2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ⑥
今いる大きな通りから、普段マドカがあまり行かなかった方角へ折れ、少し歩いた先にその店はあった。
上品だがお高い風でなく、程よく親しみやすい雰囲気のまだ新しいカフェだ。
「喫煙室、空いてますか?」
入店後すぐ、入り口近くにいた黒いギャルソンエプロンのウエイトレスへ角野は問う。
ハッとしたように振り返り、マドカを見ると
「病み上がりの人を前にナンだけど。煙草、いいかな?」
と、少々ばつが悪そうに言う。
別に構わないです、と答えながらマドカは、へえ、この人煙草吸うのかと、ちょっと意外に思った。
たとえその場で吸っていなくても、常習の喫煙者はなんとなくわかるものだ。
角野にはそんな気配というか、においはなかったのだが。
「いやね、学生の頃は結構吸っていたけど、だいぶん前にやめてはいたんだよ。ただ最近、ちょっとプライベート方面でごたつくことがあって……悪癖がぶり返してしまったんだよね」
角野はもぞもぞ言い訳がましくそう言い、店員に案内された席にマドカと着く。
彼はさっそく灰皿を引き寄せ、あまり見たことのない、外国のものらしいパッケージの煙草の箱と、使い込んだ風のジッポライターを取り出した。
慣れた仕草で紙巻を一本取り出してくわえ、ライターの石を擦って火を点けた。
思い切り煙を吸い、心持ち顔を下向きにしてゆっくりそれを吐き出すと、ようやく彼は表情をゆるめた。
何という銘柄の煙草か知らないが、独特のさわやかな香りがする不思議な煙草だった。
今気付いたが、角野の目の下にはうっすらと隈がある。
どこか気だるげな、やる気のなさそうな雰囲気は彼の常態だと思い込んでいたが、実は本当に疲れているせいなのではないかと、マドカはふと思った。
「ああ、ごめん。一服できたおかげで落ち着いたよ。さあ、何を頼む? 遠慮しないで何でも好きなのどうぞ」
そう言いながらメニューをこちらへ差し出すが、本当に『何でも』頼めるものではない。
しかしだからと言って一番安いレギュラーコーヒーだけ、というのも、逆に『先生』という立場の人には失礼かもしれないとも思う。
悩んだ結果、レギュラーよりちょっとだけ高い、アイスカフェオレを頼むことにする。
角野は店員を呼び、アイスカフェオレとレギュラーコーヒー、そして何故か照り焼きチキンのホットサンドをひとつ、食べやすい一口大に切って提供してくれと頼む。
「ウチの管理人オススメのメニューらしい。食べて、感想を聞かせてほしいんだそうだよ、特に若い子の。彼女、これを店の目玉商品に育てるつもりなんだろうな」
「……はあ? そうなんですか?」
元々腹はへっている。
食べろと言われるのなら食べるのはやぶさかではない、が。
「あのう先生。ずいぶんと、その……管理人さん? と仲が良いんですね。ひょっとして恋人…とかですか?」
(自分のためもあって)マドカが探りを入れてみると、ちょうど煙草を吸い込んだところだった角野は、盛大にむせた。
図星なのかと思いきや、むせながらも必死で彼は笑いをこらえ、最終的にこらえきれなくなったのかテーブルの上でのたうっているので、マドカとしてはどう解釈していいかわからなくなった。
「……いやごめん(ケホケホ、と軽く咳をする)。まさかの仮定だな、ウケた。あの人はそんな、色気のある相手じゃないんだよ。強いて言うなら、上司みたいな親戚のおばちゃんってとこだな。あー、年齢不詳のご婦人だしそこそこ美人だろうけど、俺より相当年上だしな。なんせ学生の頃から、俺はあの人の店子でね。だから、長いこと世話になってはいるかな?」
「あ、そういう……」
要するに、母親代わりみたいな人なのだろうとマドカは解釈した。
やがて注文したものが順番に運ばれてくる。
アイスカフェオレもほんのりマスタードが利いた照り焼きチキンのホットサンドも、予想以上にクオリティが高くて美味しかった。
九条マドカを自宅へ送った後、角野――スイは、丘の上の一軒家へと戻る。
途中、ポケットから煙草とライターを取り出し、紙巻を一本くわえて火を点けた。
歩き煙草はマナー違反かもしれないが、この丘には誰もいない(誰も入れない)し、ある意味非常時でもある。
(しっかし。ついに煙草までイっちまったか。マジで末期のジャンキーだよ……)
自嘲含みに彼は、煙草のフィルターを噛みしめる。
しかし、そんなことを言ってはいられない。
末期のジャンキーだろうが何だろうが、正気を失ってしまえば元も子もないのだから。
「おかえり。『デート』はうまくいったみたいだな」
帰宅するとすぐ、リビングで寛ぐ『管理人』が声をかけてきた。
スイは肩を竦め、携帯灰皿へ吸殻を落とす。
「うまくいったというか。ターゲットはようやく俺を、人間と認識してくれたようだよ。本当に……本当に最低限の信頼を、辛くも繋いだってところだ。……やれやれ」
「それはそうとして。私は『親戚のおばちゃん』なのか? せっかくデートの場所まで用意してやったのに失礼だな。せめて『おねえさん』と呼んだらどうだ?」
やや機嫌が悪そうに彼女は言うが、
「一応『美人』だとフォローしといただろう? 『ばあさん』とは言わなかったんだから、褒めてもらいたいくらいだね」
擬悪的な返しをするとスイは、彼女の向かい側に座り、再び煙草に火を点けた。