2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ②
今日、中間テストが終わった。
マドカは茫然と階段を降りる。
額ににじむ汗が不快だ。知らず知らずに彼は重いため息をひとつ吐き、何かに耐えるように軽く唇をかんだ。
下旬とはいえまだ五月なのに、このところ、やたら暑い。
今回のテストは中学までと比べ、厳しかったと言わざるを得ない。
そもそも、全体のレベルが中学までとは違うのだから当然ではあろう。
もちろん彼もそれくらい頭でわかっていたが、イヤというほど今回、その事実を肌で知ることになった。
一応、全科目そこそこ……少なくとも平均点以上、は取れたとは思うが。
(『平均点』じゃなあ……。1位以外はビリと同じ、とまでは言わないけどさ、上位成績者に、ギリギリでもいいから食い込みたかったよな)
頑張ったんだけどなあ。
少なくとも、中学時代の定期テスト時よりは、勉強したんだけどなあ。
でも多分、上位の成績は無理だ。無理……くくう。
(……甘く見た)
高校は、想像以上に魔窟だった。
そんなことをうじうじ考えていたせいか、マドカはすっかり足元がお留守になっていたらしい。
あと三、四段で床……という位置で足を滑らし、見事に転んだ。
驚いた誰かが叫ぶように自分の名を呼んでいる、のは、ぼんやり覚えているが。
そこから先、記憶は途切れている。
ふと気付くとマドカは、なにやら白っぽい場所で寝ているのに気付いた。
右手に窓があり、風が白いカーテンを揺らしている。
(どこだ、ここは?)
身動くと、背中の下で安物くさいスプリングのきしむ音がした。
(保健室、か?)
そろそろと身を起こしてみる。
額と首周りに、すっかり生ぬるくなった冷却ジェルシートが張り付いていてた。
当然ネクタイは外され、カッターシャツの第一ボタンも外されているが、それでもべったりと首周りに汗をかいていた。
「おや、目が覚めたか?」
軽い足音が近付いてきて、そう声をかけてくる。
パリッとした白衣を身に着けた、すらりとした肢体の凄味すら感じる美人が、白いパーテーションの向こうから現れた。
生徒たちに『保健室の女神さま』などと密かに呼ばれている、養護教諭の音無先生だった。
「あ……はい」
うなずき、ベッドから降りようとするマドカを彼女は制し、スポーツ飲料の小さなペットボトルを差し出した。
「待ちなさい。君は階段を踏み外して落ちた後、気を失ったんだ。頭を打った様子はないが、大事を取ってじっとしてなさい。気を失ったのはおそらく、寝不足と疲労のせいだろうが、軽い脱水も考えられる。この時期は身体が暑さに慣れていないから、思いがけなく重い熱中症になっている可能性もあるからな。帰る場合は、おうちの方に迎えに来てもらうか担任の先生にでも送ってもらうか。少なくとも、電車で帰るのはお勧めできないな。帰宅後は、食べられるのなら消化のいいものを食べて、水分を出来るだけ摂る努力をして、早めに休むように、な」
「あ…、はい。お世話になりました」
頭を下げた後、彼女からスポーツ飲料を受け取り(右腕を伸ばすと若干痛んだ。打ち身があるようだ)、マドカはまず、それで口をしめらせた。
なんだかものすごく美味しく感じられる。
音無先生の言う通り軽い脱水状態かもしれないと彼は思った。
「音無先生。九条君の様子は……」
保健室の引き戸を開けながら、問う者がいる。
声から考え、角野だろう。
「角野先生か。彼はついさっき目を覚ました。大事を取って、もう少し休ませた方がいいと私は思う。もし夕方ごろ時間に融通がつくようなら、あなたが彼を送っていってくれないかな」
「わかりました。……九条君」
呼びかけながら、角野はこちらへやってくる。
「蒸しパンとコーヒー牛乳を買ってきたんだけど。食べられるようなら食べなさい。もう午後一時を回っているから、腹も減っただろう」
白いレジ袋を差し出す角野へ、マドカは深く頭を下げてありがたくもらう。
スポーツ飲料を飲んだからか、腹がひどく減っているのが急に自覚されてきた。
「四時半ごろに仕事のめどがつきそうだから、保健室へ迎えに来るよ。それまでもう少し休んでなさい。タクシーで送ってゆくから」
「あ、いえ。タクシーだけ呼んでいただいたら、それでいいです」
「まあそう言わず送ってもらいなさい」
音無が口をはさむ。
「高校生活に慣れていない時期にテスト勉強で無理をして、おまけにここ最近の急激な暑さ。君は多分、自覚以上に疲れているし参っているはずだ。今日のところは大人に甘えなさい」
そこまで言われれば、マドカとしても断りにくい。
角野と関わる方がストレスになるけどとちょっと思うが、まさかそんなことを本人に言う訳にもいかない。
申し訳ないけどよろしくお願いしますと頭を下げ、大人たちがその場からいなくなってから彼は、蒸しパンの包装紙をそっと破り、白い生地をちぎって口に入れた。
粉の香りや甘みが、いつも以上に強く感じられた。