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ある霧の夜に  作者: 大黒 天(Takashi Oguro)
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本編

ある霧の夜に

大黒 天(Takashi Oguro)


 携帯を畳みながら俺は、横目で壁にかけてある時計を見た。

 午前三時十七分。外はすでに深い闇の中だ。俺は携帯と財布をジーンズのポケットに突っ込み、車のキーを左手に持ったまま玄関を飛び出した。



 話は数時間前にさかのぼる。

 俺は三年間付き合っている彼女「ナナ」の携帯に電話を入れた。用件はというと、今週末に予定していた、ナナの誕生日デートのキャンセルだ。

 今週の土曜日は、ナナの二十一歳の誕生日だ。けど、その当日に突然の土曜出勤が入ってしまった。どうせいつもの如く、仕事は午前様だろう。水族館へ行って、その後に夕食を食べに行く計画もすべてパーだ。

 仕事を断りきれなかった俺も悪い。けど、仕事をほっぽり出すわけにもいかない。ナナになんて言い訳しようか……気が重い。俺は気だるい思いを抱えて、携帯を手に取った。


「あの……さ、今週末のデートなんだけど、急に仕事が入っちゃってさ……」


 これにはもちろん、ナナは憤慨した。もともとナナは気の強い女だ。その上、言い出したら人の話などろくに聞きやしない。自分のいいたいことをマシンガンのように立て続けに放つだけだ。


「ずーっと前から約束してたじゃない! なんで今頃、そんなこと言うわけ?」

「だからさ……急に仕事が入ったんだって……」

「あっそ。どうせカズキは、あたしより仕事の方が大事なんでしょ?」

「だからごめんっていってるじゃねえか。また今度に……」

「誕生日デートでしょ? その当日じゃなきゃ、意味ないじゃない!」

「だからごめんって……」


 話すこと十分、二十分……数時間。話は平行線をたどるばかりだ。さすがの俺も、だんだん苛立ちが募ってきた。そして、言ってはいけなかったこの一言。


「うるせえな! 俺だって忙しいんだよ! いちいちお前の都合にかまってられるか!」


 そう怒鳴った直後、火のついたような泣き声が、携帯越しに聞こえてきた。頭が真っ白になり、どうにもならない後悔の念が頭を巡る。


「カズキのバカッ! バカバカバカバカバカッ!」


 ツーッ、ツーッ、ツーッ、ツーッ、ツーッ、ツーッ……


 俺は震える手で、電話をかけなおした。けれど、返ってくる返事は何度かけても同じだ。


「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません……」


 もはや考える猶予なんてない。俺はすぐさま、ナナの部屋へと向かうことにした。

 これが話の一部始終だ。



 左手に車のキーを持ったまま俺は、静かに玄関の戸を閉め、鍵をかけた。さすがにこの時間だ。家族や隣人を起こしてしまってはまずい。

 外に出ると俺はすぐさま、外の景色を見渡した。

「なんだこりゃ……酷い霧だな」

 景色を見渡した俺は驚いた。あたりは一面、どっぷりと深い霧に覆われていたからだ。今、俺が立っている場所からは庭木がうっすらと見えるだけで、遠くの景色どころか、少し離れた場所に停めてある自分の車さえもはっきりとは見えない。俺の身の回りにある全てのもの……いや、俺自身も真っ白な世界に呑み込まれてしまったかのような、そんな錯覚が俺の頭をよぎる。

 けれど、躊躇している暇はない。一刻も早く、ナナのところにいかなくては。俺は急いで車に乗り込み、エンジンを立ち上げた。



 広い国道から右手に入り、目印のコンビニを左手に見ながら慣れた県道を突っ走る。この道をまっすぐ行けば、ナナが住むアパートはすぐに見えてくる。けれど、今夜みたいな深い霧の中では、散々走り通した道もまるで別世界だ。

