2 中心は、0(ゼロ)Ⅱ①
理数同好会の活動日は、月・火・水・木の週4日が基本だ。
定期テストの一週間前は校内の規定により休止、文化祭前の準備など、特別な場合は毎日+土曜日まで活動することもある。
ただ、『テスト前』に部室で自習をすることは、顧問の許可と指導がある場合は認められている……らしい。
(だからって……)
活動のしょっぱなが『数学の自習』って、どんな罰ゲームだよ!
「コラ九条君。不等号の向きが逆になってるよ。不等式の両辺にマイナスの実数を掛けたり割ったりする場合は、不等号の向きは逆になる。負の数は数が大きいほど、つまりゼロから離れれば離れるほど小さくなるんだから」
手元のノートを覗き込んだ角野に、マドカはまた同じ指摘をされた。
「は、はい~」
(り、理屈はわかってるけど、うっかりするんだよ~)
この高校へ入学できたのだから、マドカも一応、人並みちょい上くらい数学は出来た(中学では)。
でも、どちらかと言えば文系の科目が得意な方だ。
国語などは、漫画中心とはいえ並の子供以上の読書量を誇るからか、特別勉強しなくてもそこそこやれるし、同じ理由で歴史や地理・公民もある程度、読んだものから勝手に雑学っぽく頭に残るので、社会科方面も特に困らない。
真面目に勉強したのは英語くらいなものだが、それだって数学や物理よりは楽だった。
(なのに理数同好会へ入会するんだから……我ながらよくやるよなあ)
斜め向かいの位置で問題集を解いていた安住会長――本人の希望もあり、『さっちゃん先輩』と呼ぶことになったマドカのマドンナ――が、手を止め、ほほ笑ましそうに自分と角野のやり取りを見ている。
彼女のそばにいたいがために苦手な数学に取り組んでいるんだから、我ながら健気(莫迦)だ。
「あのうセンセイ、ちょっとここ、わかり難いんですけど…」
リョウ先輩こと佐倉が手を挙げたので、ようやく角野はマドカのそばから離れてくれた。
ホッと息を吐く。
このメンバーの中で一番数学が出来なさそうなのはマドカだし、担任でもある角野がある程度以上マドカを気にするのは当然だが……はっきり言う、鬱陶しい。
(そりゃ、ありがたいっちゃありがたいけど。角野は案外、教えるのうまいし)
今までぼんやりしていたというか、生半可だった理解がくっきりしてきたのは事実だ。
「そう言えば。ヒガシ先輩はここで自習をしないんですか?」
マドカが何気なくリョウ先輩に問うと、彼女は顔をしかめた。
「アイツ、数学の自習は必要ないんだってさ。数学の問題は、見たら自然と答えがわかるんだって」
「……はいい?」
「意味不明だよね。でも、マジでそうらしいんだよね~。あー見えてアイツ、数学と化学に関しては断トツ学年トップだし、基本理数系は余裕で上位をキープしてるんだよね。あームカつく。将来、禿げる呪いでも掛けてやろうかしらん」
「あはは。いや、呪いはまずいですよ先輩。でも……すごいんですねえ、ヒガシ先輩って。天才なんだ」
「でもその反面、英語とか社会とかはキワドイんだよ。今日は英語の補講に強制参加させられてるらしいから、全然すごくないよ~」
そんなことを言いつつ、彼女も上位の成績をキープしていそうだ。
ユルそうに活動している同好会だが、『理数同好会』に集まるメンバーは伝統的に成績上位者が多いらしい、と、どこから仕入れてくるのか情報通なところのあるクラスメイトの及川から後になって聞き、マドカは慄いた。
会員として恥ずかしくないよう、今まで以上にマジメにお勉強しなくてはなるまい。
少なくとも、さっちゃん先輩に無様なところは見せられない。
たとえ普段はヘタレであっても、マドカにも最低限、恋する男の意地とか沽券があるのだ。
「エイ……あ、角野先生。ちょっとここが……」
さっちゃん先輩の声に、マドカの近くで監視?していた角野の身体から一瞬、殺気(殺気がどういうものか知らずに生きてきたマドカであっても、本能的に危険を感じるくらいすさまじい、ナニか)じみた気配が発した。
しかし瞬く間にその気配は消え、いつも彼がまとっている、どことなく気だるげな雰囲気に戻ると
「おー、どこだ~」
と言いつつ、さっちゃん先輩の方へ歩いていった。
(――エイ…?)
うっかり出てきた風の、呼びなれた感のある声音。
エイ…なんとか、と、彼女は普段、角野を呼んでいるのだろうか?
(アイツの……下の名前、か?)
マドカにとって角野はついこの間、次元のすきまから生えてきた?男だ、ヤツの下の名前が何なのかは知らない……否。
知ってる。
作られた(としか思えない)『入学式の日の、担任の挨拶』の記憶。
自己紹介で、奴は黒板にこう書いた。
『角野 エイイチ』……と。
……何故『今年度から顧問になった』ばかりの男の教師を、彼女は下の名前で呼ぶのだ?
ひょっとして、元から知り合いなのか?
知り合いだけど、学校内ではケジメとして先生と生徒として接しているのか?
たとえば、親戚とか親しい幼馴染とか……元カレもしくは今カレの可能性も否定でき……。
「おい」
不意に肩をトントンと叩かれ、マドカは我に返る。
少しあきれたような目でこちらを見ている、角野の顔があった。
「目を開いたまま寝るな。疲れてるんなら、早めに家へ帰れよ」
言われた意味をしばらく考え、いえ大丈夫です、と答え、マドカは姿勢を正す。
どうやら、書く姿勢のまま固まり、あれこれ考えていたマドカの様子が、目を開いたまま寝ているように見えたらしい。
シャーペンを握り直し、彼はノートを見直す。
紙面に乱舞するたくさんの不等号が何故か、己れを嘲笑っているように見えて仕方がなかった。