音もなく消えた。
「……はああ。なんとか、間に、あった……」
肩で息をしながらつぶやく相棒へ、スイはやわらかくほほ笑む。
「ありがとう。君のおかげで助かった」
マドカは少し照れくさそうにニヤッとし、サムズアップしてみせた。