5 サチエとエチサ⑧
語尾が震えた、と思った瞬間。
遠くを見ていたスイの瞳が揺らぐ。ハッとしたように彼がうつむいた途端、ぼたぼたと涙が滴り、スラックスを濡らした。
落涙を恥じるように彼は乱暴にまぶたをぬぐい、左手でティーカップを持ち上げて白湯に口を付けた後、再び話を続けた。
「当時。俺とサチエは週に二度、高校の図書館で会っていた。図書館にある自習室で、一緒に勉強をしていたんだ。安住の屋敷を出て以来、サチエは落ち着いているように、俺には見えた。勉強に励む彼女の成績も良かったしな。俺は、かねてから決めていたように国立大を目指していたし、彼女もそうするつもりだと言っていた」
そこで彼は複数回、せわしなく息を吸った。
何故だかわからないが、ひどく息苦しそうだった。
ほとんど無意識にだろうが、彼はネクタイの結び目をゆるませた。
「俺は。二人とも大学生になったなら、親がどう言おうとも彼女と結婚しようと密かに思っていた。勉強の傍ら、こっそりアルバイトをして金を貯めてもいた。彼女と暮らしながら大学生であり続ける道を選ぶとなると、どれだけ金があっても足りないくらい、世間知らずのガキである俺であっても予想できたからな。幸い体力には自信がある。肉体労働もいとわず、俺はがむしゃらに頑張った……頑張る、方向性は間違っていたが、とにかく頑張った。その甲斐もあってか、ある程度の金を貯めつつ、俺は、第一志望の国立大へ合格した……」
不意にスイはあえぐ。ひどく呼吸が乱れていた。
「スイ。息を吐け。お前は今、過呼吸になっているんだ」
キョウコさんの冷ややかな声に、スイは意図的に大きく息を吐く。やや前のめりの姿勢になりつつ、彼は何度も大きく息を吐き……なんとか呼吸を整えた。
その後、疲れ果てたように彼は、ぐったりと身体をソファの背もたれに預け、額に浮いた汗を右手の甲で拭う。
黒ずんだ掌のやけど跡が、ちらりと見えた。
「大学に合格した日。俺は、彼女が母親と住むアパートの部屋へ行った……」
再び乱れかける呼吸を強引に整え、彼は話す。
(……もういい、もうやめてくれ!)
マドカは心で叫ぶ。
話す彼の方が辛いだろうが、聞いているこちらも辛い。
これら一連の出来事は、彼の心に深く刺さったまま、未だに鮮血を噴いている生々しいトラウマなのだ。
そして……この後。
最大のトラウマになる出来事が、起こる。
それがわかる。
聞きたくない。
だけど、聞かない訳にはいかない。
聞くことしか、マドカに出来ることはない。
「……アパートの近くで、俺は本当に久しぶりに、セイヤと出会った。奴は俺にのされて以来、一切近付いてこなくなった。偉そうにしていても、あいつは基本へなちょこのお坊ちゃまだ。気絶するまでぶん殴られたことが、よっぽどこたえたんだろう。目が合った瞬間、あいつはびくっとしたんだが。卑屈な中にも不思議と優越感じみた風に目を光らせ、サチエによろしくな、とか言って慌てて逃げて行った。嫌な感じはしたが……、あいつに関わるのは時間の無駄だと俺は判断し、サチエの部屋へ行った」
くたびれ果てた老人のような顔をして、スイは淡々と言葉を紡ぐ。
「部屋に……サチエはいなかった。サチエじゃない方の彼女が、どんな疎いガキでもわかるくらい事後の余韻の残る、しどけない、だるそうな顔で俺を出迎えた。
『久しぶり、エイイチ君。大学受かったみたいだね? 一応おめでとうは言わせてもらうけど。あんたも、安住本家の最低な莫迦たちやウチのくそババアよりはマシだったけど。やっぱり最低だよね』
開口一番、彼女は言った。どういうことだと問うと、彼女はすさまじい目で俺をにらみつけた。
『エイイチは大学へ行って、エリートの道を行く。だから身を引いてほしい。あんたの母親が、エロ猿のセイヤが来る前にそう言いに来たんだよ。その瞬間、サチエは死んだ。たった一人の味方に裏切られ、サチエは、生きていられなくなったんだよ!』
彼女はそう言った後、ヒステリックに笑い出した。
俺は慌てて、それは誤解だ、おふくろが勝手にしたことだと言った。彼女はひきつけを起こしそうなくらい笑いながら、苦しい息でこう言った。
『ああそうかい。でももう遅い。遅いんだよ、おめでたいお坊ちゃんが!』
彼女の雰囲気がその瞬間に変わったのを、俺は本能的に察知した。体中の毛穴が逆立つのが、リアルに感じられるような『嫌な感じ』がした」
彼の身体が細かく、ふるふると痙攣しているらしいことにマドカは気付いた。
キョウコさんがかすかに身動ぎした。
スイの心身は限界に近い。
しかし、彼女はギリギリまで待つつもりなのだとマドカは察した。
「彼女はこう言った。
『彼女の身体はエチサがもらう。彼女の魂もエチサがもらう。そして……彼女の望みは。私が。エチサが、叶える!』
その瞬間、すさまじい、あえて言うのなら負のパワー……が、彼女の身体から炸裂した。俺は……」
過呼吸になりかけ、喘ぎながらも彼は、話すことをやめない。
「その瞬間、【eraser】としての能力が目覚めた。圧倒的な負を、ゼロへと戻す為の能力。無我夢中で俺は、本能のままに目覚めたばかりの己れの力で……すさまじい【dark】の負のパワーを打ち消した。声にならない悲鳴を上げ、彼女は最後にこう言って、虚空へ消えた。
『お前を含む、全世界を憎む! 滅べ、くそったれども!』
……と。かの、じょは、」
「……限界だ、スイ」
冷静にそう言うと、彼女――キョウコさんは、喘いでいるスイの首筋へ、ごく軽い手刀を落とした。
スイはあっけなく意識を手放し、リビングの床にゆっくりとくずおれた。