 霧の中を突き抜けてくるフロントライトが見えてきて、ようやく対向車に気づく。数メートル先まで近づかないと、他の車も見えないくらいだ。こんな状況では、スピードなんて出せやしない。本当だったら霧の中をすっ飛ばして、今すぐナナの顔を見てやりたい、頭をなでてやりたいのに。ちりちりと燃える焦燥感を抱きながら、俺はゆっくり、ゆっくりと道を進んだ。


 霧の中を走りながら、俺はある人の言葉を思い出していた。


「自分が辛い時、余裕がない時にこそ、相手を思いやることを忘れてはいけない。それが、恋愛をうまく続けていくコツだよ」


 この言葉は、俺が大学生時代の時、お世話になった女性の言葉だ。お互い遠く離れた場所に住んでたけれど、時折メールのやりとりもしたり、悩みの相談にも乗ってもらったりと、簡潔に言えば彼女は、俺のお姉さん的存在だった。その言葉を聞いた当時、俺には彼女がいなかったので、いまいちピンとは来なかった。彼氏、彼女の関係で、思い思いやることを知らなかったからだ。

 だけど今、俺はこの霧の夜に、彼女の言葉をぐっとかみ締めている。こうなったのも……ナナを泣かせることになったのも、全ては俺の思いやりに欠けた一言が原因だ。

 確かに、最近仕事も残業続きで苛立ちが募っていたのは事実だ。しかし、それでナナに対する思いやりを捨てていい理由にはならない。そのほんの少しの思いやりを、忘れさえしなければ……後悔の念が、頭の中をぐるぐる回る。

 けれど、後悔ばかりしていても何も始まらない。追い詰められた俺にできること、それは、今すぐナナの元へ駆けつけて、抱きしめてやることだけだ。


 それでいいですよね、姉さん!



 一時間ほどかけて、俺はやっとナナの部屋へとたどり着いた。じっとりと湿った階段を滑らないように昇って、二〇五号室の扉の前に立つ。そして俺は、ゆっくりとノブを回した。

「あれっ、鍵が開いてる……」

 意外にも扉はすんなりと開いた。こんな時間に、鍵もかけずにいたなんて。

「おーい、ナナ!」

 俺はまっくらな部屋の中で、ナナの名を呼んだ。返事は返ってこない。すぐさま俺は、部屋の照明スイッチを入れた。

「うっわっ! 派手にやらかしたな!」

 まず俺の目に入ったのは、フローリングの床の上に散乱する雑貨、小物類だった。おそらくナナが腹いせに、机の上の小物入れやらをひっくり返したんだろう。ピアスや指輪といったアクセサリだとか、本棚に並べてあった本だとかが、折り重なって床の上に落ちていた。

 俺はその中から、写真立てに入っている一枚の写真を見つけた。いつだったか俺の部屋で、二人で撮った写真だ。二人とも肩をピッタリ合わせて、笑顔で写っている。

もう一度、この二人に戻れるんだろうか。一抹の不安が俺の頭をよぎった。



「ナナ! ここにいたのか……」

 俺は視線を移すと、すぐさまナナを見つけた。ナナはベッドに寄りかかるようにして、ボーっと宙を眺めていた。もともと細い体つきのナナだけど、今の状態だとさらにその風貌が弱々しく見える。

 俺はナナの前に立ち、長い茶髪を撫でた。相当暴れたのか、髪もぼさぼさのままだ。俺はそのまま、その手をナナの白い頬へと持っていった。その時……


「痛っってぇ!」

 

 俺はつい大声を上げてしまった。というのも、ナナが突然、俺の手に噛み付いたからだ。びっくりして俺は手を引っ込めた。俺の右の手の甲には、赤い歯形がくっきりと残っている。

 ナナは視線を宙から、俺のほうに向けた。その目は、明らかに力を失っている。深い深い、悲しみを湛えた目だ。

「……カズキ」

 ナナはそう一言だけ、ぼそっと呟くと、俺の胸の中に顔を埋めた。ああ、とても寂しかったんだな……ナナの体から、その感情が手に取るように分かる。


 俺は何も言わず、ナナの細い体をぎゅっと抱きしめた。

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