3 エン・顕現③
声を限りにマドカは叫び……刹那。
身体の奥底で、何かがはじけた。
己れの身体を中心に、眩しい光が円盤状に広がる!
こちらへすり寄ろうとしていた影のごときものすべてが、音もなく消滅してゆく。
マドカの行く手を塞いでいた、高い塀も何故か消え失せた。
(……これ、は)
一体どういうことだ?
混乱し、パニックになりつつも何処かでわかっている。
これこそが、持って生まれた自分の能力なのだと。
ほぼ無意識ながら、慎重に慎重に守ってきたヒトとしての『制限』。
突出を恐れ、凡庸を心掛ける『生き癖』。
それが、守ってきたのは……。
己れの発した光に目がくらみ、半分気絶しそうになりながらも、マドカは意識と無意識のはざまの隅で慟哭する。
『ああ、これで俺はヒトではなくなった』……と。
『……【eraser】顕現を確認。タイプ・円。位置を特定。【転移】』
どこからともなく響いてくる冷ややかな声が、意味不明なことを言っている。
少し離れた所に、人影らしきものが現れた。
「……やあ。【eraser】の君とははじめましてになるな、九条マドカ。私は【管理者・ゼロ】という仮の名を持つ者だ」
マドカの斜め後ろから、そんなことを言う者がいる。鋭く振り返り、彼は唖然とする。
冷ややかでありながらも、どことなく喜んでいるようなその声の主は。
「え? ええ? あ? お、音無、先生?」
養護教諭の音無にしか見えない。
以前保健室で会った時と同じ姿だ、しみひとつない白衣を着ているところまで寸分たがわず。
彼女は口角を少しだけ、あげる。
「養護教諭の音無として、君の通う高校へ潜入していたのは確かだ。君を……探していたんだ。君がアチラへ呑まれれば【深淵】が口を開け、この世界を壊すしかなくなるところだったからな。まあ……詳しい説明は後にして。ここでの我々は招かれざる客、お怒りになっている【門番】たちをさっさと撃退して、逃げよう」
「ええ? いや待ってください、音無先生。俺、何が何だか。そ、それに。ここにはさっちゃ…、あ、いえ、安住先輩も囚われている可能性が……」
ああ、と彼女は、何故かほんの少しだけ顔を曇らせた。
「……『安住サチエ』については、基本的に心配いらないよ。君をここへ導いたあの存在は、少なくとも『人間』の安住ではないからな」
「……本当に?」
「本当だ」
素っ気ないながらも確信に満ちた言葉。嘘は感じられない。
マドカの身体からふうっと力が抜けた。
この最悪の悪夢は彼女と無関係だったと聞き、心の底から彼は安堵した。
「気を抜いている暇はないぞ、九条君。すぐにアチラさんが来る。雑魚だが、ここは彼らのテリトリーだから甘く考えるな。……スイ」
「へいへい。お呼びでしょうか、管理者」
いやに軽い口調ながらも聞き覚えのある声に、マドカはぎょっとする。
音無(だったナニモノカ?)の陰から現れたのは。
安っぽい紺のスーツを身に着けた短髪の男。
……角野、だ。
「場所が場所だ、私はここに戦場エリアを設定する。制限がひとつ外れるが、無茶はするなよ」
角野はニヤッと、ちょっと怖い顔で笑うと、スーツのポケットから煙草とライターを取り出す。
「いいっすね。俺は現実で、あのクソ女に散々イジられた上、とんでもなく破廉恥な冤罪まで被せられたんだ。むしゃくしゃしてもいる。久々に暴れさせてもらいましょ」
言いながら彼は紙巻をくわえ、ライターをかちりと鳴らして火を点けた。
「ただし。九条マドカの護衛を忘れるな」
彼女の命令(としか思えない口調だった)に、角野は嫌そうに眉をしかめる。
「え~? メンドーだな、彼は彼で、自分で守れるでしょうが」
「莫迦者。たった今覚醒した【eraser】だぞ、まだ安定しきっていない。隙をついてさらわれたら大変なことになるだろうが」
角野はひとつ大きく煙を吸うと携帯灰皿を出し、次に盛大に吐き出しながら、まだ半分も吸っていない紙巻をそこへ入れた。
「……了解」
不承不承ながら角野はそう返事をした
うなずくと、音無こと【管理者・ゼロ】は不意に姿を消した。
「あ、え…えと?……角野、先生? ですよね?」
おそるおそる、マドカは男へ話しかけた。
声も姿も角野だったが、醸し出すムードが違いすぎる。
お疲れモードの残念男子ながら、ぎりぎり教師らしい誠実さを醸していた『角野先生』にはない、すさんだというかやさぐれたというか、そんな空気が彼を覆っている。
すれ違いざま、肩が触れたと因縁をつけてきそうな尖った印象……ともいえるだろうか。
男はちらりとマドカを一瞥すると、わざとらしくため息を吐いた。
「おー、確かに角野先生だよ~九条君。あ、言っとくけど俺、セクハラなんかしてないからね。君を食らおうとしてたあのふざけたクソ女に、まんまと嵌められただけだから」
「あ……はあ。まあ、そう、でしょうねえ……」
アレがさっちゃん先輩でないのなら、そう考える方が自然というものだ。
しかし、ふざけたクソ女って……そうだけど。
「そーゆーこと。はあ、やれやれ。なんとかギリギリで間に合ったかな。まったく、ドスケベな冤罪をかけられるはガキにクソミソに罵られるはで、さんざんだったよ」
嫌そうな、不本意そうな態度で彼は、ぶつぶつそんなことをぼやいた。
(ガキにクソミソ……って、俺のことだよな?)
マドカはなんだか腹が立ってきた。
さんざんひどい目にあったのはこっちだと言いたい。
(……そうだそうだそうだ! 考えてみればそもそもの発端は、このおっさんが急にウチの高校へ現れたせいじゃないのか!!!)
半ば以上八つ当たり気味にマドカは思い、ムウッとした顔で角野をにらみつける。
マドカの視線に気付いた角野は、冷たい目でそれを見返し、酷薄ともいえる凄絶な冷笑を頬に刻んだ。
思わず気圧される。
「君も色々、思うところはあるだろうよ。でもまずは、この訳わからん場所から抜け出すことだ。不本意だろうが、抜け出し方を知ってるのは我々サイド。抜け出した後で、我々と袂を分かつなりしぶしぶでも共闘するなり、今後の自分の態度を決めるんだな、ボーヤ……そら」
おいでなさったようだ。
彼は呟き、虚空の一点を凝視する。
つられてマドカもそちらへ視線を向ける。