5 サチエとエチサ⑤
しかしやはり限界だった。
くぐもった音と同時にスイは、赤茶色の、強烈に酸のにおいがする液体を勢いよく吐いた。
「言わんこっちゃない」
【管理者・ゼロ】は舌打ちしそうな口調でそう呟くと、
「九条君」
と、マドカの名を呼んだ。
「この手のかかる兄さんを、洗面所へ連れて行ってやってくれないか? 洗面所はリビングから出て左手にある」
私は掃除だ、と彼女は言い、どこからともなく取り出したハタキやら雑巾やらモップで作業を始めた。
軽く痙攣のあるスイの身体を支え、マドカは洗面所へ向かう。
さすがに洗面台の辺りまで歩いてくると、スイも多少、しっかりしてきた。
口を漱ぎ、顔を洗い、服についたしみを濡らしたタオルを使い、青い顔で黙々と落としていた。
マドカは洗面所の入り口で、ぼんやり立ってスイを見ていた。
彼の抱えている事情が重すぎて、マドカごときにはかける言葉も見当たらない。
次から次へと思いもかけないことを聞かされ、感情も思考も麻痺している。
自分が何を感じているのか、あるいは自分が本当に生きてここにいるのかさえ、今のマドカには曖昧に感じられた。
「すまなかったね、九条君。迷惑をかけてしまった」
少しさっぱりした顔になってスイはマドカを見た。そしてポロシャツをひっぱり、
「さすがにコレ、ひどいから着替えてくるよ。君はリビングに戻って、彼女の方の後始末を手伝ってあげてくれないかな」
と言う。
「……大丈夫ですか?」
「ああ……。まあ、何をもって大丈夫とするかは疑問だが。もう吐くことはなさそうだから、大丈夫だよ」
「そう、ですか。じゃあ……」
軽く会釈し、マドカはリビングへ戻る。
リビングに戻ると、まるで何事もなかったかのように場が整っているのに驚く。
「ご苦労だったね。紅茶をいれ直したから、飲んでくれ」
彼女は愛用のラブソファでくつろぎながらそんなことを言う。
「え? もうお掃除済んだんですか?」
マドカが訊くと、
「当然だ。私は数千年単位で『店子』の管理をしている『管理人』だぞ。掃除くらい、瞬き一つの時間があれば十分というものだ」
などと彼女は言う。珍しく、ちょっとおどけたような口調だ。
彼女なりに、こわばったマドカの気持ちを和ませようとしているのかもしれない。
「【管理者・ゼロ】、さんって、やっぱり管理人さん、なんですか?」
スイが常に彼女をそう呼んでいるから、やはりマドカもそう呼ぶべきかとちょっと思い、訊いてみると
「【管理者・ゼロ】は仮の名だし、君が私を『管理人』と呼びたければそう呼んでもいい」
彼女は真顔でこたえる。
「【管理者】は、君たちにとって『人類』というようなものなんだ。【ゼロ】の方は、君たち【eraser】が【dark】の浄化と消滅のために大々的に動く時、戦場エリアの座標を設定する原点になるから便宜上、そう名乗っている。私の呼び名は各【eraser】が任意で決めるのでね。スイは私を管理人とかマスターなどとか呼ぶが、他の者はもっといろいろだ。『巫女』と呼ばれたこともあるし、『魔女』と呼ばれたこともある」
彼女はそう言うと、ティーカップを取り上げて一口、飲んだ。
「そういえば。この国の、古い時代からいるタイプ・波の【eraser】などは、私をイザナミノミコトと呼ぶ場合もあるな。国生みの女神の名らしいが」
「い…イザナミィ!! す、すごいですね」
(先生~。このヒト?親戚のおばちゃんどころじゃないじゃん…)
イザナミノミコトは国生みの女神であるが、黄泉の女神でもある。
まあ(物理であれ非物理であれ)彼女には絶対逆らえないであろうから、順当な呼び名かもしれない。
逆らったら即(それこそ眉一つ動かさず)、黄泉比良坂へ叩きこまれるだろうし。
「だから、君も好きな名で私を呼んでいい。別に音無先生でもいいが」
「……はあ」
イザナミを聞いた後ではどんな名前も不敬にあたるような気はするが、だからといってイザナミとは呼びたくない(だって怖いじゃないか)。
しかし『管理人』はちょっと呼びにくい気がする。
なんとなくだが、それは基本、スイだけの呼び名のようなニュアンスがあるし……。
(……あ、そうだ)
「キョウコさん、でもいいですか?」
「キョウコさん? まあ、別に構わないが」
首をひねる彼女に、マドカは密かにほくそ笑む。
さすがの彼女も『キョウコさん』の元ネタはわかるまい。
「……キョウコさんって。前からちょっと思っていたけど、君、ホントは昭和生まれじゃないの?」
その声と同時にリビングに現れたスイは、きちんとプレスされた白のワイシャツに地味なネクタイを締め、こちらもきちんとプレスされたビジネススラックスという姿であった。




