6 最終対決へ⑥
「どうぞ」
静かな声。マドカは息をととのえ、ドアを開けた。
ベッドに半身を起こし、ぼんやりと煙草をくゆらしている彼……『角野英一』であり、『【eraser】・スイ』である男。
本人にどこまで自覚があるのかわからないが、『【eraser】・スイ』のペルソナに支えられ、彼はどうにか狂わずに自分で立ち続けてきたのだろう。
(今は多分、『角野英一』の要素が濃いな)
マドカは密かに思う。
彼もまた、人格間の記憶こそつながってはいるが、『解離性同一性障害』に近い状態なのではないかと、マドカはふと思いつく。
そんな人に、これ以上『ペルソナ』を持たせることが本当に正しいのだろうかと、瞬間的にすさまじい迷いが生じた。
……でも。
マドカはあえて、こう言った。
「体調はどうですか? 角野先生。さっそく煙草なんか吸ってて、大丈夫なんですか?」
彼は一瞬、複雑そうな顔で煙を吐いたが、携帯灰皿に短くなった紙巻を入れた。
「ありがとう。落ち着いてきたし、大丈夫だよ」
そしてやや決まり悪そうに彼は、苦く笑んだ。
「さっきは……済まなかったね。俺のわがままで、君につまらない話を延々、聞かせてしまって申し訳ない。嫌な思いをさせてしまった」
「あ、いえ。そこは気にしないで下さい…」
その辺りでまた新しい紙巻に火を点ける彼を、マドカはじっと見る。
体調を悪くしているのにと、非難めいた気分が湧いてくるのは否めない。
マドカの視線に気付き、彼は煙草を軽く持ち上げて言う。
「この煙草は真面目な話、俺にとって薬なんだよ。吸わないとむしろ体調を悪くする。ぶっちゃけると、俺はある種のジャンキーでね」
枕やクッションで作った背もたれに、彼はぐったりともたれかかる。
「【eraser】の能力も、その他の人間の能力と同じく、成長期、最盛期、衰退期がある。俺は、常に『最盛期』であり続けられるよう、ずいぶん前に管理人に頼んだんだ。いつも『最盛期』の能力を保っていられれば、いつアチラ……【Darkness】と対峙することになっても、悔いなく闘えるからな。その代わりに身体、特に脳に負担がかかる。負担を抑える薬が、いつも飲んでいた緑茶やこの煙草なんだよ。でも……」
彼は紙巻に口を付け、深く煙を吸った。
「薬で抑え切れる時期も、そろそろ限界だ」
さすがにマドカは言葉を失くす。
彼は自虐的な苦笑いを浮かべた。
「まあそんな訳で。俺は色々な意味で、終わってる人間なんだ。関わらない方がいい類いの人間だとも言える。こんな奴でも唯一の使いどころが、【Darkness】への特攻、だろうな」
ふと、彼は頬を引く。
「九条君。まあ、ある程度は管理人から君も聞いただろうけど。我々……いや。俺は確かに、俺のバディになれるだけの『タイプ・円』の【eraser】を探してきた。でもそれは、必ずしもバディとしてアチラへ行くときの同行者としてじゃない。それだけの能力者がいるとわかれば、心置きなくアチラへ行けるから……だった」
マドカの目を、怖ろしいくらいまっすぐ見つめ、彼は言う。
「単身でアチラへ行くのは自殺行為だが、俺にだって意地がある。刺し違えてでも相手を葬ってくるつもりだ。【Darkness】がひとつ消えれば、この世はずいぶんと風通しが良くなるだろう。だが、【Darkness】は別にエチサだけじゃない。最近で一番とんがっている【Darkness】が、エチサというだけだ」
彼はふと目を伏せ、息をついた。
「……俺はおそらく戻ってこられないだろうし、戻ってこられても虫の息だろう。少なくとも、もはや【eraser】としては使い物にならない状態だ。でも君がいてくれれば……安心して、逝ける」
再び彼は顔を上げ、やけに澄んだ瞳でマドカを見た。
「九条君にとっては非常に迷惑な話だろうけど。俺は今、君が生まれてきてくれてよかったと感謝している。君がいてもいなくても、寿命からいって俺はそろそろ、アチラへ特攻をかける時期なんだ。でも君がいてくれるのといないのとでは、気持ちが全然、違うからね」
「……おい」
怒りを押し殺した、剣呑な響きのある声でマドカは、上目遣いで男を見上げながら呼びかけた。
「なに一人で完結してんだよ、この悲壮イキリおっさん。イキリヒーローなんて、ラノベだけで十分なんだよ!」
それこそハトが豆鉄砲食らったように目を丸くしている男へ、マドカは畳みかける。
「黙って聞いてりゃ好き勝手なことぬかしやがって! あんた、何を一人で背負い込んでるんだよ! キモいんだよ、ナルシストかよ!」
何故かひどく息が切れた。ゼイゼイしながらマドカは言う。
「なんであんた、ひとりでアッチ行くつもりになってんだよ! そんで、アッチ行ったついでにあの世へ行く気になってんだよ! そりゃ……」
視界がにじむ。どうやらマドカは泣いているらしい。
「俺はガキだし。頼りないし。腐ってもあんた、俺の先生、だし。生徒の俺になんか、頼る気になんないのはわかるよ。でもな」
ゼイゼイと肩で息をしながら、マドカは言う。
「せめて、せめて俺の意見を聞いてから決めろよな! そりゃあ俺は、あんたに比べたら子供じみた痛い目にしか合ってないよ? でもな、俺だってエチサに、そこそこ煮え湯を飲まされてんだよっ。大体、ウチの同好会のユキちゃん先輩なんか、生まれてこの方ずーっと、人生を奪われてきてんだぞ! あいつに恨みがあるのは、別にあんただけじゃねえや! やり返すんは無理でも、エチサ側を一瞬あわてさせるくらい、俺にもやらせろ!」
「く…九条君?」
「あんた俺の先生だろ? だったら最後まで、きちんと俺の指導をしろよ! あんたのおかげで、不等式の連立と集合の概念はよーくわかった。指導は下手じゃねえんだからよ、【eraser】の指導もやってくれ! ついでに、あっちから帰ってきたら分母の有理化を解説してくれ!」
「は? 分母の有理化?」
スイはパチパチと瞬きした後、こう言った。
「あー、九条君。いやその。君、ひょっとして分母の有理化わからないの?」
「アレはいつもフィーリングで解いてんだ! 文句あっか!」
「おいおいフィーリングで解くなよ。数学は論理だ」
「うるさいな、これでも中点連結定理を使った証明は得意なんだよ!」
「中点連結定理って……普通はそっちの方が厄介じゃないかな?」
「三平方の定理を使った証明も得意だ! 中学時代はソッチで点を稼いでたんだよ、バカヤロー!」
「バカヤローって。なんで俺がバカヤローって罵られるんだ? でも……、そうか、証明は得意なのか。変わってるな……」
何だかよくわからないうちに、ヘンに真面目に数学ネタのやり取りをしているのを、ほぼ同時に二人は気付いた。
二人同時にうっかり吹き出してしまい、悲壮も怒りも悔しさも、なんだかうやむやに紛れてしまった。