2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ⑨
「お前、何のつもりだ。俺みたいなロートル食らっても、大して美味くないだろうが」
かすみ始めた目を凝らし、スイは言った。
「うふふ」
お茶の濃いにおいをさせながら、エチサは一歩、スイの方へ寄ってくる。
「普通に考えたら美味しくはなさそうだね、確かに。でも腐りかけの果物って、なかなかオツな珍味だそうよ。食前酒代わりにいただくのも悪くないかなって」
「けっ、言ってろ」
スイの額に浮いた汗が、玉になって滴り落ちる。
憎まれ口をたたいているが、彼に余裕はない。
彼の周囲に浮かんでいる光の四面体のうち、ひとつふたつ、力尽きたように消滅してしまった。
呼吸が浅く早くなり、知らず知らずのうちにがくりと片膝をついてしまう。
「我慢しなくていいのに。相変わらず頑固ねえ、エイイチ君」
口許に笑みを含み、もう一歩、彼女は近寄ってくる。
「ほら、いいにおいでしょ?」
健康な少女の肌のにおいと撚り合わさった、濃い緑茶――彼にとっての依存薬物のにおいに、スイの理性は飛びそうになる。
(……くそ!)
出来ればやりたくなかった、最後の手段をとる。
ワイシャツの胸ポケットに、ボールペンとして仕込んでおいた使い捨ての注射器をふるえる指で取り出し、自分の太腿に突き刺した。
「あらまあ」
わざとらしい声を上げた後、くすくすとエチサはしのびわらう。
「インスリン用の注射器を改造して、ポケットに入れて持ち歩いてるの? ……末期的ですこと」
「ほっとけ」
吐き捨て、彼は大きく息をついてよろよろと立ち上がる。
さっき消滅した正四面体が、鈍い輝きを増してよみがえる。
「グダグダ言ってねえで、さっさとおねんねしろ!」
正四面体が一斉にエチサへ向かって飛んでゆく……が。
彼女に触れる前に、すべての正四面体が崩れて消えた。
「ふふふ。私は昔の私じゃないのよ、エイイチ君。エイイチ君が、昔のエイイチ君とは違うのとおんなじ。私には無効だったけど、なかなか鋭い、いい攻撃だったよ。だから落ち込まないでね~センセイ。いいえ……【eraser】・スイ」
攻撃のすべてを無効化され、愕然としているスイへ、ニヤリと醜悪なまでに悪い顔で、エチサは笑んだ。
「……ベストは、憧れの先輩の首筋にむしゃぶりついている、セクハラエロ教師の角野先生の姿を彼に見せつけることだったけど。まあ、次善の手でも十分インパクトはあるから、良しとしましょうか」
楽し気にエチサはそう言うと、突然、自分で襟元を、ボタンを引きちぎって寛げた。
「何を……」
するつもりだ、と言う暇すら、スイにはなかった。
彼女は細い、切なげな声で
「いやああああ!」
と叫び、体当たりするようにドアを開け、走り去った。
「先輩!」
ドアのところで慌てたような声がした。
九条マドカが、信じられないものを見てしまった青ざめた顔で、そこに立っていた。
「な、なな……」
言葉にならずわなわなと震える彼に、スイは、エチサに嵌められたことを自覚する。
状況から彼が類推したであろうことなど、説明されるまでもない。
「待て! 九条、違う、話を聞け!」
「うるせえ! てめえ最低だな!」
常日頃の彼と違う荒い言葉で叫び、踵を返すと階段へ向かう。
「待て、行くな!」
太腿に刺した注射針が、動こうとした瞬間、鋭く痛む。思わずスイが足を止めた、その一瞬の隙に事態は決した。
ドアの向こう側の、次元が歪む!
「ちくしょう!」
たった今、ドアの向こう側が『現実の因果律』から外れた。
たとえるなら『負の領域』、【eraser】といえどもおいそれとは入れない。
アチラが認めたモノ以外、息も碌に出来ない虚の世界なのだから。
舌打ちをし、スイは携帯電話を取り出す。
「管理人、緊急事態だ! 彼が……【dark】のテリトリーへおびき出された! 彼のタグを、俺のスマホヘ繋いでくれ!」