5 サチエとエチサ⑦
スイはぎゅっと右手を握りしめ、離さない。
あまりにきつく握りしめているせいで、こぶしが白くなっている。
「状況が信じられず、俺は一瞬、動けなかった。驚愕して動けない俺を見て、セイヤは実に嬉しそうに、ニヤッとしやがった。
『どうだ、面白いものが見られただろう?』
『使い倒してきた割にはあっちの具合も悪くないぜ』
『こいつ大人しそうな顔してるけど、さすがはあの母親の娘だけあって好きものだから。ソンケーするエイイチ君にヤッてもらえたら、こんないい入学祝いはないだろう?』
その他にも聞くに堪えないことを、あのバカ野郎はいろいろ言っていやがったが。ろくに覚えてない。気が付いた時、俺はあいつを、メチャクチャにぶん殴っていた……」
そこで彼は急に、ふっと、握りしめていた右手をゆるめ、脱力したようにソファに身体を沈めた。
「あの男も、まさか俺に殴られるとは思ってなかったのだろうな。油断しきっていたのもあり、割とすぐに伸びた。半裸の間抜けな姿のまま、俺はあいつを離れの庭先に叩き出した。その時、気だるげに体を起こした彼女が、ボソッと言ったんだ。『へえ、意外とやるんだね』」
ククッ、と彼は、不意にのどの奥で笑った。どこかしら狂気じみていた。
「その時の恐ろしさは、あのひどい有様を見た瞬間以上だったな。身のこなしやその一言だけで……今そこにいる女の子が、サチエじゃない、ことがわかった。彼女と目があった瞬間、アチラも俺に、自分がサチエじゃないと覚られたことがわかったらしい。さっきのセイヤよりよほど悪魔じみた顔でニヤッとして『はじめましてエイイチ君。がり勉くんにしてはいい男じゃない』とかなんとか、ぬかしやがった……」
スイは一瞬きつく目を閉じた後、続けた。
「その日の、そこから先の記憶は曖昧だ。多分、逃げ出したんだろう。ただ後日、俺は安住の当主へ直談判をしに行った。サチエがひどい状況にあること、セイヤが従妹の女の子の身体を好きにしている鬼畜であることを訴えた。でも……取り合ってもらえなかった」
そこで彼は一、二度、大きく息をついた。
「というよりも。安住の当主は、状況を知っていた。知っていて、見て見ぬふりをしていたんだ。彼女の母親も、幾ばくかの金でそのことを黙認していたことも知った。どうも、あいつが外で女の子に手を出して問題になるくらいなら、家の中で済ませた方がいいくらいの感覚だったようだ。彼女のことは、時期を見て、金を渡して因果を含めて外へ出すか……最悪セイヤの嫁にすればいいから、と。俺は怒り狂ってさらに詰め寄ったが、それならお前がサチエを嫁にするのかと聞かれた。まだ十六かそこらの高校生のお前に、一体何ができるのだとも。悔しいが、確かに何もできない。親にも相談したが、関わるなと言われた。サチエちゃんは確かに可哀相だが、お前の嫁にする訳にはいかない、言いたくないがあの子は傷ものだからと……」
打つ手はなかった。
堂々巡りで、悶々と悩んでいるしかなかった。少なくとも……当時の俺は。
彼は遠い目をしてそう呟いた。
マドカは何も言えなかった。
自分がもしその立場にだったらと思うと、当時のスイ……エイイチ少年を責められない。
もっと何か出来たのではないかと思わなくもないが、それは気楽な他人の立場だからだろう。
そもそも周囲の大人たちが皆、この件は放置すると決めていて、サチエやエイイチの味方は誰もいなかった。
公的な機関に訴えればとも思うが、経緯を見れば、大人たちが総出でもみ消す可能性も高い。
というか、もみ消すだろう。
「それでも……」
疲れ切ったような小さな声で、スイは続ける。
「俺にばれて、安住の当主はさすがにまずいと思ったらしい。セイヤを外に出し、一人暮らしをさせることにした。サチエ親子も外に出された。彼女の母親は、狭いアパート暮らしに不満だったようだが、ようやくサチエは安心して暮らせるようになったと、俺は単純に思った……そんな訳ないのに」
スイは低く笑う。
背筋が凍える類いの、すさまじい笑声。
「その後も、一人暮らしになったセイヤは気が向くとサチエを抱きにきていたらしい。彼女の母親は、小金を握らせるとすぐ娘を売る屑だったから、同居の解消など大した抑止にならなかったんだ。この女はそもそも、別れた旦那の子であるサチエに愛情を持っていなかったんだよ。我が子を、自分の人生の足手まといくらいに思っていたのだろうな。……そこも。俺は、わかっているようで、わかっていなかった」