1 中心は、0(ゼロ)⑥
翌朝。
マドカは今日も早めに登校する。
例の『特別製』らしいストラップは、悩んだ末、愛用のスマホにつけた。
せっかくもらったのだから、と誰にともなく(自分に対してかもしれない)言い訳しながら。
まあ、三角定規風の『三平方の定理』チャームに比べ、黒い球に『4/3πr³』の文字が浮かんだ『球の体積・公式』チャームは市販品に近いというかそこそこ洒落ていて、つけても安っぽさや違和感がない。
いつも通り校門が見えてきた辺りでイヤホンを外し、ブレザーの胸ポケットへ仕舞う。
一度足を止め、肩からずれそうになっていた通学用リュックのショルダーハーネスの位置を直す。
そしてスラックスの右側のポケットからスマホを出し、操作をしていると、
「九条君?」
と、後ろから声をかけられた。
(うわ、マジか!!)
聞き覚えのありすぎる声、喜びよりも混乱が大きい。
おそるおそる、マドカは振り返った。
少し離れたところから、マドカのマドンナ・アズミ(安住、だろうか?)会長がゆっくり歩いてくる。
曇りひとつないレンズの輝く銀縁眼鏡に、隙なくきっちり整えた三つ編みのおさげ。
しわひとつないブレザーにプリーツスカート。
野暮ったい、くるぶしまでのソックスはあくまでも真っ白で、足元はきれいに磨かれた黒のローファー。
さながら、学校案内のパンフレットを飾る写真のようないでたちだ。
毎日こんなにきちんとした格好をしていて疲れないのだろうか、と、マドカはふと思った。
かすかな哀れさ……のようなものが、何故か胸をかすめる。
「おはよう。おとつい階段の踊り場で会った時も、早い時間帯から学校にいるんだなって思ったけど。いつも早いんだね」
「あ、は…はい、ソウデスね。ボク、早めに学校へ行く癖が昔からあるんです」
(あー、くそ。つまらないことしか言えないなぁ)
焦りながら思うが、じゃあどういう話題だと気が利いているのか、マドカにはまったく分からなかった。
こういう時に役に立たないなんて、何のために山ほど少女漫画を読んできたのかと、見当違いな怒りがわいてくる。
「あ、それ……」
スマホヘ目をやり、彼女は笑う。
「記念品、もらってくれたんだ? 昨日はたまたま、進路説明会があったから私、クラブハウスへは行ってないんだけど。角野先生が渡してくれたんだね。角野先生は九条君のクラス担任だし、親しみもあるよね? 今年度からあの人が、ウチの顧問になったんだ」
「ああ……そう、なんですね」
なんとなく連れ立って学校へ向かいながら、どうでもいい話をする。
角野の存在は基本鬱陶しいが、先輩との話のネタになるなら、いいか。
どこかふわふわとしながら、マドカはそんなことを思う。
「実はクイズの掲示、活動の一環として去年の秋から続けてるんだけどね。参加者がほとんどいないんだ。(まあそうかも、とマドカは思うが、さすがに言えない)途中から、三回参加で記念品進呈ってことにしたけど、実際に記念品を渡せるくらいクイズに参加してくれる人が、そもそもいないのが現状なんだよね。だから、そろそろやめようかなって思っていたんだけど……」
「ええ? そうなんですか? やめないで下さいよ、ボクあのクイズ楽しみにしているんです」
うふふ、と、彼女は笑う。
その瞬間、彼女の片頬に浮かぶ小さなえくぼに気付いた。ドキン、と彼の胸が鳴る。
「じゃあいっそ、作る方へ回らない? 九条君」
「はい?」
間抜け面でそう問うと、彼女は表情を改めて立ち止まった。
「強制じゃないけど。入会しない? 九条君。記念品渡せるくらいウチのクイズに関わってくれた、それも一年生って九条君だけだし。少なくともいつ遊びに来てくれても大歓迎だから、まずは見学に来てね」
じゃあ、と手を振ると、彼女は校門をくぐって三年生の教室があるB棟へと向かった。
彼女が肩にかけている通学用リュック、それのファスナーの持ち手に、丸い、半透明の白っぽいチャームがついている。
色以外はマドカがつけている、『球の体積・公式』ストラップに似ている。
多分、マドカのと同じ『特別製』のチャームなのだろう。
(なんだか……おそろい、みたい?)
思うと急に恥ずかしくなった。
顔を赤くしたまま、彼は急ぎ足でA棟の自分のHRへ向かった。
安住サチエは自分のロッカーへ荷物を入れようとして、通学用リュックに異物があるのに気付いた。
白っぽい、小さめのスーパーボールほどの球形のチャーム。
球の中央部分に、黒い文字が浮かんでいる。
「√2……ひと夜ひと夜に 人見頃…ってこと? …ふふっ」
彼女の薄い唇が刹那、酷薄に歪んだ。
「……小賢しい。まあでも……」
銀縁眼鏡の奥の瞳が、冷たく光る。
「しばらくはこのまま、乗っていてあげるね。角野先生」