宗十郎
甚四郎が八幡町に戻ってから一年と少しが経った。
今では大杉町の山形屋本店でもそれなりの存在感を発揮し、充実した日々を送っている。
本店でも直接の小売がないことは無いが、江戸ほどの需要があるはずもなく、江戸から来る注文の商品を手配する事が甚四郎の主な仕事になっていた。
慣れない事務仕事に四苦八苦しながらも利右衛門に色々と指導を受けながら帳簿整理をしていると、段々と仕入れから販売までの物の流れが理解できるようになってきた。
蚊帳の原料になる綛を越前から仕入れ、染屋に出して萌黄色に染める。そこから、山形屋の蚊帳織小屋で生地に仕立てる。出来上がった蚊帳は生地のまま赤い乳縁を添えて反物にし、裁断して縫い合わせれば仕立て上がるという状態にしてから、八幡堀から船で大津に出す。
大津からは陸路で京を超え、淀川に出て大坂まで運び、大坂から菱垣廻船に乗せて江戸へ届ける。
織小屋では近郷の女達が数多く働きに来ており、その収入で家族を養っている者も居た。
それらの人々にとって山形屋の扱う蚊帳は貴重な収入源となっており、間違っても潰れるわけにはいかないという利助の想いがようやく実感として理解できた。
――茂七さんも気張ってるな
三番登を終えた茂七は、番頭として引き続き江戸日本橋店に勤務している。今年は日本橋店の蚊帳の仕入れが急拡大していた。一昨年は高い壁だった銀一千貫の売上だが、今年は当然のように達成できそうな勢いだ。
利助の度肝を抜いてやると気勢を上げていたあの頃が懐かしかった。
帳簿を繰っていると、丁稚から声が掛かった。
「甚四郎さん。旦那様がお呼びです」
「ああ、わかった」
何か問題でも起こったのだろうかと思いながら利助の私室まで向かう。普段の仕事は利右衛門から指示を受けるし、仕入れの相談ならば盆の営業報告の後になるはずだ。この時期に利助に呼び出される理由が今一つ分からなかった。
「旦那様、甚四郎です」
『入れ』と声がして襖を開けると、利助が何やら不機嫌な顔をして座っていた。利助の不機嫌は珍しくもないが、それでも思わず緊張してしまう。甚四郎はややぎこちない仕草で利助の前に進むと一礼して声を掛けた。
「お呼びでしょうか?」
「ああ、実はな、あの馬場が代官を降りる事になった」
「え?」
思わず喜色を表すと、利助はますます不機嫌になる。苦虫を噛み潰したような利助の顔に、逆に可笑しさが込み上げてきた。
「まあ、お前にとっては朗報やろうな。山形屋にとっては痛手やけど」
「はは……」
甚四郎にも利助の言いたい事は分かった。
首根っ子を抑えたまま出世させたかったのだ。馬場が出世すればするほど、山形屋にとっては有利になる。
弱みを握られたまま出世の手助けをされるのはある種の恐怖心を煽るようで、馬場丈右衛門は今ではすっかり利助の言いなりとなっていた。
「何か不始末でもされましたか?」
「あっちこっちの出張先で同じことをしとったらしい。村方から訴えられて蟄居のお沙汰が下ったそうや。あんだけ手間暇かけて飼い慣らしたのに、全部パァや」
そう言うと利助は手を大きく開いた。だが、言葉ほどには利助も困っている様子はない。そもそも最初から期待していなかったというのが本音なのだろう。
「結局阿呆では使い物にならんいうことやな。ま、それはええ。
そういう訳で多恵にはさっき暇を出した。晴れて自由の身や。父上が手ぐすね引いて待ってるさけ、仕事が終わったら別宅へ出向くように」
「はい。ありがとうございます」
甚四郎が頭を下げると、利助がニヤリと笑った。
「我慢せぇ言うたのにお前らがコソコソ会ってたんも知ってるぞ」
ギクッとして顔を上げると、利助と正面から目が合った。不機嫌な色は消え、揶揄する目の色に変わっている。
「いっぺんシメたらなあかんと思ってたところや。命拾いしたな」
「おかげ様で……いやぁ、お代官様に感謝ですな」
そう言って笑うと、利助も苦笑した。初めて心から笑いあえたような気がした。
確かに馬場丈右衛門は便利な存在だったが、真に人々の為に働いていたかと言えば疑問が残る。新たな代官が真に民の為に働いてくれる人であれば、それでいいではないか。
利助も甚四郎も、その想いは同じだった。
秋になると婚礼が執り行われた。
甚四郎は結婚を機に名乗りを中村甚兵衛に改め、名実ともに一人前の大人となった。
気付けば甚兵衛は既に二十三歳、多恵は二十五歳で、当時としては年増とまではいかないが若夫婦とは呼べない年齢だ。だが、甚兵衛は約束を守れたという満足感に満たされていた。
さらに三年が経ち、三番登を間近に控えた冬。甚兵衛は大番頭の利右衛門から驚くべきことを聞かされた。
「旦那様を『押込め隠居』に?」
「ああ、わしら別家衆一同からの申し入れで隠居してもらう事になった」
別家には主人の家督に口出しする権利があり、現当主が不適格であれば『押し込め隠居』によって強制的に隠居させる権限も持っている。現代で言う取締役会のような機能を備えていた。
「まあ、これには内々で訳があって……あ、ちょっと待て!」
利右衛門が慌てて止めるのも聞かず、甚兵衛は一目散に利助の部屋に向かった。
「旦那様!」
声もかけずに襖を開けると、利助が文机を前に何やら難しい顔をしていた。甚兵衛は鼻息も荒く利助の前に行くと、利助に噛みつくように身を前に乗り出した。
「旦那様!隠居の件聞きました。一体何でなんですか!
