2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ⑧
そろそろ昼休みが終わる。
マドカは腹を立ててぷりぷりしながら、食堂を後にする。
後ろから、明らかに面白がっている素振りの及川がついてきているが、無視だ、無視。
「……あ、九条君」
「ええ? あの、えと、どうされたんですか?」
さっちゃん先輩とA棟のエントランスで鉢合わせする。
意外すぎて、マドカは意味もなく両手をパタパタ振るという、挙動不審な行動を取ってしまった。
「キミ、テストの日からしばらくお休みしてたでしょ? 今日から復帰したって、さっきたまたま角野先生から聞いて。一年五組へ様子を見に行ったんだけど……食堂でご飯食べてたんだね」
「あ、はい。たまたま。友達が行くっていうから付き合って……」
お前が行こうって言ったんじゃん、と小さい声で及川がぶつぶつ言っていたが、無視だ、無視。
「ふふ。元気そうでよかった。あのね、もし元気だったらお願いしようかなって思ってたことがあったんだけど……」
「はい、元気です! たくさん休んでバリバリ元気になりましたので、なんでもお手伝いします!」
鼻息も荒くそう答えるマドカが可笑しかったのか、彼女はくすくす笑った。
「そう、それならお願い。今日は金曜だから会の活動日じゃないんだけど、そろそろHPの更新をしたいなって思っているんだ。ホントは昨日一昨日にやっておくつもりだったんだけど私もちょっと体調崩したせいで、会の活動、休んでいたんだよね」
「え? ホントですか、大丈夫ですか?」
「うん、もうすっかり本調子に戻ったから、大丈夫」
いつもの優しげな口調と声で彼女はそう言ったが、ほんの一瞬ながら、口許がふっ…と冷笑を含んだように見え、マドカは思わず何度か瞬きした。
「別に月曜でもいいんだけど。でも月曜には次回更新分のクイズを刷って掲示しに行く作業もあるから、HPの更新は出来たら今週中に済ませたいし。九条君にも覚えてほしいから、一緒に作業してほしいんだけど……」
「わかりました。放課後、クラブハウスの方へ行きます!」
じゃあお願い、と彼女が言った時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
手を振ってB棟へ戻ってゆく彼女の後姿を見送っているマドカの様子を見て、及川は色々と覚ったが。
面白いので、この辺の情報はしばらく黙っていようと密かに思い、ほくそ笑んだ。
放課後になる、少し前。
クラブハウス314号室に人影があった。
長い髪を三つ編みのおさげにした女子生徒……あるいは。
女子生徒の姿をした、ナニモノか。
と、314号室のドアが静かに開いた。
「六限の授業はさぼったのかな? 安住サチエさん」
角野……否。
今の彼は【eraser】のスイと呼んだ方が正しいかもしれない。
「あら、センセイ。センセイこそ、1-5の夕方のHRはサボってきたの?」
「君が心配するようなことじゃないね。副担任の先生が、何のためにいると思ってる?」
「でも、少なくとも密室で、教え子の女の子と二人きりでいるためじゃないよね?」
「もちろんだ。……お前が、ホントに『教え子の女の子』だったらな」
「ホントかどうかは現実じゃあまり大事じゃないのよ。どう見えるか……そっちの方がよっぽどダ・イ・ジ。まったく……人間の社会って進歩がないわよね」
安住サチエの姿をしたナニモノカから、ぐわん、と空を切るような音を立て、黒い、鎌のような三日月型の刃状の影がスイの首へ伸びる。
スイの全身から陽炎のようなものが揺らめき、振り払うように刃の影をいなす。
「……お前」
スイの額に、暑さのせいではない汗が浮いていた。
「この前のような小物じゃないな。もしかして……エチサ、なのか?」
フフフ、と楽しそうに彼女は嗤った。
「さすがはエイイチ君。そうなのよねえ、私とサチエの区別がつくの、昔っからエイイチ君だけなんだよね。不思議だなあ。ひょっとしてキミ、そんなにサチエのことが好きだったの? あ、もしかして私の方が好きだった? お堅いサチエと違ってご要望があれば何でもシてくれそうな私って、若い男の子の、イケナイ夢だよね?」
ばかばかしい、とスイは吐き捨てる。
「その辺のことはお前に答える義理はないし、そもそも答えても無意味だ。エチサが出てきたってことは……彼を、本気で食らうつもりなんだな?」
「『お前に答える義理はないし、そもそも答えても無意味』だよ、角野センセイ。でも彼って……ホントかわいいよね。まさに、食べちゃいたいくらい」
「食わせるか、莫迦」
スイは息苦しいのか、首元のネクタイを少し緩めた。
揺らめき立つ陽炎が一瞬、大きく膨れ上がり……スイの周辺にこぶし大の数個の正四面体が、鈍く輝きながら浮遊する。
「変な夢を見ていないで、さっさと母体のところへ帰れ、エチサ。帰って、もう寝てろ……永遠に」
「どうせ眠るんなら、私だけじゃ面白くないわねえ」
エチサ、と呼ばれた少女の姿をしたナニモノカはにやにやする。
その手にいつの間にか、『トクホ』と書かれた濃い緑色のパッケージの、ペットボトルの緑茶があった。スイの目に一瞬、鋭い焦りが閃く。
「やーね『トクホ』なの? エイイチ君たらおじさんくさーい。カテキンが二倍ってこと? ずいぶん……濃い薬効が必要な身体なのね」
言い終わるや否やエチサは、ペットボトルの口を開け、中身を全部、自分の頭上から手加減なくかけた。
「おい何をしてる!」
さすがに焦りのにじむ声でスイが叫ぶと、
「暑いから、お茶をかけてほてった身体を冷やしてるんだよ」
けろりと彼女はそんなことを言い、挑発するように、意味ありげに口角を上げた。
お茶がしみ込んだ白いブラウスは、彼女の下着の形をいやになるほどくっきりと透かせている。
「ねえ、エイイチ君。のど渇いたんじゃない? それだけ薬効の必要な身体で、それだけ能力を顕現させて。……飲んでいいのよ、エイイチ君。私の髪や首やブラウスに、たっぷりトクホのお茶がしみてるよ? なめたり吸ったり、してもいいんだよ?」
「阿呆。そんな変態じみたことできるか」
「変態でいいじゃない、死ぬよりましでしょ?……ね?」
言いながらエチサは、癇性なほどきつく結ばれたおさげのゴムをほどいた。
「……ね?」