4 エン・顕現Ⅱ⑥
その後、二人はすぐ室内へ戻った。
レッスン1はクリアしたので、魔王様も休憩を認めて下さったのだ。
マドカも疲れたが、実際はスイの方がもっと疲れていたようだ。
『ようだ』とつけるのは、芝生の庭でマドカの『実技の訓練』を監督していた彼には、微塵もそんな様子が見られなかったからだ。
が、リビングに戻ってソファに座り、【管理者・ゼロ】が用意してくれていたアイスティーと甘い焼き菓子をつまんでいたら、スイは急にソファの背もたれにも身体を預け、秒で熟睡状態となった。
「先生、こんなところでうたた寝したらマズいですよ」
声をかけたが、スイは死んだように昏々と眠っていて、ピクリとも動かない。
彼の寝顔が無防備にさらされる。
乾いた唇を少し開け、『必死に』眠っているようにマドカは感じた。
改めて彼の顔をよく見てみると、うっすらと髭の伸びた頬はこけているし、目の下の隈がこの前より濃くなっているような気がされた。
「遊び疲れた幼児みたいだな」
【管理者・ゼロ】はややあきれたように言うと、静かに立ち上がった。
そして、いきなり彼女は自身よりもよほど大きな図体の男の身体を、ひょい、と、お姫様抱っこした!
「……え?」
目の前の事態が理解できず、マドカは固まる。
「ああしまった。九条君。ちょっと頼まれてくれ。この可愛くない幼児をねぐらまで運ぼうと思うんだが、そこのドア、開けてくれないかな?」
マドカは慌てて立ち上がり、リビングのドアを開けた。
「ありがとう、すまないね」
彼女は男前な笑みを浮かべ、軽く礼を言うとさっそうと退場した。
「えー⁉」
……常識って、なんだったっけ?
無意識のうちにマドカは、そんなことを呟いていた。
何が正しいとか通常とかが、だんだんわからなくなってきた。
もしかするとマドカも、彼女にああやって、ソファベッドまで運ばれたのかもしれない……。
「…ひええ!」
瞬間的に、それって男としてどうよと思ったが、マドカよりよっぽど男っぽくてガタイのいいスイが幼児扱いされているのだから、推して知るべし、だ。
あの人(いや、考えるまでもなくそもそも彼女、『人』ではないのだが)、そこいらの男よりよっぽど男前で、おまけに保育士並み?に面倒見がいいのかもしれない。
かつてスイが彼女のことを、『上司みたいな親戚のおばちゃん』などと評していたが、なんとなくわかるような気がした。
(でも俺……こんな『常識』がいろいろぶっ壊れた状態で家に帰って、今まで通りちゃんと暮らせるかな?)
それ以前に、そもそも家に帰してもらえるのだろうかとちらっと思ったが、怖いのでその件は考えるのをやめた。
誰もいないリビングで、マドカは半ば仕方なく、チミチミとフロランタンなんかをかじっていた。
ほどなく【管理者・ゼロ】は戻ってくる。
「放っておいて済まない。お兄さんの方が先にダウンしてしまったから、『実技の訓練』はいったんお開きだな。君も疲れただろうし、そろそろ帰るかな?」
「帰っていいんですか?」
思わず聞き返してしまい、マドカはあわてて口を閉ざす。
やっぱり帰さない、と言われれば大変である。
【管理者・ゼロ】は真顔で返す。
「帰るべきだろう? 別に私は人さらいではない。【eraser】の管理はするが、拉致や監禁はしない。今回は君を強引に【home】へ連れてきたが、これはどちらかと言えば保護だし、今後のことを考えての行動だ」
「あ……はい、デスヨネ」
確かに、あのままクラブハウスの和室に放置されていたら、家へ帰るのも大変だったろう。
彼女はふと、微妙に表情を陰らせた。
「君は宇田先生のことを気にしていたね? その辺のこと、簡単に説明をしておこうか」
マドカは顔をこわばらせ、頷く。
彼女はアイスティーのおかわりを注いでマドカに勧めながら、説明を始めた。
「彼女を、我々が潜入する際の【ゆらぎ】のターゲット……つまり、入れ替わる対象に選んだのは。いくつか理由があるのだが、そのうちで一番大きな理由は、彼女自身がプライベートで辛いことがあり、心を病みかけていたからなのだ。【dark】の格好の宿主……そして【dark】そのものになりそうなほど、心身が疲れていた。だから彼女を仕事の現場から外し、休ませる必要があった。彼女は今、私が管理するタイプ・波の【eraser】に預け、ゆっくり眠って心を癒してもらっている。そろそろ……起き上がれるくらい、回復してきている。週明けからは復帰してもらう予定だ」
「え? それじゃあ、角野先生は……」
【管理者・ゼロ】は少しだけ口角を上げ、言う。
「彼の潜入は終わりだ。今回の彼のミッションは、君……【eraser】たる器を持つ者を探り出してさりげなく【dark】から護衛し、最終的に彼ないし彼女の能力顕現のサポートをする、だったからな。ミッションコンプリート、だ」
その時のマドカの心の動きを、どう表現するべきか後から思い出してもよくわからない。
宇田先生が戻ってくるのは単純に嬉しかったが、角野が学校からいなくなるのは――寂しい。
あれほど疎ましかった『バグ野郎』だが、数学の教師としてはレベルが高い……もしくはマドカにとって相性のいい、教師だった。
おかげで、部室で自習した不等式と不等式の連立に関しては、間違うこともなくなった。
同じ質の授業を、おそらく宇田先生には求められない。
彼女が悪いのではなく、マドカとの相性の問題だ。
(あ、でも。ウチのクラスの貴腐人方の、掛け算案件はなくなるかな?)
そこはホッとする。
ホッとするが……やはりなんとなく、物足りないような寂しさがもやもや胸にわだかまるのは否めない。
それから、と、彼女はやや言いにくそうに口ごもった後、こう続けた。
「君には伝えておこう。スイ……角野先生は。体力的に限界に近い。もっとはっきり言うのなら……先は、長くない」