2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ④
その翌日、放課後。
クラブハウス・314号室へ。
角野エイイチ……否。
【eraser】・スイが、向かう。
室内にいるのは理数同好会の会長である、安住サチエひとり。
彼女はテーブルの前に座り、会が所有しているやや旧式のノートパソコンへ何かを打ち込んでいる。
おそらくは会のHPの更新作業だろうが……。
「あら」
パソコンのモニターから顔を上げ、安住は冷ややかな笑みを『顧問』へ向けた。
「角野センセイ。九条君が来るかと思っていたのに。今日は彼に、HPの管理を覚えてもらいたいなと思って、準備していたんだけど」
「残念だな、彼は今日休みだ。……知っているんだろう? 白々しい『会長ごっこ』、今日は不要だぞ……【dark】」
サチエはニィッと嗤う。
後輩たちに女神とか聖母とか評されている優しげな顔が、酷薄に歪む。
「じゃあこれ、もういらないね」
彼女のてのひらには、半透明の白い球形のものがある。
『管理人』が彼女につけたタグだ。
「√2、ひと夜ひと夜に 人見頃……ふざけたコードを付けるわね。彼につけたのは球の体積の公式なのに」
「彼の身の上は心配だろうが」
「私の身の上は心配じゃないんだ?」
「心配する必要あるのか? よしんばあったとしても、お前の身の上を心配するほど我々は優しくないからな」
「冷たいね、エイイチ君」
その一言に、スイの身体からまぎれもない殺気がほとばしる。
「その名を、その姿で呼ぶな!【dark】!」
「まあ怖い」
まったく怖いと思っていない調子で言うと、彼女はパソコンの電源を落とす。
「ここは今のところ、現実の因果律の中だよ、角野センセイ。わかってるだろうけど、コチラにせよソチラにせよ、今は大したこと出来ないのよ~」
半ば歌うように安住……否。
安住サチエという女子高校生の姿をした、【dark】が言う。
「今日、彼が休んだのは何故? それで彼を、私から遠ざけたつもり?」
「彼が休むことになったのは半分以上、偶然の産物だがな。それなら彼がいない隙に、お前を何とかしようかということになったのでね」
ぶわり、と、スイの身体から陽炎に似た気配がうごめく。
彼は右の手を胸辺りまで上げ、てのひらを上に向けて構えた。
光の粒が集まり、どんぐりほどの数個の正四面体……すべての面が正三角形の三角錐が現れた。
「とりあえず……その子の身体から離れろ。さっさと離れて、母体のところへ帰れ」
「帰らない、と言ったら?」
少女の姿をした【dark】は楽し気にうそぶく。
「なら後悔しろ。……コッチはちゃんと、警告したんだからな!」
『な!』の声と同時にスイは、てのひらの上に浮かぶ光の正四面体を【dark】へ投げた。
哄笑に似た甲高く細い悲鳴を上げ、少女の身体に巣食っていた【dark】は、鋭い角錐の角に射抜かれ、四散した。
テーブルに突っ伏した安住サチエの姿を確認後、そっと部室のドアを閉め、スイはクラブハウスから辞した。
青ざめてよろめきながらも彼は、校門の近くにある大きな桜の木に近付く。
大木には癒しの力がある。
穏やかな『自浄』の力は、極端なすべてを原点へ戻す。
桜に寄りかかって何度も深呼吸をしているうち、ようやくスイの顔色が戻ってきた。
「……大丈夫か?」
養護教諭・音無こと『管理人』が、冷えた緑茶のペットボトルをスイへ差し出す。
黙って目礼し、彼はペットボトルを受け取ってキャップを外し、一息で半分近く、飲んだ。
「……ジャンキーだよな、ほとんど」
自嘲するようにつぶやくスイへ、管理人は曖昧に口許をゆがめる。
「……否定出来ない、か」
「出来ないな。だが……」
「いや、いい。……わかってる」
桜の幹から手を放し、少し寂しそうに彼は笑った。
「俺自身が望んだことの結果だ。誰かを恨む筋合いの話じゃない。それは……彼がたとえ、どちらを選んだとしても」
「スイ、しかし」
「……管理人。だからあんたは、あんたの仕事を全うしてくれればいい。どちらへ転んでも、な」
絶句している管理人へ、スイは背筋を伸ばし、不敵に笑って見せた。
「彼の獲得はパワーゲームみたいなものでもあるからな。正直、カワイイ女子高生のアチラさんと比べ、おっさんの俺は不利だけどよ。ヤロー相手にモチベが上がらねえのは、まあお互い様だからな。それでも……最後まであがくよ。俺は昔から、諦めが悪くて執念深いんだ」