6 最終対決へ③
「ちなみに。私が把握している限り、スイ……角野エイイチの名前表記は、本来こうだ」
そう言いつつ、どこからともなく取り出したメモ帳とボールペンを使い、嫌になるほどきれいな字で彼女はこう書いた。
『角野 英一』
「そして。私が把握している、君の、高校での知り合いの名前は……」
『及川 慧』『東山 大』『佐倉 遼』。
そして……『宇田 珠紀』、『安住 幸恵』。
「皆、漢字表記の名前だったんだよ、本来は。だが十年近く前に大規模な【ゆらぎ】が起き……名前の表記が、一斉に変わった。君の友達の名前が変わったのは、おそらくその頃だろうと思う」
キョウコさんから渡されたメモ帳に並ぶ、見覚えがあるのにない名前たち。
見覚えないのに何故か、懐かしいというかストンと腑に落ちるというか、そんな不思議な感触のある名前たちを、マドカは凝視する。
「……ユキエさんって。サチエさん、とも読むんですよね、この表記だと」
しばらく後に、ポツリと彼はそう言った。
「そうだな。スイ、つまり角野英一のはとこに当たる娘さんの、名前の表記もこうだった。……ユキエ嬢の名付けの段階から、【dark】――彼女は関わっていたのだろうな」
キョウコさんは淡々とした静かな声でそう言ったが、曰く言い難い、ユキエへの気遣いのニュアンスがほの見えた。
「ふふ」
失笑、というのはこういうのかと思いつつ、マドカは笑う。
「ずいぶんと……念入りなことで。ユキエさんの人生を何だと思っているんでしょう? 俺は、確かにずいぶんとコケにされたと思っていましたけど。『ユキちゃん先輩』の人生に比べたら、全然大したことないですね。なんか、ちょっと……人生初くらい、腹が立ってきましたよ、俺」
「それが【dark】というものだ。目的のためなら手段を選ばない。特に彼女――エチサを母体とする【dark】の集団は、心底から世界の破滅を望んでいる。全世界を呪っていると言っても過言ではない」
「世界の、破滅」
マドカも、彼女が舐めてきた壮絶な人生を思えば、それくらい望んでしまうかもしれないとは思う。
(……でも。大人しく、お前の思い通りにさせるか。お前のやっていることは結局、お前自身がやられてきたことと、同じじゃないか!)
もやもやとした、言葉にしにくい怒りや苛立ちが、マドカの胸に湧き上がってくる。
「『安住サチエ』という名の女の子を、若くて有能な【eraser】候補の少年に選ばせることで角野英一の古傷を抉り、そのことをきっかけに彼の力を削げるだけ削ぐ。また、【eraser】候補の少年を自分の陣営へ引き込むことで、集団のこの上ない強化を図る。長い時間をかけてアチラが巧妙に仕込んできた作戦が、どうやらそれらしい。一石で二鳥も三鳥も狙った作戦だったが……土壇場でひっくり返った。さぞかしアチラも怒り狂っているだろうな」
「でもアチラは、目的を変えない」
マドカが言うと、キョウコさんは真顔でうなずく。
「当然だ。作戦の一つや二つが駄目になったくらいで最終目的を諦めるくらいなら。アチラも、個人の名前から意味を剝奪するような、大規模な【ゆらぎ】を起こしたりしない。この【ゆらぎ】はあまりにも大規模に、一斉に行われたので……、我々【秩序】側も後手に回ってしまった。これが、現実への介入を始めるきっかけになった出来事でもある」
「でも、彼女は何故わざわざそんなことを……」
そこまでの執着がよくわからない。
名前の表記にそこまでの力があるのだろうかと、どうしても思ってしまう。
「各々の名前からさりげなく意味を奪うことは、ひとりひとりの存在を少しだけ希薄にさせる効果がある。ほんのわずかな差であるが、この国の人口すべての存在を、少し希薄にすることの効果は大きい。……世界を破滅させる、第一歩として悪くない手だ」
この大規模な【ゆらぎ】が起こったのが、もう十年近く前。
マドカ……新しい【eraser】候補に『安住サチエ』をぶつけたのが、ここ2ヶ月ほど前。
「名前が変わるほどの大規模な【ゆらぎ】以来、我々も手をつかねていた訳ではない。特にスイの活躍は目覚ましい。彼は【dark】が集まる場所へ潜入し、【dark】の宿主や【dark】化されそうな人を浄化してきた。もちろん100%成功した訳ではないが、それでもアチラの思惑をかなり邪魔してきたはずだ。ますます……彼女はスイを憎んでいるだろうな」
そして、と彼女は、ややためらった後、続けた。
「浄化をしつつ、我々……特にスイは。自分と同じレベルの力を持つ【eraser】を探していた」
マドカは真っすぐ、キョウコさんの目を見返した。
「だが、そもそも【eraser】になれる者は素質の問題からそういないし、いてもスイに匹敵するほどの能力者などまずいない。かといって、スイも生き物である限り寿命がある。こうして【dark】のたまり場へ赴き、浄化をし続けていても、結局モグラたたきのようなものできりがない。今の対策を繰り返すだけなら、スイの寿命が尽きる時、アチラが勝つ」
マドカの視線にもたじろがず、黄泉の女神の名を戴く彼女は、淡々と言葉を紡ぐ。
「一番効率がいいのは大元を叩くことだが、そう簡単にはいかない。私はともかく、【eraser】とはいえ生身の人間はどう頑張っても、そう長くアチラには居られない。【dark】から身を守りつつ、素早くアチラの奥へと進み……【Darkness】の本体を完全浄化するには、『タイプ・錘』の彼だけでは不十分。彼の進軍と攻撃を補佐する、相棒になれるだけの能力を持つ『タイプ・円』の【eraser】を長い間、我々は探してきた」
「それが……」
ややかすれた声でそう呟くマドカへ、彼女は笑みひとつ浮かべることなく、真顔で彼の瞳を見返し、言った。
「そう。君だ。長く長く探し続け、スイの寿命ギリギリの今、ようやく見つかった彼と同等の『タイプ・円』の能力者こそが。君……九条マドカだ」