5 サチエとエチサ④
紙巻を持つ指先が一瞬大きくふるえたが、取り落とすことはなかった。
もう一度大きく息をつくと彼は姿勢を正し、ふるえる指で紙巻を携帯灰皿にねじ込み、話を続けた。
「俺は。『余所者の勤め人』の子ではあったが、安住の親戚の、この世代の子供たちの中では成績が良いということで一目置かれていた。あの辺りで一番レベルが高い公立高校へ入った時は、安住本家の当主が直々に祝い金をくれた。安住のおじさんは頑固で旧弊なところはあるが、実力を示す者は素直に認める人だと俺は思っていた。まあ……間違ってはいない、少なくとも男に関しては」
「男、に関しては?」
マドカが首を傾げると、スイは軽くうなずく。
「そこに俺は、長く気付かなかった。実力さえ示せば……彼女もきっと道が拓けるだろうって単純に思っていたんだ。俺は、安住の家で肩身の狭い思いをしている彼女を何とかしたいと思っていた。俺自身もそうだが、彼女もいい学校へ行けば自活のための選択肢が増え、未来が拓けるだろうと。こっそり彼女の勉強をみるようになったのは、俺が高校生になった頃からだ。彼女は元々よく出来る子だったから、少し教えるだけでめきめきと実力をあげて、最終的に俺と同じ高校に合格した。このまま頑張って……一緒に、国立大学へ入ろうと言い合っていた」
だけどそれは、彼女の生活のうちの半分だったんだ。
淡々とそう紡がれた言葉に、マドカは訳もわからず慄いた。
悔恨、絶望、そして……強烈な自己嫌悪。
波動のように伝わってくるスイの心に、マドカは呼吸も忘れた。
「……安住の当主には息子が一人いた。俺より二歳上、サチエの四歳上になるセイヤという……ドラ息子だ」
ギリリ、とでもいうかすかな音。
スイが奥歯をきつく噛みしめた音だった。
「傲慢で狡猾なところのある、嫌な奴だったよ。安住本家の跡取りという立場に胡坐をかき、地道な努力を嫌うセイヤは、はっきり言って成績がパッとしなかった。父親からしょっちゅう俺と比べられていたらしく、俺を敵視してちょいちょい嫌味を言われたもんだった。まあ、どうせ冠婚葬祭でしか会わない親戚の一人だ、俺は基本セイヤを無視していた。……でも。サチエは、そういう訳にはいかない」
スイの呼吸が浅く、早くなってきた。
額に浮いた汗は玉になっている。
「あの子は。安住本家の人間に立場上、逆らえない。そこを利用してセイヤは、多分じいさんの一周忌を過ぎた頃……あいつが十四、五の頃くらいから。年端もいかないサチエを、性的な意味で、慰みものにし始めた」
マドカはひゅっと息を呑み、青ざめ切ったスイの横顔を凝視した。
『今更だし』
『私の母方の従兄』
『小学生の頃から……、あの人のおもちゃみたいなもの』
あの永遠の夕映えの中で言っていた、『安住サチエ』のふりをした【dark】の言葉を、マドカはふと思い出す。
あの言葉は単なる出まかせではなく、スイのはとこだったサチエさんの実体験に基づいていたのだと知る。
怒りなのか嫌悪なのか、身体が勝手にがくがく震えた。
「あいつも。ひょっとすると最初は、軽いいたずらのつもりだったのかもしれない、そうだとしても最低だがな。しかしそういうことに興味の出てきた十代のガキが、絶対逆らわないとわかっている可愛い女の子を目の前にして、自制しきれる訳がない……これ以上は、言わなくても君にもわかると思う」
不意にスイはせき込むと、冷め始めたティーカップの白湯で乾ききった唇をしめらせ、息を整えた。
「俺が、そのことに気付いたのは。彼女が高校生になってからだ。ざっと五年以上、彼女は俺に知られないよう、隠していたんだ。いや……」
スイは遠い目をし、一瞬きつく唇をかんだ。てのひらで額の汗をぬぐうついでに彼は、前髪をぎゅっとつかむ。そのまま髪を引き抜くのではないかと思うほどの強さで、ぎゅっと。
「スイ、前髪を引き抜くつもりか?」
【管理者・ゼロ】の冷ややかな声に、スイはハッとした。気持ちを落ち着けるためか、彼は、冷めた白湯をゆっくりと飲み干した。
「いや……ちょっと違うな。隠していたというよりも、覚えていなかった、というべきなのかもしれない。彼女は……解離性同一性障害…俗にいう、多重人格を発症していたんだ」
「え?」
本でしか目にしたことのない言葉。マドカは茫然とするしかなかった。
「セイヤの相手をさせられている時、サチエの人格は眠ってもう一つの人格が表に出る。そして苦行のようなその時間が過ぎると、もう一つの人格が引っ込む。そうやって彼女は、自分の心を守ってき……」
ぐうう、という不穏な音が、スイののどの奥から漏れてきた。慌てたように彼は、右のてのひらで口許を覆う。
「スイ、もうよせ! 限界だ!」
【管理者・ゼロ】が叫ぶように制したが、スイはかたくなに首を横に振る。
「……駄目、だ、まだ、肝心な部分を、話してない、から」