押込め隠居やなんて、おかしい話やないですか。大旦那様にご相談すれば……」
書面から顔を上げた利助は、面倒くさそうにため息を吐いた。
「ええんや。俺がそういう風に話を持って行かせたんや」
「え? それはどういう……」
甚兵衛の顔が困惑の色に変わる。利助は口が悪く人から恨みを買いやすいのは確かだが、山形屋の発展の為に貢献していることは疑いようがない。
それが自分から不行跡によって押し込め隠居に持って行かせたという。まったく意味が分からなかった。
「俺が思い描いていた事はもうあらかた出来たと思ってな。
江戸の支店もちゃんとした業績を出せるようになった。奉公人達も贅沢に溺れず、一意専心に商いに励むよう意識は変えられたと思う。思えば、父上が甘やかしすぎたのがアカンのやけどな」
「けど、それでも不行跡やなんてひど過ぎます。せめて普通の隠居になされれば」
「江戸の奉公人の中には俺の事を嫌っている奴も多い。今は店主への恨みやけど、俺が隠居すれば俺個人への恨みに変わる。それが押込められたと知れば、多少留飲は下がるやろ。結果として、山形屋は万々歳というわけや」
「……もしかして、その為に最初からキツく当たってはったんですか?」
利助がいつものニヤリとした笑みを浮かべる。
「言うたやろ。山形屋を保つためには何でもする。俺が当主であるかどうかなんぞ、些細な問題や。恨みは俺が抱いて行けば、後は新たな当主の元で商いに励んでいくだけでええ」
甚兵衛は絶句した。と同時に、妙に納得してしまった。
宗十郎とは、そういう男なのだと改めて思った。
「……これから、どうしはるんですか?」
「さあてな。ちょっとだけのんびりして、その後は小商いでも始めるかな」
「ほんなら、私も一緒に……」
「お断りや」
即座に断られて甚兵衛は面食らった。
「前に言った通り、俺はもともとお前が嫌いなんや。隠居してまでお前のツラぁ拝まなあかんと思ったら、気が滅入るわ」
――人の気も知らんで
さすがにそこまで言われて、甚兵衛も久々にカチンときた。
「旦那様、私は……」
「それにな」
話の出鼻をくじかれて甚兵衛は言葉を失う。そんな甚兵衛に構わず、利助は話を続けた。
「山形屋の看板外した俺に、それでもついて来ると言うてくれたんや」
そう言いながら、利助が隣の部屋に視線を移す。隣では妻のかつが永原町の隠居宅に持って行く荷物を長持ちに詰めていた。
かつを見る利助の目は、今まで見たことがないほどの穏やかさに満ちている。
「関東後家させとくのも申し訳ないと思ってた所やから、これからは二人でのんびりしようと思ってる」
近江の商人は関東に支店があり、結婚しても当主は関東と本店とを行ったり来たりしなければならない。八幡で待つ妻は、まるで後家のような生活をするところから関東後家と呼ばれた。
かつを眺める利助の顔を見て、甚兵衛はそれ以上は何も言えなかった。
ようやく利助も『一人の女』にうつつを抜かせる身になったのだ。そう思った時、甚兵衛は宗十郎の本当の姿を見た気がした。
「ま、そういうわけやから、邪魔するな」
話はそれで終わりとばかりに利助が手を振る。
色々と納得いかない気持ちは残ったが、ともあれ利助がそう決めたのならば甚兵衛にはどうしようもない。
大人しく利助の前を下がろうとする甚兵衛に対し、利助のぶっきらぼうな声が聞こえた。
「後のこと、頼んだぞ」
その言葉を聞き、甚兵衛はその場で深々と頭を下げた。
心なしか、利助の声が湿っていたように感じた。
翌月、利助は不行跡により家名返上となり、山形屋は父親の仁右衛門が再家督した。その後、利助の甥にあたる恒二郎がすぐさま家督を継ぎ、山形屋九代目甚五郎を襲名した。
新当主甚五郎はわずか八歳であり、当面は祖父の仁右衛門が後見となって成長を見守る事になった。
それまで代々の当主が継いできた『利助』の名は宗十郎限りとなり、以後山形屋の当主が利助を名乗る事は二度となかった。




