7 やがてキュウになる⑤
降下。降下……。
(……寒い)
座標を示す数字が四桁になり始めた頃。
マドカは無意識のうちに腕をさすっていた。
冬服を着てきた方が良かったかと、ちょっと思う。
「九条君、ここは必ずしも寒い訳じゃない。感覚を、周りにいる【dark】に騙されている可能性が高いな」
スイが急にそう呟く。
「そろそろ、隠形がかえって足枷になってきたかもしれない。解いてくれ」
「わかりました」
マドカは自分の周囲に漂う【dark】の粒子を、円陣を一瞬だけ広げることで浄化した。
(あ、ホントだ。セイヤに会う前くらいと、気温的には変わらないかも?)
少なくとも、腕をさすらずにはいられないくらい寒くはない。
「んん?」
ポツ、ポツ、ポツ、と。
斜め下辺りに何かが見える。
「おいでなすったようだな。それに複数の中ボスか、ちょっとばかり厄介そうだ。……九条君」
スイはマドカの目を見て言う。
「アレは多分、俺が知ってる親戚のおばちゃんたち……と、おふくろだ」
スイの顔にはこれという変化はなかったが、困惑まじりの声音ではあった。
「彼女たち全員が全員、完全にエチサの下僕になったとは思えんが。彼女たちが人知れず呑み込んできた恨みや不満を、エチサは上手くくすぐって味方につけたのだろう」
そこで彼は軽くため息を吐いた。
「意外だったのは、俺のおふくろが混ざっているところだな。あの人は元々、安住の親戚とさほど仲が良くなかった。親父と結婚して以来、親戚の連中からそれとなく距離を置かれ始めたのをきっかけに、旧弊な連中にうんざりしていたからね。……それでも」
スイの目の色が冷たくなる。
「あの町から離れられない……物理的にはともかく精神的に。あの人の限界は、他の親戚の女たちとほぼ同じだったらしいな。ぼんやりそう思っていたけど、どうやら本当にそうだったらしい」
やるせなさそうに、彼は薄く笑む。
「今の俺は、『角野英一』というよりも『【eraser】・スイ』だ。感傷は排除して一気に片を付ける。援護を頼む、【eraser】・エン」
「……了解です」
自分に言い聞かせるようにそう言っているスイの様子が気になったが、あえて何も言わず、マドカは彼を送り出すことにした。
「君も気を付けろ。すでに、君の心を揺らせることくらい出来そうな、中級レベルの敵が湧くエリアまで、我々は来ている」
「はい、気を付けます。……お気を付けて、【eraser】・スイ」
「おう」
ニヤ、と不敵な感じに笑み、スイは空を蹴った。
「マ~ドカちゃ~ん」
唐突に聞こえてくる、嘲笑まじりの幼い声。
思わずぎくりと、マドカは身を揺らす。
目の前にいるのは、小学生時代にしつこく絡んできた連中だ。
皆、濡れた水着を身に着けている。
(これは、水泳の時間の後の……!)
嫌な思い出がまざまざとよみがえる。
「あっれ~? マドカちゃんは女の子なのに、どうして男子の更衣室にい・る・の・か・な~?」
イジリをするグループのリーダー格の少年――薮内、といった――が、絡んできた。
「俺は男子だ!」
言い返したマドカの声も、甲高い幼い少年のものになっていて、一瞬怯む。
「え~? うっそだ~」
にやにやと、幼いながらも醜悪な、弄るような顔でそう言うと薮内は、周りに合図をする。
「かっくに~ん!」
複数の声がそう言うと、マドカの腕や身体を拘束し、無理矢理水着をずり下げた。
「やめろー!!」
羞恥と屈辱に、半泣きになってマドカは叫ぶ。
「あ、ちんこ生えてる!」
誰かの声が響き、ぎゃはぎゃはと下品な声で笑い合う連中。
「おっかしいなあ、女の子なのにちんこ生えてるなんて」
薮内はいつの間にか、右手にはさみを持っていた。
「間違いは正しましょうねえ~」
当時の担任の口癖を真似ながら、薮内は近付いてきて……。
「来るな、このボケがー!!」
叫び、マドカは目いっぱいの力で円陣に浄化の力を注いだ。
薮内たちの幻は音もなく消えた。
(……くそ!)
マドカは一瞬よろめき、額に浮いた冷たい汗をぬぐった。
動悸が激しい。
忘れたはずの思い出が、ここまで今の自分を追い詰めるとは思わなかった。
あの時。
配下の少年たちにマドカを拘束させ、ニヤニヤしながら薮内は、はさみを股間に近付けた。
さすがに本気で切る気はなかっただろうが、冷たい刃先が股間に当たった瞬間の恐怖と絶望は、筆舌に尽くせるものではない。
ちょうどチャイムが鳴ったのもあり、『イジリ』はそこで終わった。
終わったが……マドカにその先の記憶は曖昧だ。
あわてて服を身に着けた記憶だけはぼんやりあるが、その後、家で熱を出してうなされているまでの記憶が曖昧なのだ。
一週間から十日ほど、寝込んだ覚えがある。
『バグ』関連以外で数日以上寝込んだ、唯一の事例だ。
ただ、薮内の『イジリ』はマドカだけが対象ではなかった。
他にも大人しい女の子が2~3人『イジリ』の対象だったが、そのうちの1人がたまたま、薮内の父親が勤める会社の取引先の、偉いさんの娘だったことが判明し……問題が大きくなった。
どうなったのか詳しいことは知らないが、マドカが熱に浮かされている間に、薮内は転校していった。
薮内の取り巻きだった少年たちも密かにみっちり叱られたらしく、マドカが再び登校できるようになった頃には、すっかり大人しくなっていた。
『イジリ(イジメ)』に合うことはそれ以来なくなったが、中学校に入学してしばらく経つまで、マドカはポケットにカッターナイフを潜めていた。
少し離れた位置で、女たちの甲高い泣き声が響いている。
マドカはハッと我に返った。
いけない!
スイの円陣の、防御力が弱まってしまっている!
「彼を守れ!」
声を出してマドカは、スイへ分けた円陣へ改めて力を注ぎ直した。