4 エン・顕現Ⅱ⑦
そして週が明け、月曜日。
九条マドカはいつも通り、早めに学校へ向かう。
いつもならスマホで、お気に入りの音楽を聴きながら登校していた彼だが、そんな気分になれない。
ふと思いつき、彼はポケットを探ってスマホを……否。
スマホにつけている、ストラップを取り出す。
黒い、水晶のような質感の、球形のチャーム。
真中に浮かぶ文字は、銀色の『4/3πr³』。
あの、異常に濃い経験をすることになった金曜日の午後。
マドカは最後に、とんでもないことを聞かされた。
しばらくの沈黙の後、彼はようやく声が出た。
「かど……じゃなくて。スイ、さんが、そんな状態だと?」
言い直すマドカへ、【管理者・ゼロ】は目許だけで苦笑する。
「角野でもスイでも、基本どちらで呼んでもかまわない。『角野エイイチ』は元々、彼の本名だからな」
【管理者・ゼロ】はふと、瞳を陰らせる。
「【eraser】は本来、自分の暮らす土地で地道に浄化をするのが基本だ。稀に、私が協力を要請する場合はあるが、そんな機会は【eraser】の人生でそう何度もあるものではない。それが普通なんだ」
マドカがうなずくのを見て、彼女は話を続ける。
「ただ彼は。とある事情から私と行動を共にし、直接的に【dark】を浄化することで私の仕事を助けてくれている。その見返りと言っては何だが、彼自身の悲願をかなえる為、私に出来る範囲で、彼の浄化能力やそれを支える瞬発的な体力を、可能な限り最高値で留まれるよう維持している。結果として、色々と無理を重ねている状態なんだ。詳しい事情は本人の許可なしで言わない方がいいだろうから省略するが、今までヒトとして有り得ない無理を重ねてきた彼の寿命は……風前の灯、といっても過言ではない」
言葉もない。
マドカはただ黙ったまま、【管理者・ゼロ】の整いすぎた顔を見つめるしかなかった。
いよいよ【home】から帰るという時、マドカは【管理者・ゼロ】からこうも言われた。
「体調を考慮する意味からも、しばらくスイは休ませる。『角野先生』という大きな【ゆらぎ】はあの学校から修正され、君のクラスの担任は宇田先生に戻る。揺り返しによる混乱は最小に抑えるよう努めるが、ある程度は覚悟してくれ。潜入後の混乱の後処理や、関係者のアフターケアの必要もあるので、私はもうしばらく養護教諭の音無として保健室に詰める予定だ。もし必要ならば、保健室へ来てくれればいい。私にできることならば対処する」
ただ頷くマドカに、彼女はテーブルからスマホを取り上げ、ストラップを示す。
「これは、こちらとの通信機器に類するようなものだと思ってもらっていい。もし【home】へ用があるのなら、これに向かって『【home】へ帰還』と言ってくれれば、【home】の玄関前に出られるよう調整している。……では、また会おう。気を付けて帰りなさい、九条マドカ君……あるいは。【eraser】・エン」
気付くと、マドカは自室にいた。
荷物もそうだが、アチラへ置いてきてしまった制服のブレザーまで、きちんとハンガーにかかった状態であったのには驚いた。
夢を見ていたとしか思えないあれこれ。
でも。
「来るな、このボケ」
小声で言いながら、拒絶の気分で周囲を薙ぎ払うイメージを浮かべると。
自分の身体を中心に、白銀の光の円盤が出現する。
「……ハハハ」
悲しくも可笑しいことに、どうやらすべて、現実だったらしい。
土曜・日曜は拍子抜けするほどいつも通りだった。
マドカ自身としては、勉強にしろ趣味のマンガ読みにせよ全く集中できず、無為にぼんやり過ごした週末ではあったが。
両親の様子も、漫然と映っているリビングのテレビ番組のダレた感じも、唖然とするほどいつも通り。
あまりにもいつも通りで、かえって嘘くさく感じたほどだ。
そして月曜日。
いつも通り……いや、それよりもう少し早く、家を出る。
正直なところ、学校へ行きたい気分ではないが、家にいるのも落ち着かない。
自分の心の中心をどこに置けばいいのか、迷子になったような心細さ。
浄化の光は、何度かひっそり訓練しているうちに、随意で出るようになってきた。
マドカも少年らしく、超人的な能力は持っていれば気分いいだろうと夢想していたが。
案外、鬱陶しくてストレスフルで持て余すものだと痛感する週末でもあった。
自宅に安寧がないのなら、まだしも学校の方がマシかもしれないと思い始めたのは、日曜の午後。
登校を心待ちにして日曜日は過ぎていった。
校門をくぐり、職員室で314号室の鍵を受け取ると、マドカはクラブハウスへ向かう。
【管理者・ゼロ】から聞いたのだが、【dark】の宿主になっていたものの本来真面目で几帳面な安住会長は、掲示用の新しい算数クイズを印刷し、部室内に置いている、と。後は各掲示板に貼ればいいだけの状態らしい。
彼女が月曜日に復帰できるかどうかは未知数らしいので、マドカがクイズを掲示板に貼ろうと考えたのだ。
鍵を開ける。
いつも通りの整えられた部室。
楕円のテーブルの上には、ガラスのペーパーウェイトの乗ったA4の紙の束。
「おはよう、九条君。相変わらず早いね」
いつもと変わらない優しげな声が、後ろから聞こえてきた。
涙ぐみたくなる気分で、マドカは振り返る。
「……え?」
そこにいたのは。
肩に届かないくらいのショートカット、トレードマークだった銀縁の眼鏡をかけていない、美少女。
顔立ちは確かにさっちゃん先輩だ。
しかし、髪を切って眼鏡をはずした彼女は、マドカの知る彼女ではない。
魅力的なのは変わらないが、その魅力は別種のものだ。
はにかんだように彼女は笑う。
「ちょっと……イメチェンしたんだけど。そんなにびっくりした? ホント言うと、ずっと前から髪は切りたかったし、眼鏡はコンタクトに変えたかったんだけど……この週末、なんだか急に踏ん切りがついたっていうか。えっと、もしかして似合ってない、かな?」
「い、いえ。そんなことありません、すごくかわいい……あ、かわいいとか、ナマイキなこと言ってスミマセン」
そうなのだ。
以前の彼女は、『孤高の高嶺の花』的なひたすらノーブルな雰囲気だったが、今の彼女は『公園の花壇で咲く一番きれいな花』的な、親しみやすさとノーブルさがちょうどよく混ざり合った雰囲気だ。
こちらの方がいいという者の方が多いのではないか、とマドカは思った。
彼女はホッとしたような顔をする。
「ホント? ありがと」
「あ…あの。さっちゃん先輩」
体調に変わりはないかと聞こうとしたマドカへ、彼女の怪訝な顔をする。
「さっちゃん? って……、誰?」
「はい?」
狐につままれたような顔で見返す後輩の少年へ、ショートカットの彼女は言う。
「いつもキミ、私のこと『ユキちゃん先輩』って呼んでくれてたよね?」
「は?」
「私はユキエだから、昔からユキとかユキちゃんって呼ばれているから……」
その後の、マドカの記憶は曖昧だ。