2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ③
角野が持ってきてくれた蒸しパンをコーヒー牛乳と一緒に食べた後、いつの間にかマドカはまた、うとうとと眠ってしまった。
寝入る前、マドカは母の携帯へ、学校で倒れたこと、多分軽い熱中症らしいこと、担任が夕方に家まで送ってくれることなどをメールしておいた。
音無先生が保護者へ連絡したと言っていたが、マドカからも連絡しておいた方が母の心配も減るだろう。
(仕事中だろうから、読まない可能性もあるけどな)
母はマドカが中学生になって以来、介護士としてフルタイムで働いている。
今の職場は残業になることは少ないらしいが、時間中は目いっぱい忙しいので、業務時間中に連絡がつくことは稀だ。
まあ、さすがに学校からの連絡には出ただろうが。
約束通り角野は、四時二十分ごろになると保健室へ来た。
学校の正門前にタクシーを呼んでいるというので、連れ立ってそちらへ向かう。
荷物を持とうかと角野に気遣われたが、テスト中なのでさほどカバンの中身は詰まっていないからと断った。
西日とはいえ、まだまだ明るい陽の光が廊下の窓から差し込む。
ちょっとクラッとしそうになるが何とか耐え、マドカはゆっくりと足を進める。
「音無先生は多分大丈夫だろうって言ってたが。念のため、医者にかかった方が良いかもしれないな。最低明日一日くらいは家で休んでいた方が良いんじゃないかとも思うし」
「そう……ですね。念のため、明日は休ませてください」
マドカは言った。
こうして動くと、ヘンな疲労感が身体の芯にあるのに気付く。
まあ、一日寝ていれば治りそうな気もする程度だが。
「わかった。体調を整えて、また元気に学校へ来なさい」
真面目な顔でそう言う角野を、マドカは改めて見た。
(……え? コイツ、意外とイケメンかも?)
きりっとした眉、やや切れ長のすっきりした両眼。
高いというほどではないが、形のよい鼻梁。
キュッと引き結ばれた唇は、意志が強そうな印象でもある。
普段の彼には『だるいわー、面倒くさいわー』という雰囲気が身辺に揺曳しているせいで、なんとなく残念男子っぽく見えるが。
キリッとした真面目な顔をすると、途端にイケメン度が二段階くらい上がる気がする。
元がそう悪くないからかもしれない。
「? なんだ、どうした? 俺の顔になんかついてる?」
相手に怪訝な顔をされ、初めてマドカは、角野の顔をぼうっと見ていたことに気付く。慌てて目をそらした。
「あ、いえ。別に何でもないです」
理数同好会での自習の日に浮かんだ妄想『角野エイイチ・さっちゃん先輩の元カレ or 今カレ説』が不意に、実感を伴って胸に迫ってくる。
(いやいやいや、いくらなんでもソレはない。あの二人、そんな甘い雰囲気じゃなかった……多分)
校門の前にはタクシーが一台、止まっている。
角野は片手をあげ、タクシーの運転手へ合図した。
自宅に戻ると、仕事を早めに上がったらしい母が待っていた。
簡単に事情を説明する角野へ、母は、おばちゃん特有のよそ行きっぽい高い声で礼と労いを言い、いくらか上乗せしたタクシー代金を渡そうとして断られていた。
「あんた熱中症だって? テスト直前に急に無理して勉強してたからじゃないのぉ? 今のところは大丈夫っぽいけど、今日はご飯食べたらさっさと寝なさいよ」
くどくどと同じことを言う母へ、いい加減に返事をしながらマドカは自室へ向かう。
さっき母が言った何気ない言葉が、思いがけなく刺さった木のそげのように胸で痛んでいるが、気付かれてはいけない。
「入学式の時も思ったけど。角野先生、相変わらず男前だよねえ」
(入学式の時には……担任は、角野じゃなかった)
スーツ姿で髪を整えてはあったけれど。
口紅程度の軽い化粧しかしていなかった、アラフォーの宇田先生。
ベテランっぽい、あっさりした感じの担任の先生じゃない、と言っていたのだ、母は。
(宇田先生に、特別思い入れる暇も、機会もなかったけど……)
それでも。
みんながみんな、あなたを忘れてしまうのが悲しい。
あなたがいた筈の場所を、角野が占拠してしまうのが悲しい。
おそらく、角野に罪はないのだけれど。
彼は彼で、現実を生きているだけなのだろうけど。
……俺は、悲しい。