1 中心は、0(ゼロ)①
あの日の朝も、いつもと何も変わらなかった……途中までは。
……高校の校門が見えてきた。
九条マドカは白いワイヤレスイヤホンを外し、ブレザーの胸ポケットへしまった。
そしてスラックスの右ポケットに入れているスマホを操作し、聴いていた音楽を止める。
(だー……あっちぃなあ)
ため息まじりに口の中でそうつぶやくと、彼は、半ば無意識で額に浮いた汗を、紺のブレザーの袖口で押さえた。
すでに高くなった太陽が、妙に嬉しそうにギラギラ輝いている。
ここ最近、五月の連休を過ぎた頃に、突然馬鹿みたいに暑くなることが多い。
冬服での登校は、日によるとちょっときつい。
九条マドカは今年の春、地元ではまあまあ上位の公立高校へ入学した。
正直、彼にとって小中学校はあまり面白くない場所――陰キャと呼ばれがちな大人しい彼を、名前が女みたいだからといじってくる馬鹿がちょいちょいいたし、何が嬉しいのか教室で、やたら無意味に騒ぐ馬鹿も一定数いて、出来れば学校では静かに過ごしたい彼にとっては、小中学校は通うだけで疲れる場所だった――が、各中学でそこそこデキる奴が集まっているこの高校は、まあ入学から一か月足らずだから皆まだ猫をかぶっている可能性もあるとはいえ、概ね良識のある連中が集まっているようで、ホッとしている。
このまま平穏に高校生活を送り、地元の公立大学へスッと進学し……市とか県とかの公務員にでもなれればいいなと、ある意味覇気のない、堅実な安定路線を彼は目指している。
不必要に個性を発揮しても碌なことがないのは、己れの名前のおかげ?で彼は骨身にしみている。
キラキラネームではなかったことが、幾らか救いだっかたもしれない。
開門したばかりの校門をくぐり、彼は一年生の教室があるA棟へ急ぐ。
A棟のエントランスに入った途端、ひやりとした空気に包まれた。
思わず大きく息を吐く。
さすがに初夏の朝の熱気程度では、鉄筋コンクリートの建物の内部まで蒸す力はない。
彼はもう一、二度大きな息を吐き、身体にたまった熱気を逃がした。
どこか遠くで、人の気配というかかすかな物音のようなものは聞こえてくるが、学校全体にまだひと気は少ない。
マドカは、朝早い校舎や校庭の雰囲気が昔から好きだった。
活動が始まる前の、どことなく眠気の名残がある静謐が好きなのかもしれない。
始まったばかり、という『今日』を実感する瞬間。
まっさらなノートを前にしたような、とても贅沢な気分になる。
もっとも、そのノートに一文字でも書いてしまえば……つまり誰かと出会い、だらけた朝の挨拶なりをしてしまえば。
その贅沢な静謐は、儚く消えてしまうのだが。
人心地が付くと、マドカは自分のホームルームのある三階へと向かった。
そして、二階と三階の間にある踊り場の掲示板に、真新しい紙が貼られているのに気付いた。
(……おっ)
『理数同好会』が定期的に、この掲示板にちょっとしたパズルやクイズを貼りだしている。
マドカは中学時代から筋金入り?の帰宅部だったが、『理数同好会』とかいうオリコーそうだけどユルそうな同好会が、実はちょっと気になっている。
掲示板に張り出されている算数クイズやナンクロなどが、うまく言えないが、自分の好みというかフィーリングに合う、気がするのだ。
(んん、そうそう、それだけ……)
自分に言い聞かせるようにそう心で呟くが、脳裏に浮かぶのはひとりの女子生徒の姿。
掲示板へ第一回目の算数クイズを貼っていた、背の高い女子生徒の姿だ。
校則通りにきちんと制服を着た、スレンダーな身体つきの彼女は、やや癇性なほどきっちりと長い髪を二つに分け、三つ編みおさげにしていた。
細めの銀縁の眼鏡が、賢そうに整った顔立ちによく似合っている。
その眼鏡越しに、まるで一大事であるかのような真剣なまなざしで彼女は、きちんとまっすぐになるよう、クイズの刷られた紙を押しピンで掲示板にとめていた。
踊り場の窓から差し込む柔らかな日の光を浴び、彼女の横顔は逆光に淡く輝いている。
彼女の周りだけ、古い時代の宗教画のような空気感があった。
やがて彼女は背筋を伸ばし、掲示板から一歩離れると、満足げに笑った。
思うようにきちんと貼れたのだろう。
どちらかといえば地味で野暮ったい、言葉を変えるとひどく古風な雰囲気の少女だったが、そこがいい。
昭和の学園ドラマや少女漫画なんかに出てくる、融通が利かないところはあるけど実は繊細で心優しい、眼鏡美人の委員長風なたたずまい。
(……きれいな人だ!容姿だけでなく、存在そのものが、きれいだ!)
マドカは心で叫ぶ。
ガツン、と、ハートが射抜かれた。
(あの先輩……なんて名前だろう?)
知りたければ『理数同好会』の部室へ、見学なりなんなり理由をつけて訪れればいいのだが。
基本ヘタレな彼は一ヵ月近く何もせず、ぐずぐずしている。
ただ、同好会が二週間に一度程度、掲示板に貼り出しているクイズを解き、会のHPへ回答を送ってはいる。
HPへ回答を三回送ると粗品進呈、ということらしいので、その時に部室へ行ってみようかと、彼は密かに思っている。
行く理由を作るため、クイズやパズルを解いていることは彼自身自覚しているが、見ないふりをしてもいる。
今回のパズルは『魔法陣』だった。
なんだか厨二っぽい名前のパズルだが、何のことはない。
方眼の縦・横・斜め、どの列を足しても同じ和になる数字を導き出せという、昔からあるパズルの一種である。
マドカはポケットからスマホを取り出すと問題にかざし、写真に撮る。
「……んんん?」
何気なく一列、暗算してみて、今回はずいぶん難易度低くないか? と彼は思った。
単純に抜けている箇所が少ないし、真ん中の空白部分、これって……。
「キミ、好きな数字は?」
女の子にしては低めの優しそうな声が、突然、頭の後ろから聞こえてきた。
マドカは飛び上がる。
(え? ええええ?)
彼のあこがれの先輩が、ほんのりと笑んでそこにいた。