祭りの日
十五歳になった甚四郎は、明日からの左義長祭りの準備に慌ただしかった。まだ伊吹山には雪化粧が残っているが、日増しに日差しが暖かくなってきている。町には梅の香りが漂い、吹く風も雪解けの季節が近い事を告げていた。
「甚四郎。すまんけど若いモン連れて山車を表へ運んでくれるか」
「へい」
八幡町の十三の町は、左義長の時にはそれぞれ意匠を凝らした山車を用意する。山形屋の店の前には大杉町で出す山車が置かれており、華やかな彩の意匠を施した竹や藁で作られていた。それぞれの町が思い思いにその年の干支をかたどって意匠を施すのが常だ。
山車には車輪は無く、若衆が肩で担ぐ神輿のような造りになっている。山車だけではなくそれを担ぐ若衆の衣装も華やかに飾り立てるが、見物客にとっては山車と共に若衆の衣装を見るのも楽しみの一つだった。
甚四郎は若手の一歳下の丁稚三名を呼ぶと、近所の町衆にも声を掛けて山車を表通りまで運んだ。明日は朝から日牟禮八幡宮に山車を担いで行き、御渡と呼ばれる初日の行事を行う。町中が祭りの空気に浮き立つ中、翌日の祭り当日を迎えた
「甚ちゃん。こっちおいで」
十七歳になった多恵が、外に出ようとした甚四郎に声を掛けた。多恵は近頃では八幡町でも評判の美人となり、働き者でもあるので、町の若い衆の間では誰が嫁に貰うのかと噂話が絶えなくなっている。
甚四郎は大杉町の若衆の一人として、女物の長襦袢の上から深紅に染め上げられた華やかな法被を纏っていた。頭には唐人傘を被るのが今年の大杉町の意匠だ。
衣装に合わせて甚四郎も顔に白粉を塗り、口には紅を引いている。甚四郎だけでなく、多くの若衆は左義長の時には化粧などを施して華やかさを演出していた。
突然甚四郎の目の前にぐいっと顔を突き出した多恵は、白い指を伸ばすと甚四郎の目の周りの化粧を直してくれた。いきなり多恵の顔と指が目の前に迫り、甚四郎の目が泳ぐ。多恵は変わらず真剣な顔で甚四郎の化粧を直していたが、甚四郎は恥ずかしくてまともに多恵の目を見られなかった。
――近い
多恵からは何故かいい匂いがして、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。目を逸らした先には多恵の胸元のふくらみが見えて、ますます甚四郎の鼓動が早くなる。
「甚ちゃんってさぁ……まつ毛が長くてキレイやんな」
「な、何言うてんねん! 男に向かって失礼やろ!」
「あら、褒めてるのに。よし、行っといで」
カラカラと笑う多恵に背中を押されながら表に出ると、利助の長男宗十郎が甚四郎と同じ衣装に身を包んで待っていた。
「あんまり堂々とイチャつくなよ。周りの目もあるさけな」
「いや、そんな……若旦那こそ、ようモテはるとえらい評判ですやん」
「ははは。俺のはただのおべんちゃらや。山形屋の若旦那言うたら、どこに行っても下にも置かん。けど、心から好いてくれる女子なんかおらんわな」
甚四郎は十九歳になる宗十郎の横顔を見た。化粧をしているとはいえ、整った顔立ちに切れ長の目とすっと通った鼻筋は、多恵に劣らず美男として町方の娘達の注目を集めている。今回の左義長祭りも、若い娘の中には大杉町の若衆代表を務める宗十郎を目当てに見物する者が少なくない。
――男前にそう言われても、嫌味にしか聞こえんな
甚四郎の心に思わず湧き起った想いは、声になることはなかった。
「ほな、行くぞ」
宗十郎の一言で大杉町の若衆が山車を担いで日牟禮八幡宮に向かって出発する。二十人からの深紅の集団は華やかさもここに極まれりといった様子で、町行く人たちも一様に振り返った。
