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3 エン・顕現①

 放課後。

 マドカはさっちゃん先輩との約束通り、クラブハウスへ向かう。


 314号室のドアノブに手をかけようとした時、マドカは不穏な気配を感じ、伸ばしかけた手を止めた。

 言い合う低い声の応酬、くぐもった鈍い物音。

 緊迫した空気がドア越しにもわかる。

 開けるか否かをしばらく躊躇していると、いきなり


「いやああああ!」


 という細い悲鳴が響く。思わず彼が一歩後退った瞬間、やにわにドアが開いた。


「え?」


 口の中で小さくつぶやく。状況が理解できない。

 乱れた髪、両手で不自然にブラウスの襟元を押さえている女子生徒。

 ハッとしたようにこちらを見る、銀縁眼鏡の奥の目はうっすらと濡れていて……


(ええ? だ、誰?)


 マドカと目が合った刹那、彼女は顔をそむけるようにして階段を駆け下りてゆく。


「先輩!」


 叫んで初めて、マドカはその女子生徒が『さっちゃん先輩』だとはっきり認識した。

 そして……



 314号室の中には、ドア側に背を向けて顔だけこちらを向けている角野が、乱れた息で茫然と立っていた。

 土気色の、べったりと汗の浮いたその顔には焦燥の色が濃い。


(……こいつ!)


 頭へガッと血が上り、マドカは目の前が一瞬、赤くなる。


「な、なな……」


 この男、ここで、嫌がる彼女を……!

 角野の表情が変わる。


「待て! 九条、違う、話を聞け!」


「うるせえ! てめえ最低だな!」


 言い訳なんか聞きたくない!

 沸騰した頭で彼は、階段を駆け下りたさっちゃん先輩の後を追う。



 走る。走る。走る。

 空は夕映えに染まり、どこまでも真っ赤だ。


 走る。走る。走る。

 不思議と疲れないし、息も切れない。


 走る。走る。走る。

 彼女がどこへ行ったのか、マドカにわかる筈はないのに。

 何故か、わかる、気がした。



 大きな樹の下。

 校門のそばにある、桜の木だなとマドカは思う。

 それにしては不自然なくらい遠くまで走った感触があるなと、淡い違和感が萌したものの。

 幹に寄りかかり、肩を震わせている彼女の姿を見た途端、彼女のことだけでマドカの心はいっぱいになった。


「……先輩」


 それでも少し弾んでしまう息で、おずおずと彼は呼びかける。

 肩を大きく揺らし、おびえたような目でこちらを見る彼女の瞳は完全に濡れていた。


「九条、くん?」


「はい、九条です。あの、先輩……」


 大体の状況は察せられる。

 でも、どう言葉を続ければいいのだろうか?


 それに、あの男が突然、学校内のクラブハウスの部室などという危うい場所で獣性を剥き出しにした、意味がわからない。

 しかし同時にこうも思う。

 あの男の行動の、意味なんかどうでもいい。

 大事なのは事実と結果。

 あの男はさっちゃん先輩を傷付けた。傷付けた!


「先輩、その……」


 その時彼は、彼女のブラウスの襟元がはだけ、全体的に緑がかった茶色の液体で濡れているのに気付いた。


 ……あの男はそう言えば、いつも緑茶のペットボトルを携帯していた。

 緑茶を口に含みながら、彼女へ迫ったのだろうか?

 抵抗した彼女は、ヤツの飲みかけの緑茶を浴びてしまったのだろうか?

 抵抗にかっとなり、あの男は彼女のブラウスの襟元を……!


「ちくしょう、あのバカ野郎、許せねえ!」


 考えるより先に、呪詛にも似た罵りが口をついて出る。

 ぼんやりとマドカを見ていた彼女が不意に、力尽きたようにしゃがみ込む。そして……くつくつと、狂気じみた声音で泣き笑いし始めた。


「せ、せせ、先輩、先輩その……」


 マドカには、立ったり座ったりしながらおろおろと彼女へ声をかけるくらいしか、他に何も出来なかった。

 傷付いた彼女を慰めることも出来ない、幼く愚かなガキである自分が心底、嫌だ。




「ごめんね、ヘンなところ見せて……」


 発作的な泣き笑いが治まると、彼女は、目元をぬぐいながら立ち上がり、桜の幹にもたれかかった。

 彼女が、ボタンが取れてしまったらしい襟元を手で隠しているので、マドカは少し迷った後、自分のブレザーを脱ぎ、それを正面からかけて彼女を包んだ。


「……ありがとう。優しいね、九条君」


 儚く笑んだ彼女の瞳から、耐えきれなくなったしずくが一筋、流れて頬を伝った。


「先輩、その……警察、行きませんか? 俺、証言しますし」


 無い知恵を絞り、マドカはそう言ってみた。

 それが彼女にとって正しいかどうか判断しきれなかったが、少なくともあの最低エロ教師が、何食わぬ顔でこのままこの学校で勤め続けるなど、到底許されない。

 少なくとも、あの男がこれ以上自分のクラスの担任をするなんて、吐き気がする。


 しかし彼女はあきらめたように首を振った。


「いいよ……今更だし」


「え? 今更?」


 彼女の、乾ききった不穏な言葉に、マドカは背筋がぞっとした。


「今更だよ。エイイチ君……角野先生は。私の母方の従兄で。私は小学生の頃から……、あの人のおもちゃみたいなものだし」


「……え?」


 彼女は再び、儚く笑む。


「九条君、軽蔑した?私は……とっくの昔に穢れてるんだよ?」


「け、穢れてなんか! 先輩は穢れてなんか、いません! 先輩は、先輩は誰よりも、きれいな人です!」


 マドカが叫ぶと、彼女はほろほろと、透き通った涙をこぼした。


「ありがと…そんな風に、言ってくれるだけで……嬉し…」


 それ以上は言葉にならない様子で、彼女はうつむく。

 

「先輩。俺、ガキだし何も出来ないかもしれませんけど。でも、出来る限り先輩の力になりたいです! あんな横暴なセクハラ野郎、何としてでも社会的制裁を……」


「九条君。私はアイツの社会的制裁なんか、どうでもいいんだよ。それよりも……」


 彼女は不意に顔を上げ、奇妙なまでに乾いた瞳でマドカを凝視した。


「キミ。本当に、私のそばにいてくれるの?」


「もちろんです!」


 こわばった彼女の頬が、かすかにゆるむ。


「じゃあキミ……、()()()()()()()()()()()()()()?」

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