7 やがてキュウになる③
軽い眩暈の後、芝生の庭にいた。
そこでマドカはかけていた眼鏡を外し、半袖カッターシャツの胸ポケットへ入れた。
眼鏡を外しただけで、格段に気分が軽くなる。
「おはよう。いつもながら早いな」
扉が開き、スイの声がした。
スイの声、がした。
「……え? 誰?」
「誰って。君の相棒の顔を、たった一晩で忘れるなよ」
声の主である青年はおかしそうにそう言う。
声は確かにスイなのだが……。
「いえ忘れた訳では。でも……すごい、盛装ですね先生。一瞬、マジで誰だかわかりませんでしたよ」
『誰だかわからない青年』はスイだった。
ほぼ黒かと思うほどの、濃紺のタキシードは重厚な輝きを放っている。
共布であろう濃紺のカマーバンド、ウイングカラーの真白のシャツに漆黒の蝶ネクタイ。
胸元にちらっと覗く、真白のポケットチーフが粋だ。
ここ最近うっすらと無精髭だったことが多い彼だが、その髭もきれいにきちんと剃られ、中途半端に伸びていた髪も、おそらくは美容院で軽く整えられた後、トップ部分はニュアンスを加えながらジェルで立たせている。
また、オーダーメイドで作られたぴったりと身に沿う盛装の上に、やや青白いやつれ気味の顔があるのは、退廃的なというか病的なというか、不思議な色気があった。
マドカは、今まで彼がやってきた『潜入』の経験をいくつか、世間話みたいに聞いている。
その中で、21~22歳の頃、半年ほどホストとして潜入した経験があると聞かされた時は、『先生がホスト? 似合わね~』と笑ってしまったが、結構イケるかもしれないと思い直した。
「あの。ひょっとして。これからアカデミー賞の授賞式に出るんですか?」
半分本気でそう問うマドカの言葉に、スイはハハハと軽く笑う。
「まあ、そんなようなものかもな。レッドカーペットじゃなくてブラックカーペットだが」
「……それ、笑えませんて」
「これはまあ、戦闘服だよ。ネイティブアメリカンの戦士が、戦いの前に特別な装いや化粧をしたのと同じだね」
彼はふと頬を引く。
「君だって。わざわざ制服を着てるじゃない。それは今のところ、君にとっての戦闘服だろう?」
これはたまたま……と言いかけ、口ごもる。
そうかもしれない、と思ったのだ。
「早くから気合十分だな、諸君」
キョウコさん……否。
【管理者・ゼロ】が来た。
「では。少々早いがさっそく始めよう」
彼女がそう言った途端、【home】の空気感が変わった。
気付くと、彼女の姿は消えていた。
『管理者を原点にXYZ軸を設定』
最近ようやく聞きなれてきた、戦闘エリア設定のための【設定起動】の台詞。
淡々とした彼女の声が、闘いを待つ彼ら【eraser】の頭へ響いてくる。
『原点からマイナス7000までの座標エリアを記録体へ【drag】。仮置き。
只今よりここを、戦場エリアに設定する』
「……そろそろ、円陣を敷きます」
マドカが言うと、スイがうなずく。
「円陣を敷いた後、打ち合わせ通り『隠形』に入る」
この場合の『隠形』とは、スイが扱える【dark】を粒子状の正四面体にし、自分たちの周りを覆うことを指す。
その状態で、初めから『異物』としてアチラへ侵入するのではなく、可能な限りこっそりと(【dark】として)、出来るだけ深い位置まで降りてゆく予定である。
『【eraser】は制限を解除。各自戦闘態勢及び防御態勢へ移れ』
「了解、マスター。行ってきますよ。今まで世話になった、ありがとう」
清々しい声音でそう言ったスイの言葉に、淡々としていた彼女の声に一瞬、揺らぐ気配があった。
しかしその時にはもう、【eraser】たちは『隠形』で素早く『負の領域』へ降りていた。
降りてゆく。
降りてゆく。
降りるに従い、体感的に寒く、薄暗くなってくる。
見上げるとはるか上空に光が見える。
あそこが【home】かと、その遠さに心細くなる。
(どこまで降りられるだろう……)
【Darkness】がいるのは、座標(x,y,z)=(-1589,-5908,-3405)と推定されているそうだ。
左手首のブレスレットを、マドカはそっと確認する。ここに座標が表示されるのだ。
まだどの軸も、マイナス三桁のようである。
「くそ、思ったより早いな。……九条君」
スイのささやき声に、マドカは思わず呼吸を止めた。
「一番弱い中ボスのおでましだ、円陣を二つに分けてくれ。俺は隠形を解くが、君は引き続き隠形をキープしててくれ」
「わかりました」
円陣を分けた瞬間、スイは隠形を解く。
薄闇の中、円陣の発する光に照らされたスイのそばへ、人影が近付いてきた。
「……よう。久しぶりだな英一。ずいぶんとまた、めかしこんじゃって。町を逃げ出した後、水商売に手を染めてるらしいって噂があったけどよ、まさかホントだったとはね。安住の親戚一の秀才が、堕ちたもんだね~」
安物くさいアロハシャツに色の褪めたジーンズを身に着けた、ヒョロヒョロした若い男の姿が見える。
(あれは……)
おそらく、安住セイヤ。
スイの目が、絶対零度の冷たさに凍てつく。