6 最終対決へ①
「スイの個人的な事情は、おそらくあれでほとんどわかってもらえたと思う」
ひととおり落ち着いた後、キョウコさんは静かな声でそう言った。
リビングにくずおれたスイを、キョウコさんはてきぱきと処置した。
まず、いつかのようにひょいと彼を抱え上げ、自室へ連れて行く。
意識のない彼をとりあえずベッドに寝かせ、ネクタイをとって襟をゆるめる。
そして彼女は、どこからともなく(掃除の道具と同じだ、彼女は何もない空間から必要なものを取り出す)取り出した医療器具や薬品で淡々と治療を始めた。
シャツの袖をめくりあげ、血管を確保して点滴を開始。
軽く発熱しているスイの額に冷却ジェルを貼り付け、口を開けて舌の上に小さな錠剤を乗せる(舌ですぐ溶ける、いわゆる安定剤のようなものだと後で説明された)。
煙草を握りしめていた右の掌は、骨が見えそうなほどのひどい火傷だったが、不思議な色の軟膏を塗りこむとみるみる新しい肉が盛り上がり、八割がた治ってしまったのには驚いた。
「あの火傷は、もはや普通の治療では簡単に治らないからな。あまりやりたくはないのだが、やむを得ない」
生き物の摂理を超えすぎた治療は存在をゆがめるんだ、と、苦々しい口調で彼女は言った。
それはどういうことだと聞きたかったが、なんとなく聞きにくい雰囲気だったので、マドカはただ、黙ってうなずくにとどめた。
治療が終わり、リビングに落ち着いた後。
キョウコさんは軽いため息を吐いた。
いつも淡々としている彼女には珍しい、人間臭い仕草だった。
「驚かせてしまったね、九条君。傷心の君に寄り添う暇もなく、すまなかった」
「あ、いえ……」
言われて初めてマドカは、彼が恋した『さっちゃん先輩』が消えてしまったことを思い出す。
スイが舐めた悲惨なあれこれに比べれば、この程度の喪失など甘ったれた痛みかもしれないが。
痛みは痛みである。
思い出すと、やはり胸が疼く。
「こんな時に、情緒不安定な兄さんのディープ極まりない身の上話を聞かされ、さぞ困惑したと思う。最後まで黙って聞いてやってくれて、ありがとう。君の優しさに感謝する」
「あ、いえ……」
優しいとかなんとかではなく、圧倒されて聞くしかなかった、が本音だ。お礼を言われるのも変な気分だった。
「実は、あいつも相当、追い詰められていてね。この前にも少し話したが……」
「……彼の寿命が残りわずか、という話ですか?」
マドカがそろっと言うと、彼女は小さくうなずく。
「ああ。もう時間がない。本人もそれを覚っている。だから……最初で最後の、チャンスにかけている。本人も、それが身勝手だと思いつつも、ね。私としては……、【管理者】としても担当個人としても。推奨は出来ないが、職務上大いに助かる方策なので強く止める気はない。後はすべて、君の判断に任せることになってしまう。……申し訳ないが」
奥歯にものが挟まっているかのような口調。
これもあまり彼女らしくない。
マドカはだんだんイライラしてきた。
「話して下さい」
ややぶっきら棒に、マドカは言った。
「俺に、何をさせたいんですか? それが、俺の高校に潜入してまで、俺が【eraser】になるよう仕向けてきた理由でもあるのでしょう?」
「それは少し違うな。君が【eraser】なのは君の持って生まれた器だ。我々が君を【eraser】にしたというのは語弊がある」
いつもの調子でキョウコさんは、実にそっけなく言った。
思わずマドカは首をすくめる。
いつになく人間臭い彼女にうっかり油断したが、彼女は、黄泉の女神の名を戴く存在だった。
「だが、そうだな。【eraser】にしたというのは語弊があるが。【dark】にならないよう出来るだけ手を回した、のは事実だ。だから、君に責められる要素が皆無とまでは言わない」
「は?」
それは思いがけなくて、思わず聞き返した。
「……俺は別に、【dark】にはならないと思うんですけど?」
スイから聞いた、エチサが【dark】になった瞬間の話を思い出す。
生きている限りは色々あるから、世界を呪う気分が皆無というほど、マドカも純粋、あるいは幸せなお花畑の住人ではないが。
彼女のように強烈に世界を呪ってはいない。
そこまでのパワーで、何かを憎んだことはさすがにない。
「君が自力で【dark】にならなかったとしても。【dark】に共鳴すれば【dark】になってしまうんだよ。君には元々、ヒトの制限を超えられるだけの器があるからな」
少し、その辺りのことも話そう。
彼女はそう言うと、しかしまずは食事を済ませてしまいなさい、と、目の前にいつの間にか用意されていた軽食を示した。
カナッペ風のオープンサンドだ。
彩りも美しいそれを、マドカは黙々と食んだ。
正直味はよくわからないが、腹は減っているのでするすると入ってゆく。
キョウコさんは黙って、あたたかいカフェオレを用意してくれた。
勧められるままにそれを飲みながら、マドカは話を聞くことになった。