方々から”気張って担げよ””見に行くさかいな”といった声が掛かる。甚四郎は何やら英雄に祭り上げられたような面映ゆい心持ちになり、知らぬ間に武者震いで胴が震えていた。
各町の代表が八幡宮に集合すると、まずは全員の前で神事が執り行われる。神主の祝詞を聞きながら、甚四郎も頭を垂れて祈りを捧げた。祝詞が終わると全員で柏手を打ち、いよいよ祭り本番が始まった。
町ごとに順番に山車を担いで八幡宮を出発する。魚屋町は目に鮮やかな浅黄色の法被、為心町は渋い藍色の法被を纏い、それぞれに町の威信を懸けて勇壮に競い合う。大杉町は三番目の出発だった。
暖かな日差しの中、宗十郎の一声で全員が力を込めて山車を担ぐ。頭分の宗十郎は山車の上に乗って掛け声をかける役目だ。祭りの主役ともいえるもっとも勇壮な役どころと言えた。
甚四郎の肩には山車に加えて宗十郎の重みが加わり、腰から太ももにかけてずしりと重みが増す。腰が崩れないように力一杯踏ん張り、全員で息を揃えて山車を持ち上げた。
「チョーヤレ!チョーヤレ!」
独特の掛け声を大声で発しながら各町を練り歩くと、周囲からは歓声が上がった。心なしか大杉町が通る時には黄色い歓声が多い気がした。
甚四郎は少し重さにも慣れてきて周りを見回す余裕が生まれていた。池田町の筋町を通る時には、朽木陣屋のお代官様や同心達も楽しげな様子で御渡を見物している。緋毛氈を敷いて杯を片手に見物し、まるで宴会のような風情で若衆を囃し立てた。
「チョーヤレ!」
ひと声大きく掛け声を掛けると、見物人からも歓声が上がった。
角を曲がって大杉町の山形屋の前を通過する時には、利助や利右衛門、庄兵衛らに混じって見物する多恵の姿も見えた。甚四郎は思わず張り切って声を上げ、その度に拍手と歓声が上がる。嬉しそうに手を叩く多恵の姿を見ると、不思議と力が湧き上がって来て、山車の重さも忘れるようだった。
町中を一巡すると、再び八幡宮に戻って山車を置く。体中がクタクタに疲れていたが、本番は明日だ。初日の上がりに若衆一同で酒を一献飲み干してから戻った。
「いやあ、ご苦労さん! 明日もがんばってや!」
山形屋に戻ると、店主の利助が参加した丁稚を労ってくれた。
差し入れとして酒と共に握り飯や鮎の塩焼き、キジ肉の味噌焼きなどが振る舞われる。いつも質素倹約とうるさい利助だが、祭りの日だけはこうしたハレの御馳走が食膳に並ぶ。祭りに参加する丁稚たちにとっても、特別な一日だ。
食事が終わって甚四郎が裏庭で一休みしていると、突然多恵が近くに寄って来た。
「お疲れ様。甚ちゃんよう声出てたやん」
「祭りやさかい、声も出すわ」
甚四郎はぷいとそっぽを向いたが、多恵は気にした様子も無くいたずらっぽい笑みを浮かべて隣に座った。甚四郎は祭りの興奮に体が火照って眠れず、体を鎮めようと涼みに来ていた。だが、多恵が隣に座ると再び体に火照りが巡ってくるような気がした。
「明日の奉納は八幡さんまで見に行くしな」
「勝手にせいや」
思わず突き放すように言い捨てる。近頃の甚四郎は、多恵とまともに目を合わせることも出来ないでいた。
――もうちょっと
上手く話せないものかと思う。だが、多恵を目の前にすると、どうしても憎まれ口を叩いてしまう。そうして後から自己嫌悪に陥るのもいつものことだった。
「うん。勝手にする」
多恵の方も負けずにあっけらかんと言い放つ。
本心は嬉しいと思いつつも、甚四郎はその気持ちをうまく言葉にできないでいた。
そうこうしている間に多恵は立ち上がって家の中へ戻っていく。甚四郎は去って行く多恵の後姿をずっと目で追っていた。