1 中心は、0(ゼロ)②
ゆっくりと階段を下りながら、彼女はマドカに微笑みかける。
腕にかかえているのは数枚のプリント。
おそらく、このひとつ上の踊り場にある掲示板に、今回のパズルを貼ってきたのだろう。
「キミ、好きな数字は?」
再びの質問に、マドカはつい、
「ぜ、0……」
と答えた。
このパズルの中心部分の空欄が、『0』じゃないかとついさっき、気付いたせいでもある。
すると彼女はいたずらっぽく口角を上げ、
「そう……なら。そこは、0じゃ」
目顔で掲示板を指し、彼女は言う。
耳慣れない方言まじりの、どこか芝居がかった口調で。
驚きで声も出せない彼へ、彼女は、表情を改めるとこう続けた。
「キミ、1年5組の九条君でしょ? いつもHPへ回答を送ってくれてる……」
「ええ? あ、あああ、は、はい。ソウデス」
へどもどしながら、なんとかマドカは答えた。
「今回で三回目になるでしょ? 解けたら直接、クラブハウスの方へ持ってきてね。つまらないものだけど、記念品を渡すから……」
言葉と一緒に掲示板に貼っていたプリントを一部、渡される。気付くとマドカは、ぼんやりしたままそれを受け取っていた。
「あ、あの!」
階段を降りかけた彼女へ、マドカは慌てて声をかけた。
足を止め、もの問いたげに振り返った彼女へ、マドカはろくに考えもしないで質問をぶつけた。
「あのその。えと。さっきの。『そこは、0じゃ』って、ひょっとして『バイオレンス・リリィズ』のエピソードじゃ……」
うふふ、と、嬉しそうに彼女は笑い、
「ナイショ」
と、ささやくように言って踵を返した。
どのくらい、そうしていただろう。
下から誰かが上ってくる気配に、彼はハッとした。
ぼんやりと持ったままだったプリントを、すばやくしかし丁寧に四つに折ると、彼は、ブレザーのポケットへそっと仕舞った。
顔が緩んで仕方がなかった。
「よう。おはよ九条」
階段を上ってきたのは同じ中学出身のクラスメイト・及川だった。
マドカは満面の笑みで
「よう。おはよう及川。今朝はホント、清々しいよねえ!」
と返し、及川に変な顔をされた。
が、頭の中が満開のお花畑状態のマドカは、及川の怪訝な目などものともせず、スキップでもしそうな浮かれた足取りでHRへと向かった。
自席に着いてもマドカの頭の中はお花畑であった。
それでも、一応はそれを隠そうという理性は残っているので、真面目な顔を作ってスマホを取り出し、見ているふりをする。
――『そこは、0じゃ』『ナイショ』……――
彼女の声や悪戯っぽい笑みが、何度も何度も頭の中を回る。
思い出すと、どうしても口許が緩んでしまう。
彼はふと思い立ち、さっきスマホで撮った『魔法陣』を確認した。
「ゼ、ロ……」
口の中でつぶやくと、彼女の笑顔がまた浮かぶ。
「……気色わりィ」
スマホの画面へ目を当て、ニタニタしているマドカの様子に、隣の席の及川はボソッとそう言う。
挙動不審の同級生から顔をそむけるようにして、及川は及川で、自分のスマホをチェックし始めた。
やがてチャイムが鳴る。
予鈴が鳴ればスマホは片づけなければならない。
マドカはのろのろと、スマホをポケットへ入れる。
名残惜しいが、担任が来るまでにスマホはしまっておかないと、没収される可能性がある。
席から離れて友人としゃべっている者も徐々に自席へ戻り、クラス内に担任を待つ雰囲気が醸成される。
足音が近付き……引き戸が開く。
「……え?」
見たこともない若い男の教師が、当たり前のような顔をして入ってきた。
黒い出席簿と、数学の教科書を持っている。
散髪したばかり、という雰囲気の短髪。
黒のスラックスに足元はスニーカー、薄青いカッターシャツに臙脂のネクタイを緩めに締めた、どことなく疲れたオーラを揺曳させている二十代半ばほどの男。
「起立」
日直の声に、マドカは慌てて立ち上がる。
挨拶を済ませると、椅子をガタガタさせながら皆と一緒にマドカも着席する。
「あー、今日は眼科健診があります。一組から順番らしいから、ウチのクラスはだいぶ後になるな。呼ばれたら速やかに、ちゃっちゃと保健室へ向かうように」
男は、『まるで担任の教師のように』連絡事項を告げ、教室を一瞥した。
「……欠席者はなし、と。んじゃ、授業を始めるぞー。教科書35ページ、『集合』のまとめから……」
言いつつ、男は教科書を開いてそこへ目を落とした。
「……ちょい」
マドカは及川の腕を軽くたたいて声をかけた。
「なあおい。アレ……」
板書を始めた男へシャーペンを向け、マドカは問う。
「あの先生。誰?」
及川は目をむき、口をポカンと開けた。
「……あのさ。お前、それマジで訊いてる?」
心底あきれた、という表情になると、及川はこう言った。
「ウチの担任の、角野先生じゃないか」
「たん、にん。カ、ド、ノ……?」
……いやいやいや!
ウチの担任は確かに数学教師だったけど、カドノとかいう若い男の先生じゃない。
宇田という名前の、化粧っけのないおばちゃん先生だった!
及川は真顔になると、青い顔で絶句しているマドカへちょっと心配そうにささやいた。
「お前さ。今朝方からちょっとおかしいぞ。マジ、頭大丈夫?」